ダイニングにて。

「お母さん、ウスターソースちょうだい。やっぱり、目玉焼きにはソースだよね」
「あら大変! そういえばウスターソースを切らしていたんだわ。
 わたしったら、おっちょこちょいなんだから……天音、バカなわたしを許してね」
「お母さんのバカ! ウスターソースを切らすなんて、ウスターソースの神様に申し訳が立たないじゃん。
 あぁ……ウスターソースの神様、くわばらくわばら」

 大浦家の朝食は、きょうも騒がしい。

 時刻は午前七時半を少し過ぎたところ。
 きょうは土曜日という休日のため、平日よりも朝食は遅めに摂っている。

 今しがた、きょうも大浦家の朝食は騒がしいと言ったが、きょうは特に騒がしかった。

 姉は朝食を食べるのをやめ、一心不乱に祈り、母はウスターソースの神様とやらに向かって、一心不乱に懺悔をしていた。
 父――大浦隼人(おおうらはやと)はスマートフォンを使って、一心不乱に動画サイトを音量うるさめで視聴していた(おそらくは父が大好きなゲーム実況者、サイゾウの雑談生放送だろう)。

 父は一七五センチメートルを超える身長だが、最近になって中年太りに陥ったらしく、以前の男らしい外見ではなくなってしまった。
 父いわく、男は中年太りからかっこよくなるらしい。
 だが、それは暴論だろう。

 その証拠に、前の父はがっちりとした体型だったのに対して、今は体型がっちりというより、食事がっつりをイメージするような体型へと変わり果ててしまっていた。
 もちろん顔には肉が付き、顎など二重顎になりつつあった。

 ではあるが、相変わらず、父の威厳は変わらない。

 そのため、ぼくは例の一件を家族に打ち明けることで、父に叱られるのではないかと思い、カミングアウトができずにいた。

 いや、確実に父はぼくを叱るだろう。

 やはり子どものぼくにとって、父という存在は偉大であり、同時に畏怖する存在でもあるのだ。
 一言で言えば、父に言い出しづらかった。

 けれど、このままぼくが言い出せず、あるいは父をはじめとした家族に納得してもらえなかった場合、ぼくら家族は遙香さんによって皆殺しにされてしまう。
 それだけは回避しなくてはならない。

 そうだ、ぼくは家族を守るのだ。
 家族から叱られるためではない。
 家族を守るため、家族と戦うのだ。
 家族を――守ろう。

 えへん、えへん。

「翔ったら、うるさいわよ。
 あんたはね、おとなしく牛乳を飲んでいればいいの。そんでもって、あと数センチは背を伸ばすこと。オーケー?」

 姉は手に持った箸で、ぼくを指差した。

 なんとも行儀が悪い。

 さすがの母も姉の行儀の悪さを気にしたらしく、「行儀が悪いわよ、天音。いつからあんたは、そんなはしたないレディに成り下がったのかしら」と先ほどまでしていた意味不明な懺悔をやめて、姉を叱った。

 だが、それでくじけるような姉ではなかった。

「ねえねえ、行儀が悪いのはお父さんのほうじゃないの? ほら、食事中にも関わらず、食事を食べずに生放送を見ているなんて、論外。それを注意しないお母さんも論外。
 論外夫婦。論外論外論外……あ、ひらめいた! 二人とも、幼稚園からやり直したほうがいいんじゃない?」

 好き勝手に言いたい放題の姉に対し、母は机の上に箸を叩き付けた。

「親に向かって、なんて口の利き方! そんな口の利き方をしていたら、今にあんた、友達が全員いなくなるわよ」
「孤独なお母さんとは違って、わたしは友達百人いるもんね」
「……天音、あんたは目玉焼きに醤油をかけられると、ウスターソースの神様に祟られるんだったわよね」

 母の言葉を聞いてもなお、姉はきょとんとしていたが、母が机中央にある醤油入れに手を伸ばすと、姉は真っ青になり、母に謝り出した。
 母は勝ち誇ったような笑みを浮かべると、満足した様子で醤油入れを元の場所に戻し、これにて一件落着――なわけない!

