名前のない香水

選択授業の日。
いつもは離れている席が、その日は偶然、隣だった。

桐谷凰雅。

視界の端にいるだけで、少し緊張する相手。
何も話したことはないのに、存在感だけがはっきりしている。

ノートを開こうとしたとき、手元が狂って、消しゴムが床に落ちた。

「あ……」

身をかがめようとした、その瞬間、

同時に彼も手を伸ばしていた。

指先が、触れる。

一瞬。

それだけなのに――

冷たい。

自分の手が、驚くほど冷えているのが分かった。

反対に、彼の手は、はっきりと温かかった。

熱を持ったみたいに、触れた部分だけがじん、と痺れる。

「……っ」

小さく息を吸う音が、重なる。

視線が絡むより先に、ふわり、と香りがした。

甘い。
でも柔らかくて、近づきすぎると壊れそうな匂い。

香水のはずなのに、不思議と落ち着く。

消しゴムを渡されるまでの数秒が、やけに長く感じた。

手が離れた瞬間、温もりが消えて、少しだけ寂しい。

……なんで?

胸の奥が、静かにざわつく。

桐谷くんは、何事もなかったように前を向いた。
けれど、その横顔は、ほんの少しだけ固い気がした。

たぶん――
彼も、同じ温度を感じていた。

そう思ったら、もう一度、あの香りを確かめたくなってしまった。