名前のない香水

ゴールテープを切った瞬間、
肺の奥まで一気に空気が流れ込んだ。

――一位。

タイムを見て、思わず息を呑む。
自己ベスト。
しかも、かなり更新している。

先生がタイムを読み上げる。
「桐谷、速いな」

近くにいた計測係の生徒が、
「自己ベストじゃね?」と小さく言った。

けれど、胸に広がった達成感は、
ほんの一瞬で消えた。

視線が、無意識にコースの方へ戻る。

次々と、男子がゴールしてくる。
息を切らしながら、笑ったり、倒れ込んだり。

数分遅れて、女子たちの姿も見え始めた。

一人、また一人。
誰かが名前を呼び合っている。

――まだ、来ない。

胸の奥が、ひやりと冷える。

遅いだけかもしれない。
ペースを落としているだけかもしれない。

そう思おうとするのに、
頭の中に浮かぶのは、
さっき見た、あの背中だった。

無理すんなよ。

自分がそう声をかけたかどうかさえ、
もう曖昧なのに。

それでも。

桐谷は、タイム表から視線を離した。

「……すみません」

先生に一言だけ告げて、
コースの方へ走り出す。

探さない理由が、見つからなかった。

胸の奥のざわめきが、
ただの勘じゃない気がして。

そのざわめきに従うように、
桐谷は一ノ瀬さんの名前を、心の中で呼びながら、
コースを逆に辿っていった。