名前のない香水

夏休みに入ったけど、
楽になるどころか、やることは増えた。

今日は母さんが珍しく寝坊して、
朝から弟たちの支度を任される。

「ほら、早く食べろ」
「靴下、左右逆」

自分の声で、
一日の始まりが動いていく。

――夏休みなんだから、
もう少し寝られると思ってたのに。

昨夜は、
スマホを握ったまま、
返事の文章を何度も考えていて。

結局、寝たのは遅かった。

眠い。

大きく欠伸をした、その瞬間。

「お兄、何考えてるの?」

背中越しに、
妹の声。

「別に」
そう答えたはずなのに、

「ふーん」

意味ありげな声が返ってくる。

「一ノ瀬さんのこと?」

心臓が、
一瞬だけ、跳ねた。

「……違うし」

否定するのが、
少しだけ遅れた気がした。

妹は、
分かったような、分かってないような顔で、
こちらを見る。

「最近さ」
「スマホ見るとき、顔ちがうよ」

そんなこと、あるわけない。

そう言おうとして、
やめた。

図星みたいで、
否定するのが、面倒だった。

トーストの焼ける匂いが広がる。

甘いバターの匂い。

また、思い出す。

――ああ、だめだ。

夏休みは、始まったばかりなのに。