名前のない香水

グラウンドに近づくにつれて、
音が、はっきりしてくる。

太鼓の音、
放送の声、
重なり合う歓声。

一花は、
その中に戻っていく感覚を、
静かに確かめていた。

その時。

「一花!」

聞き慣れた声が、
風を切る。

振り向くより先に、
夢が走ってきた。

少し息を切らして、
一花の前で立ち止まる。

「もう大丈夫なの?」
「無理してない?」

夢の目は、
ごまかしを許さない。

一花は、
小さく笑って、頷いた。

「うん。もう大丈夫だよ」
「……あの時の、桐谷くんの判断、正しかったみたい」

言葉にした瞬間、
胸の奥が、すっと落ち着いた。

夢は、
一花の顔をじっと見てから、
安心したように息を吐く。

「そっか」
「じゃあ、戻ろっか」

夢と並んで歩く。

人の輪の中へ、
ゆっくりと。

一花は、
ちゃんと、自分の足で戻れた。

ちょうどその時、
放送が、校庭に響く。

「これより、選抜リレーを開始します」

ざわめきが、
一段、強くなる。

視線の先。

トラックの向こう側で、
ゼッケンをつけた桐谷が、
準備をしていた。

真剣な横顔が見えた。

あの時とは違う距離で、
同じ場所にいる。

一花は、
その姿を見つめながら、
胸の奥で、静かに思った。

——戻ってきて、よかった。

鼓動が、
少しだけ、速くなる。

体育祭は、
まだ、続いている。