ぼくは夏奈さんと屋上に入ってすぐ、きょうの天気がどんよりとした曇り空だということに気付き、思わず赤面した。

 何が“とびきり夏の匂いがする屋上”だ。
 屋上は夏の匂いに満ちているどころか、屋上全体に夏の臭気が漂っていて、それが原因だろう、すべてにおいて夏の活気さが失われていた。

 ではあるが、暑いことに変わりはなかった。
 いや、正確には“蒸し暑い”という表現を使うべきだろうが……何はともあれ、徹たちが暑さで干からびることはないと分かったのだ。
 ここはそれでよしとしよう。

 徹たちの姿はこちらが探さなくとも、すぐに目に入った。
 景色がよく、町を一望することができるフェンス前――そこに徹たちはいた。

 ここで重要なのは、恋愛反対運動のメンバーのみならず、遙香さんや詩織さん、勇人の三人もその中に交じっていたことだ。
 まるで、この場に夏奈さんが来ることを予期していたかのようである。

 ぼくと夏奈さんは屋上の出入り口から離れ、徹たちがいる場所まで向かった。

 ぼくが彼らに声をかけようと手を挙げたとき、徹がこちらに気付いた。
 徹がこちらを振り返ったことにより、残りの者もぼくと夏奈さんに視線を向けた。

 ぼくは笑みを浮かべようとしたが、徹のギラリとした目を見て、あわてて笑みを奥に引っ込ませた。
 この徹の目……間違いない。
 彼は本気で怒っている。

「遅かったではないか、翔。貴様が定例会議に遅れたおかげで、我々は実に有意義な時間を過ごせたよ。
 お前という邪魔者がいないだけで、これだけ違うのなら、お前はやはり不必要だ。
 我々を不快にさせるつもりなら、これからもその調子で定例会議に遅れるがいい。この浮気者が!」

 口の悪い徹らしい、遠慮のない物言い。

 こういうとき、人はどう反応すればいいのだろう。
 笑えばいいのだろうか? それとも、徹と同じように怒ればいいのだろうか?
 とりあえず、少しは反論のひとつでもしてみなければ、こちらの気が済まない。

「徹はぼくを責めるけど、そもそもの話、これは何時何分までに屋上へ来い、と指定しなかった徹の落ち度じゃないのか? それにお前は『昼食後』としか指定しなかったぞ」

 徹の片眉がピクリと動いた。

 まさか、このぼくから反論されるとは思わなかったのだろう、徹は怒りと驚きをミックスした複雑そうな顔をすると、こちらに詰め寄った。
 人間というものは素直なもので、ぼくは危険を感じ、一歩二歩と後ろに下がった。

「なぜお前は逃げるのか」

 そう不思議そうに首をかしげる徹だが、彼の目は爛々と輝き、まるで獲物を捕らえようとする獣みたいで、正直怖かった。

 しばらくのあいだ、ぼくらは謎の見つめ合いをしていた。

 けれど、その時間が徹を冷静にさせたらしく、急に彼は落ち着き払った様子で「夏奈も連れてきたか」と夏奈さんのほうに目を向けた。

「どうだ、少しはクラスに慣れたか。お前にとって、あの教室が居心地のいいものとなれば、おれたちも少しは報われるのだが……正直のところ、居心地はどうだ?」
「うん、それがさ、もう最高だよ。だってね、前にいた高校とは比べものにならないほど、ここは居心地がいいもの」

 浮き浮きとした様子で話す夏奈さん。

 一方、徹は浮かない顔をしていた。

「ふむ、そうか。つまり裏を返せば、転入前の高校は夏奈にとって居心地の悪いものだった、ということかね」

 夏奈さんは少しだけ目を伏せたが、すぐに明るさを取り戻した。

「ほら、わたしってば、前の高校では友達いなかったからさ、うん。だから、ここは理想どおりの居場所ってわけ」

 つらいことでも思い出したのか、そこで夏奈さんは息をついた。

「うん……そうなんだよね。わたしが前の高校を転校した理由って、そういう理由からなんだよね」

 そう夏奈さんは自分で口にしたものの、なんだか納得いってなさそうな口振りだった。

 みんなは夏奈さんに同情したような表情を浮かべていたが、ぼくは怪しさを感じ、思わず怪訝な顔をしてしまった。
 すると、ぼくの反応を目撃した遙香さんは、みんなと同様の反応をしろとばかり、腕組みをしてこちらをにらみつけた。

 今さら新たな反応をするのも馬鹿げたことだったので、とりあえずぼくはふだんの表情に戻ることにした。

 ここで説明しなければならないが、ぼくは夏奈さんがこちらのウソに気付いていると知り、不本意ながらも夏奈さんを警戒している。
 それとは別に、夏奈さんの真意を探るため、彼女をよく観察していた。

