名前のない香水

それからの授業は、
驚くほど静かに過ぎていった。

黒板の文字も、先生の声も、
ちゃんと頭に入ってくる。

痛みは、もうない。
身体も、さっきよりずっと軽い。

――本当に、落ち着いたんだ。

チャイムが鳴るたびに、
少しずつ、日常に戻っていく感覚があった。

放課後。

教室がざわつき始める中、
一花は、鞄を持って席を立つ。

特別なことは、何もない。
誰とも目を合わせず、
ただ、いつもの帰り道を歩くだけ。

下駄箱で、靴を履き替えているときだった。

「……一ノ瀬さん」

呼ばれて、振り返る。

桐谷が、少し離れたところに立っている。
いつもの無表情。
でも、どこか落ち着かない。

一花は、小さく息を整えてから言った。

「さっきは……ありがとう」

短く、でもちゃんと伝える。

桐谷は一瞬、言葉に詰まったように視線を逸らした。

「……おう」
「もう、大丈夫なのか」

ぎこちない声。
心配を隠しきれていない。

「うん。もう平気」

そう答えると、
桐谷は、それ以上何も言わなかった。

ただ、小さくうなずく。

それだけなのに。

胸の奥に、
あのときの距離が、静かに蘇る。

何も起きない放課後。
でも、確かに何かが変わった気がして。

一花は、少しだけ足取りを軽くして、
校舎を後にした。