名前のない香水

二学期が始まって、
教室はまだ、夏の名残を引きずっていた。

今年の夏は、
今までと、少しだけ違っていた。

何かが劇的に変わったわけじゃない。
毎日は、相変わらず過ぎていく。

それでも一花は、
自分が「普通の高校生」をしていた時間を、
確かに思い出せた。

笑って、出かけて、
夜風に当たって、
花火を見て。

自分は、
誰よりも「普通」から少し離れたところにいる。
それは、今も変わらない。

それでも、
その時間は嬉しかった。

桐谷くんとは、
花火大会のあと、
特に何かが進んだわけじゃない。

連絡が増えたわけでも、
距離が縮まったわけでもない。

ただ、
あの夜があった、という事実だけが残った。

それだけで、
今年の夏休みは、
不思議なくらい、充実していたと思う。

窓際の席で、
一花はプリントを揃える。

その背後で、
ひそひそとした声が、落ちる。

「……一ノ瀬さんと桐谷、さ」
「この前、一緒にいたよね」

「花火大会でしょ」
「あれ、付き合ってるんじゃない?」

名前は、
はっきり出たのに、
一花は振り向かなかった。

聞こえなかったふりは、
少しだけ慣れている。

桐谷は、
前の席で、何も言わない。

ただ、
いつもより少し、
姿勢が固い。

一花は、
自分の胸の奥が、
小さく揺れたのを、
気のせいだと思うことにした。

二学期は、
こうして始まった。