放課後になった。
 教師も生徒も、それぞれの目的を持ち、各々ばらばらに動き出す。

 詩織さんと亜門は風紀委員会の活動のために教室を離れ、勇人は三年生の先輩に呼ばれ、変な自信を持ったまま、サッカー部の助っ人に向かった。
 ぼくら、恋愛反対運動のメンバーはというと――。

「よし、お前たち。これより、恋愛反対運動名物、署名運動を行う」

 恋愛反対運動の一環として行う署名運動をするため、ぼくらは二年一組の教室前の廊下に集っていた。

 徹の前置きのあと、すかさず夏奈さんが威勢のいい声で「質問があります、代表!」と張り切りながら、徹に訊いた。

「なんだね、我が恋愛反対運動の期待の星、夏奈よ」
「例の署名運動ですが、一体どのような署名なのでしょうか。
 わたくし、先ほど亜門くんという賢そうな男子生徒にそれを訊いたのですが、彼は『ARC……つまりは恋愛反対運動の終わりを意味する署名ですよ』と言うだけで、何も教えてはくれませんでした。
 わたくし、悲しくて不良になりそうです。今すぐ、そこら辺の窓ガラスをすべて割りたいので、割ってもいいですか?」
「不良少女最高、おれのイライラ最高潮!
 お前はガッデム、おれもガッデム、お前のイライラ合点承知、絶好調なおれはお前にムラムラ、それはガッデム、おれはガム噛め、ガムガムカミカミガミガミ」

 夏奈さんにテンションを合わせたのか、それとも夏奈さんのテンションに釣られたのか、徹の発言も夏奈さん以上にぶっ飛んでいた。

「あ、うん。それで例の署名って、どういうもの?」

 さすがの夏奈さんもテンションを大幅に下げ、いつもの口調に戻った。

 気まずさを吹き飛ばすように、徹は軽く咳払いをしてから、夏奈さんの質問に答えた。

「聞いても驚くなよ、夏奈。さらに言うと、あきれるのもダメだ。感嘆の声を上げ、しばらくのあいだ、すばらしき余韻に浸っていろ。
 して、本題だが、我々は我が校の校則に『生徒の恋愛は禁止するべし』という一文を追加するため、愚か者に後ろ指をさされても、めげずに署名運動を行っているのだよ」
「そ、そうなんだ……きみたちって、なんだかすごいね」

 すごいと言いつつも、苦笑いをするほどに引いた様子の夏奈さん。

 だが、署名運動についてはまだ続きがあったため、いてもたってもいられなくなったぼくは、徹が続きを話す前に「実はね、署名運動の説明はそれだけじゃないんだ」と早口になりながら、話に割り込んだ。

「うちの高校の生徒は約四百人いるんだけどさ、そのうちの四分の三が署名すれば、ぼくらの署名運動は成功するんだ。
 というのも、うちの校長、杉山(すぎやま)校長がそのように約束してくれてね。
 これはつまり、ぼくらの署名運動を認めてくれた何よりの証拠だよ」

 ニコニコと説明するぼく。
 そんなぼくをうさんくさそうに見つめる夏奈さん。
 今は気分がいいため、それで不機嫌になることはなかったが、それでも心にグサリとくるものがある。

 そのとき突然、環奈が吹き出した。

 引きつった笑みのぼくが環奈を見ると、彼女は「ごめんなさい」と謝ってから、笑ったわけを話した。

「二人にとって、この署名運動はそういう誇りのあるものだとは分かるけど……それでもね、恋愛反対運動のメンバーであるわたしから見ても、杉山校長の約束は決して署名運動を認めたわけではないと分かるのよ。
 むしろ、わたしたちや署名運動のことをバカにしているわね、ええ。
 生徒たちの署名が四分の三に届くことはないと、杉山校長は思っているのよ。
 つまり、わたしたちのことを甘く見ているのね。
 それだけは間違いないと、わたしは自信を持って言えるわ。
 だからね、それを考えたとき、つい吹き出してしまったのよ。
 翔ったら、どうしてくれるの。ちゃんと責任取ってよね」

 いつの間にか、環奈はぼくをにらんでいた。
 そんな目でそのように言われても、ぼくにはどうしようもない。
 それとも思春期の少年らしく、「ちゃんと責任取ってよね」の部分で興奮すればいいのだろうか。
 少なくとも、環奈では興奮できないし、したくもなかった。

