神に選ばれなかった者達 後編

かつては自分も母親に愛されていた時期があったのかと思うと、信じられない気分だ。

…いや、違うか。

愛されていたのではない。…あの人は、自分にとって価値のあるものを必要としていただけだ。

そういう人だった。

美人で、賢くて、ストイックな努力家で。

俺は生まれてこの方、母が笑うところを見たことがない。

他人に厳しくて、容赦がないけれど。

自分に対しても、厳しくて容赦のない人だった。

何事も、中途半端にするということがなくて、何もかもが完璧でなければいけなくて。

そして、同じことを息子である俺にも求めてきた。

俺は、母に優しくしてもらった記憶がない。

優しく抱き締めてもらったことも、励ましてもらったことも。

甘えさせてもらったことも、我儘を聞いてくれたこともない。

そもそも、俺は母に我儘を言ったことはない。

聞いてもらえるはずがないと、分かっていたからだ。

いかなる時でも、人に優しさを見せることはなかった。

母にとって、優しさというのは、甘え以外の何物でもなかった。

他人に優しくするということは、それが例え我が子に対してであっても、他人を甘やかすという行為であり。

他人を甘やかすことは、優しさではない。

本気でそう思い込んでいる人だった。

例えば、自分の子供が外を歩いている時に転んだら、どうする?

子供が転んで、座り込んだまま泣き出したら。

普通の親だったら、振り向いて、引き返して、抱き上げるだろう。

あるいは、「痛かったの?大丈夫?」と聞いて、手を差し伸べるだろう。

でも、母に限って、そんなことは有り得なかった。

彼女は、子供が転んで泣き出したとしても。

軽く一瞥して、冷たくこう言い放つ。

「早く立ち上がりなさい。泣いていても誰も助けないわよ」と。

そして、こう続ける。

「自分で立ち上がれないなら、あなたに価値はない。この場に置いていくわ」

と言って、さっさと歩き出してしまう。

母親がこちらを見向きもせずに、さっさと歩いていってしまったら。

子供は置いていかれまいと、泣くのをやめて立ち上がり、追いかけてくる。

そうするしかないだろう?

母は有言実行の人だ。

用はない、置いていくと言ったら、本当にそうする。

実際、俺もそれで置いていかれたことがある。

あれは確か、2歳だったか3歳だったか。

転んで、怪我をして、それが痛くて。

立ち上がれずにいたら、母はそのまま歩いて立ち去ってしまった。

結局俺はその場で泣きじゃくり、泣いて泣いて…それでも、母が戻ってきてくれることはなくて。

泣き疲れて、俺は立ち上がった。

痛みを堪えながら、何とか家まで歩いて帰った。

それでも母は、俺に慰めの言葉も、優しい言葉も、一つもかけてくれなかった。

そんなことがあって、俺は幼い頃から学習していた。

この母親は、俺が例え転んで起き上がれなくなっても、決して助けてはくれない。

それどころか、自分についてこられないなら、その場に捨てていくのだということを。