名前のない香水

人混みの中で、ふいに足が止まった。

胸の奥に、引っかかっていた何かが、
ゆっくりとほどけていく。

――あの花。

病室の窓辺に飾られていた、
桃色と黄色のチューリップ。

転院して、少し経った頃だった。

静かな午後。
カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込む病室。

その日、ドアがゆっくりと開いて、
見知らぬおばあちゃんが顔を覗かせた。

「あら、ごめんなさいねぇ。部屋、間違えちゃったみたい」

慌てた様子もなく、穏やかに笑いながら、
その人はすぐに出ていこうとした。

――その時。

ふと、窓辺の花に目を留めて、足を止める。

「あら、チューリップ。綺麗ねぇ」

ゆっくりと近づいて、花を覗き込む。

「この色、いいわねぇ」

優しい声で、ぽつりと続けた。

「ピンクはね、『誠実な愛』っていうのよ」

一花の指先が、わずかに止まる。

「黄色は――『望みのない恋』」

その言葉に、
胸の奥が、小さく揺れた。

――どうして、その二つを。

けれど、おばあちゃんは気にする様子もなく、
少し首をかしげる。

「本数でも意味が変わるらしいんだけど……」

くすっと笑って、

「あら、忘れちゃったわ」

そう言って、軽く手を振ると、
そのまま部屋を出ていった。

静寂が戻る。

時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。

一花は、しばらく動けなかった。

胸の奥に残った、その言葉たちが、
ゆっくりと形を持ち始める。

――本数でも、意味が変わる。

震える指で、スマホを手に取る。

検索画面。

打ち込む文字が、
うまく定まらない。

「チューリップ 意味 本数」

何度も打ち直して、
やっと辿り着いた答え。

表示された一文を見た瞬間――

息が、止まった。

『22本――あなたの幸運を祈ります』

「……っ」

視界が、にじむ。

どうして。

どうして、そんな意味を。

恋とか、
好きとか、

そんな言葉じゃなくて。

あの人は、

あの花に――

“祈り”を込めてくれていた。

ぽたり、と。

画面の上に、小さな雫が落ちる。

止めようとしても、
うまくいかない。

あの日。

ドアの向こうで、何も言わずに帰っていった背中。

触れられなかった距離。

言葉にできなかった想い。

それでも。

ちゃんと、届いていた。

「……ほんと、バカだなぁ」

小さく笑って、

泣いた。

風が吹く。

目の前に広がる桃色の景色が、
あの日の花と、静かに重なった。

――だから、会いに来たんだ。

この想いを、

ちゃんと受け取りに。