名前のない香水

「……保健室、行こう」

低い声で、そう言われた。

理由は、何も言われなかった。
問い詰めることも、心配する言葉もない。

ただ、距離が縮まる。

桐谷くんの肩が、わずかに上下している。
呼吸が、少しだけ荒い。
さっきまで全力で走っていたことが、
そのまま身体に残っているみたいだった。

――私の、ために?

そう思った瞬間、
胸の奥が、きゅっと鳴った。

距離が縮まるにつれて、
空気が変わる。

甘い香り。
それに混じって、
運動のあと特有の、熱を帯びた匂い。

嫌じゃない。
むしろ、現実を連れてくる匂いだった。

一花が何か言おうとした、その前に、
身体が、ふわりと浮いた。

「……っ」

声にならない息が、こぼれる。

桐谷くんの腕の中。
思っていたより、近い。

軽いと思われている気がして、
恥ずかしさと不安で、身体が強張る。

けれど――
揺れない。
落ちない。
歩幅が、きちんと揃っている。

視線は合わない。
何も、聞かれない。

――どうして、何も言わないの?

そう思うのに、
胸の奥は、不思議と静かだった。


声が遠のく。
周りの音も、景色も、
すべてがゆっくり滲んでいく。

――ほんの数秒。
でも、長い。

一花は、
呼吸の仕方を忘れていた。