名前のない香水

スターターの合図が、
空気を切り裂く。

一斉に、
走者たちが前へ飛び出した。

選抜リレー。

歓声が、
一段、音量を上げる。

一花は、
人の波の向こうに、
桐谷を見つけていた。

無駄のない動き。

地面を蹴る足が、
まっすぐ前へ伸びる。

さっきまで、
自分のことを見ていた人が、
今は、前だけを見て走っている。

その姿が、
少し遠くて。

少し眩しい。

バトンが渡る。

息が詰まる。

桐谷が、
最後の直線に入った。

声が、
喉の奥までせり上がる。

名前を呼びたいのに、
音にならない。

代わりに、
胸の奥が、強く鳴った。

——走れ。

そんな言葉が、
いつの間にか浮かんでいる。

桐谷は、
一度も振り返らない。

ただ、
前だけを見て、走る。

その背中を見ながら、
一花は思った。

あの時、
立ち止まらせてくれた人がいるから。

今、
こうして、走る姿を見ていられる。

ゴールテープを切る瞬間、
歓声が、弾けた。

結果は、
どうでもよかった。

一花の胸には、
確かに、残った。

揺れる鼓動と、
追いかけた背中。

それだけで、
この瞬間は、十分だった。