 もちろん、遙香さんと夏奈さんの応援は続けたいとは思っているが、それとは別の話だ。

 それに――夏奈さんはぼくらに“何か”を隠している。
 家の前の血痕、肉片、服の切れ端、死を暗示するような言葉、そして極め付きはぼくらのウソさえもどうでもよくなり、もう意味がない、と言い切った夏奈さんの寂しそうなほほ笑み。
 これらは夏奈さんの身に何かが起こったという証拠に違いない。

 真実。
 そう、ぼくは真実が知りたい。
 そのためには心を鬼にし、思考を名探偵にして挑まなくてはならない。

 だから、どうか遙香さん。
 そんな怒った目をしたまま、ぼくをにらまないでほしい。

 そのとき、雰囲気作りの王こと、勇人が「まあまあ、みなさん」と穏やかな声を出した。

「何はともあれ、今の夏奈さんは居心地のいい高校に巡り合えたんです。それでよしとしましょうよ。
 それ以上は野暮というものです」

 誰が聞いたとしても、勇人の言葉には説得力があった。
 そして、この勇人の言葉は夏奈さんを励ました。

「勇人くん、だっけ? うん、そうね。それ以上は野暮よね。
 わたしったら、柄にもなくセンチメンタルになっちゃって……まあ、たまにはよかろう」

 夏奈さんのポジティブな言葉を合図に、それぞれぼくらは表情を明るくした。

 そうだ、そのとおりだ。
 心を鬼にし、思考を名探偵にするのもいいけど、夏奈さんと過ごす時間を楽しまなくては何が青春だ。
 今という青春を活用するための恋愛反対運動のメンバーが、聞いてあきれる。

 そうさ、ぼくはこの青春を大事にしなくてはならない。

 そんなぼくの心の声が聞こえたかのように、茜が元気のいい声で「大丈夫だよ、青春の神様はわたしたちを見捨てない。わたしたちの未来は青春の神様がいいものにしてくれるもん。わたしはね、青春の神様を信じるよ」と言い、まぶしい笑顔を浮かべる。

 すると、詩織さんが不思議そうに首をかしげた。

「青春の神様……? そのような神様がいるとは、初めて聞きました。それは一体、どのような新興宗教なのですか?」
「へ? えっと、えっと……」

 かわいそうなことに、茜は言葉を詰まらせ、そのまましゅんとなってしまった。

 生真面目な性格の詩織さんには悪いが、もうちょっと頭を柔らかくして考えることはできないのだろうか。
 これではせっかくの雰囲気が台無しだ。

 これには詩織さんのライバルである環奈も、あきれながら笑った。

「無知な詩織に教えてあげるけど、青春の神様っていうのは信じる者だけに存在する日常の神様のことよ。だから、宗教上の神様とは似て非なるものなの。……少しは分かった?」

 環奈の説明を聞いた詩織さんは納得したように何度かうなずき、「なるほど、そっちの神様でしたか」と今度は大きくうなずいた。

 情けない。

 はあ、とぼくがため息をついたとき、夏奈さんが「そういえばさ、遙香。あんた、あのおっかない教師と何をそんなに長く話していたの?」と遙香さんに先ほどのことを訊いた。

「ふぇ?」

 かわいらしく遙香さんはおかしな声を上げ、首をかしげた。

 かわいい。

 その直後だ。

「いや、『ふぇ?』じゃなくって……小暮先生と何をそんなに長く話していたのか、って訊いているの。
 まさかのまさか、あいつと昼食をともにしたっていうんじゃないよね」

 遙香さんの素っ頓狂な声が不快だったのか、それとも遙香さんが小暮先生と一緒にいたこと自体が嫌だったのか、夏奈さんは顔を歪め、声を荒らげた。

 すると、間髪をいれずに遙香さんは「あの人と昼食は一緒に食べていないし、それどころか、わたしは昼食を食べていない。小暮先生に叱られていただけ」と早口でしゃべった。

 彼女の恐ろしく早口なしゃべり方に、夏奈さんのみならず、ぼくらもあっけにとられてしまった。

 遙香さんは怒っているのか、目が細くなっていた。

 夏奈さんは気まずげにそっぽを向き、「ああ、そうですか。ごめんなさいね、強い口調で言ってしまって」と唇をとがらした。
 売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、遙香さんは「そうですね。思う存分、反省してください」と嫌みを倍にして返した。

