名前のない香水

ふと、倉庫の静けさを思い出す。

文化祭の喧騒から切り離された、
ひんやりとした空気と、近すぎた距離。

「……無理、してないか」

自分でも驚くほど低い声で、
俺は、そう聞いていた。

——

「……無理、してたら」
「たぶん、ここまで来れてない」

少し考えてから、
それでも目を逸らさずに答えた、
一ノ瀬さんの声。

強がっているようには、見えなかった。
けれど、全部を言っているようにも、思えなかった。

(……ほんとに、大丈夫だったのか)

そう考えてしまう自分を、
桐谷は、止められなかった。

「大丈夫」って言葉は、
きっと嘘じゃない。

でもそれは、
“限界じゃない”という意味であって、
“平気”という意味とは、少し違う気がした。

無理をしないように、
自分で線を引くことに慣れている人の、
そんな言い方だった。

だからだろうか。

守りたいとか、
助けたいとか、
そんな大げさな言葉よりも先に——

それでも俺のことを頼ってほしい、
そう思ってしまった。

理由は、うまく言葉にできない。

ただ、
あの倉庫の静けさの中で、
彼女が一人で立っているように見えた、その瞬間が、
まだ、胸の奥に残っている。