名前のない香水

人の気配が薄れて、
足音だけが、道に残る。

並んで歩いているのに、
距離は、一定のまま。

近すぎない。
離れすぎない。

桐谷の歩く速さは、
一花に合わせてある。

それが、言葉よりもはっきり分かった。

しばらく、無言。

夜風に、浴衣の裾が揺れる。
提灯の名残の光が、遠くで滲んでいた。

一花は、息を整える。

――もう、大丈夫。

そう思ったけれど、
言葉にはしなかった。

この静けさを、
壊したくなかった。

桐谷の服から、
かすかに漂う匂い。

汗でも、香水でもない、
桐谷くんの匂い。

それを吸い込むたびに、
胸の奥が、ゆっくり落ち着いていく。

病院の白い天井も、
薬の時間も、
今日は思い出さなくていい。

今はただ、
花火の余韻が残る夜道を歩く、
普通の女の子でいられる。

桐谷は、
一花の横顔を、盗み見る。

顔色は、さっきよりいい。

それだけで、
少しだけ安心する自分がいた。

何か話そうとして、
でも、やめた。

この時間は、
言葉がない方がいい。

角を曲がると、
見慣れた家が見えてくる。

一花は、
ほんの少しだけ、
足をゆるめた。

――もう着いてしまう。

そう思った瞬間、
夜が、名残惜しくなる。