 一瞬にして、その場は重苦しい雰囲気に包まれてしまった。

 それをなんとかしようとした結果なのか、徹はいつも以上に厳粛な声で「それでは、第七十八回恋愛反対運動定例会議を始める」とぼくらに告げた。

 今か。今なのか、徹。

 そのときだった。

 夏奈さんが手を挙げたかと思えば、彼女は徹に向かって「ねえ、徹くん。わたしも恋愛反対運動のメンバーに加わっても……いいかな?」とおずおずと訊いたのだ。

 さすがの徹もこれには驚いたらしく、しばらくのあいだ、彼は口を半開きにしていた。
 かくいうぼくも、口からヨダレが出るほど驚いてしまった。

 あのとき――ぼくが恋愛反対運動の説明をしたとき、夏奈さんはぼくがいる前で吹き出したのにも関わらず、今は恋愛反対運動のメンバーに加わりたい、だって?
 解せぬ。

「おれは別に構わぬが……ほかのみんなはどう思っているのか分からんな。
 ――おい、お前たち。それでいいか?」

 徹の言葉からは動揺したような感情が伝わってきたが、それでも徹は夏奈さんに恥をかかさないよう、ぼくらを威圧した。

「あ、わたしは別に全然いいわよ。ねぇ、茜」
「うん、わたしも賛成かな。……あれ、翔くんは?」

 環奈と茜はともに賛成すると、まだ賛成もしていないぼくをじっと見つめた。
 焦ったぼくは何も考えないまま、「同じく賛成さ」と爽やかな笑みを浮かべた。

 いや、本当に賛成か?

 そのとき、あわてたような遙香さんの「ちょっと待った!」という声が響いた。

 ぼくらは何事かとばかり、遙香さんに視線を向けた。
 遙香さんはぶすっとしていて、とてもこちらから声をかけられる状態ではなかった。

 こちらが何も言わないのを見て取ると、遙香さんはさらに不機嫌そうにため息をつき、驚くべきことを言い出した、

「夏奈が恋愛反対運動のメンバーになるんだったら、わたしも恋愛反対運動に入らせてもらう。
 だけど、みんなは何も文句なんてないよね?」

 見るからに徹はいぶかしんだ。
 けれど、ぼくは違った。

「なんだと? それは一体――」
「賛成! よし、決まりだ。徹、それにみんなも……酸性雨の万歳ー!」

 ぼくは一人勝手に盛り上がり、万歳を繰り返した。

 こちらが驚くほど、みんなはぼくの行動に引いていた。
 環奈など、露骨に嫌な顔をしていたし、遙香さんなんて真顔でぼくを見つめていた。

 ぼくは万歳と叫ぶのをやめ、こほんと咳払いをしてから、徹の代わりに「と、そういうことだから、すでに二人は我が恋愛反対運動の一員だ。よかったな、二人とも」と新メンバーの二人にほほ笑んだ。
 相変わらず、遙香さんは真顔でいたし、夏奈さんは苦笑していた。

 あれ、うれしいのはぼくだけか?

 もっとも、ぼくは好きな人が恋愛反対運動に加入してくれたことがうれしいのであって、もう一人の夏奈さんが加入してくれたことについては、遙香さんの加入でうれしさがかすんでしまった。
 いや、本当のところ、ぼくは夏奈さんの加入をうれしがってはいないのかもしれない。

 このモヤモヤは一体なんだろうか、このモヤモヤは。

 徹たち三人を見ると、彼らも浮かない顔をしていた。
 詩織さんや勇人でさえ、この雰囲気の何かを察したようにうつむいていた。
 今や、遙香さんと夏奈さんは互いに無表情だった。

 このような雰囲気になる原因を、ぼくは知っている。
 けれど、それはぼくらには関係のない話ではなかったのか?
 そのような要素など、ぼくらには何もなかったはずではないか。
 それなのにどうして、こんな……こんな思春期の少年少女に起こりうる“新参を嫌う”雰囲気になってしまったのだろう。

 嫌だ、こんなことは絶対に間違っている。

 かくいうぼくも、その雰囲気に呑まれていた。

 いや、違う。
 そうではない。
 全部、これはぼくのせいだ。
 なぜなら先ほど、ぼくが遙香さんの加入だけ盛り上がったせいで、それぞれそのような雰囲気になってしまったからである。

 これは……ぼくのせいだ。

 そのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが、校舎いっぱいに鳴り響いた。

 ぼくのみならず、それぞれが悪夢から目を覚めたように息を呑んだ。

 悪夢……そう、これは悪夢だ。
 ぼくらは悪夢を見ていたんだ。

「まずいな、チャイムか……急いで教室へ戻らなければな。次の授業は確か……」
「国語総合でしたから、小暮先生ですわね」

 徹と詩織さんの会話後、全員が全員、ぼくらはパッと動き出した。

 屋上を出たぼくらはあわてて階段を駆け下り、急いで廊下を走る……そうしているあいだに、少なくともぼくは先ほどの悪夢を忘れられた。
 それはほかのみんなも同じらしく、彼らはぼくのように笑みをたたえ、それぞれ今を楽しんでいた。

 これですべて元通り。
 これで何も問題はない。

 すべて元通りで、何も問題は……ない。