 …………。
 いや、前言撤回。

 いざそういうときが訪れたら、やはり興奮するのかもしれない。

 そんなことを考えていたら、環奈はさらにぼくをきつくにらんできた。
 卑猥なことを想像中、ぼくはどのような顔をしていたのか知らないが、これは気まずい。

 こほん、と遙香さんは咳払いをして、ぼくらの注意を自分に向けた。

「醜い争いはともかくとして……夏奈のために話をまとめると、徹くんたちは気色悪い校則を追加するため、日夜生徒たちを脅し、署名をさせているというわけよね」
「……気色悪い、ですって?」
「日夜ではない。主に放課後だ」
「脅していないもん! わたし、そんな悪い子じゃないのに……遙香ちゃんったら、酷いや」

 遙香さんの容赦ない言葉に対し、ぼく以外の古参メンバーは、それぞれ反応を見せた。
 環奈は露骨に嫌な顔をしてみせ、徹はいかつい顔で否定し、茜など涙目になって悲しんでいた。

 おのれ、遙香さんめ。

「おいおい、遙香さん。それに夏奈さんもさぁ……せっかく恋愛反対運動に入ることができたんだ。
 もっとこう、肩の力を抜けよ」

 ぼくは深呼吸の真似をし、リラックスするようになだめた。
 だが――。

「だって、わたしは恋愛反対運動が大嫌いなんだもん」
「それ、分かる。わたしなんて、本当はそんな意味不明な反対運動なんかと関わり合いを持ちたくなかったしさ」

 遙香さんと夏奈さんは互いにうなずき、屋上での発言とはまったく異なることを言うのだった。

 こいつら、正気か?

 ぼくは彼女たちの正気を疑った。

 あの徹でさえ、目をまん丸くし、口を大きく開けたまま、驚いているのだ。
 なので、いぶかしんだり驚いたりしないほうが、それはそれで酷というもの。

 見よ、茜なんて捨てられた子犬のような顔をしているではないか。
 環奈は……なるほど、叱られたときの子猫のようにかわいくしゅんとなっている。

 なんだろうか、アホ面の徹はともかくとして、この二人を見ていると胸がキュンとなってしまう。
 ぜひとも、この二人をペットにしよう。

 そんな危険な想像をしているうちに、徹たちの会話は進んでいた。

 ぼくが我に返ったとき、徹は三つのクリップボードに挟まれた署名用紙とボールペン、それらをスクールバッグから取り出していた。

「今からこれをお前たちに配ろうと思うのだが……お前たち、よく聞け」

 この前振りを聞き、古参メンバーは誰しも苦笑を浮かべた。

 どうやら、滅多に起こらない徹の発作が始まったようだ。

「これを配るということは、すなわち人を殺すということだ。
 いいか、この三点セットはな、ふだんはものすごーく地味にしているが、獲物を見つけた途端、“奴ら”は殺人兵器と化す。
 いいかいいか、まじめな話、これを手に持つということは、おれたちは人間をやめるということだ。
 かの有名な歴戦のスナイパーでさえ、“奴ら”を手に持つときは“奴ら”に呑まれないよう、舌を噛むことで痛みを味わい、自分が人間だということを思い出しているというのだから、恐ろしいったらありゃしない。
 そうさ、これは単なる地味な三点セットなんかではない。人間が人間でなくなる世にも恐ろしい殺人兵器なのだよ。
 ――長くなったが、ここまで説明したことには意味がある。
 それはだな、生半可なお前たちにその覚悟ができているのか、できていないのか。それをおれが知るためだ。
 なあ、お前たち。どうか、仲間を地獄に落とそうとしている愚かなおれに教えてくれ。
 人間をやめる覚悟は……できているか?」

 必死に話したのだろう、徹はゼイゼイと息を切らしていた。
 ぼくらは生返事をしたが、徹にはそれだけで充分らしかった。

 徹は銃声飛び交う戦場にでもいるつもりなのか、敵の攻撃で命をなくした味方のアサルトライフルをこちらに託すかのごとく、ぼく、夏奈さん、環奈の順にクリップボードを強く押し付けた。
 男のぼくは乱暴な渡し方でもいいが、女性二人は見るからにピキッときたようだった。

「徹、胸にクリップボードが当たったのだけれど」
「あのさ、徹くん。気のせいか、クリップボードが胸に――」
「一組目は翔と遙香だ。して、二組目はおれと夏奈で、三組目が環奈と茜だな。
 ――さあ、お前たち。待ちに待った殺し合いの時間だ。最高のチームで存分に暴れ回ってこい!」

 環奈と夏奈さんの告発もむなしく、徹は豪快に笑うと、夏奈さんの首根っこをつかみ、彼女をずるずると引きずっていった。

 かわいそうに。

「た、助けて……わたし、徹くんに殺されちゃうよぉ」

 徐々に遠ざかっていく涙目の夏奈さんをぼくらは見捨て、徹の指示どおりにぼくらはチームを作った。

 署名用紙が挟まれたクリップボードを抱えながら、ぼくらはそれぞれ動き出した。