名前のない香水


「……可愛い」
一花は、聞こえた。

はっきりと。
聞き間違える余地もなく。

でも、
一花は振り向かなかった。

聞こえなかったふりをして、
夜空を見上げたまま、
その言葉を、
胸の奥にそっとしまう。

桐谷は、
何事もなかったみたいに、
また空を見ている。

きっと、
届いていないと思っている。

一花は少しだけ間を置いてから、
いつもより静かな声で言った。

「……今の、綺麗だったね」

花火のことを指しているみたいに。
ただ、それだけの言葉。

「うん」
桐谷は短く返して、
でも、どこか落ち着かない。

また次の花火が上がる。

光が弾けて、
音が追いかけてくる。

一花は、
そのすべてを見上げながら、
さっきの一言を、
誰にも見えない場所にしまった。

夜が終わっても、
消えないものとして。