「……実はぼく、隣人の遙香さんと恋人のふりをすることになったんだ」

 ぼくは家族全員に向かって、単刀直入に話を切り出した。
 直後、三人はバッテリー切れのロボットのごとく、ピタリと動きを止めたかと思えば、信じられないという顔付きで、こちらを凝視した。

 あっという間に、食卓は重苦しい雰囲気に包まれた。
 気まずい。

 最初に言葉を発したのは、やはり父だった。
 もちろん父はスマートフォンをミュートにし、雑談生放送の視聴をやめていた。

「ほかにも何か事情がありそうだな、翔。どうして遙香ちゃんと恋人のふりをすることになったんだ?」

 ぼくは父を畏怖するあまり、父の顔をまともに見られず、しばらくうつむいていた。
 けれど、これではダメだと思い、ぼくは勇気を振り絞って、父の顔を見すえた。

 父は怒りで興奮しているのか、鼻息が荒かった。
 しかし父は無表情のままだったので、ぼくはなお恐ろしかった。

 ぼくは自分が聞いた遙香さんと夏奈さんの事情を、すべて父たちに話した。
 このような事情のため、ぼくと遙香さんは恋人のふりをしなければいけないということ、そのすべてを打ち明けた。

 いや、ひとつウソをついた。

 ぼくと遙香さんの駆け引き以外は、すべて父たちに情報を開示した(姉はともかく、両親がそのことを知ったのなら、ぼくは両親から勘当されてしまうに違いない)。

 途中から、父は目を閉じてしまったが、それでもぼくは話すことをやめなかった。

 そうさ、ぼくは卑怯者だ。
 好きな人との接吻をかなえる代わり、首を縦に振った卑怯者だ。
 それは否定しようがないだろう。
 けれど――。

「ぼくは遙香さんの行いを悪いとは思わないよ。
 だってさ、遙香さんは夏奈さんと友達になることを、ただ純粋に願ったんだ。
 その結果が夏奈さんをウソでだますことになるとしても、ぼくはそれを立派だと断言できる。
 それに遙香さんは夏奈さんをだますことが目的じゃない。
 ――再び夏奈さんと友達になって、彼女と見た流星群の思い出を大事にすること……それが遙香さんの目的であり、願いなんだ。
 ぼくは彼女の願いをかなえてやりたい」

 その言葉を最後に、ぼくは話を終わらせた。

 母と姉は父に目を向け、父が判決を言い渡すのを今か今かと待っていた。
 それはぼくも同じだったが、ぼくの場合はさらに複雑だ。

 父の判決次第では、大浦家が遙香さんによって皆殺しにされることをぼくは知っているため、ぼくは証言台に立つ被告人の気分を味わうとともに、恐怖も抱いていた。

 やがて、父は閉じていた目を開けた。
 父の表情は穏やかで、ぼくを叱ろうなどとは微塵も思っていない様子だった。

「お前も立派に育ったな。
 物事の悪いところを見るのではなく、物事のよいほうを見ようとするのは立派になった証だ。
 翔、お前は善意と悪意を区別している。
 これは誰にだってできることじゃない。そうさ、誇っていいことだ」

 この父の言葉を聞いた母と姉は、ほっとしたように胸をなで下ろした。
 ぼくも安堵のため息をつこうとしたが、それからすぐに父は「だけどな」と強面になる。

「そのお前の選択が吉と出るか凶と出るかなんて、誰にも分からないことだ。
 お前たちがしようとしていることは、人を不幸にすることでもある。当然、人を傷つけもするだろう。分かるな?」

 ぼくはこくりとうなずき、「どういう結末になっても、ぼくらは受け入れるよ」と父の目をまっすぐ見ながら答えた。
 それを聞いた父は表情を和らげた。

「いいだろう。我々にも協力できることがあったら、きみたちに力を貸そう。それでいいな?」

 父はほほ笑むと、ぼくにウインクを送った。

「がんばれよ、翔」

 話せば分かる――それが家族なのだろう。

 ぼくは目頭が熱くなった。

「ありがとう、父さん」