名前のない香水

通話を切った瞬間、

冬の凍てつく空気が、一気に春を孕(はら)んだ気がした。

――『今なら、大丈夫だと思うの』

その声が、少しだけ震えていたことを、俺が気づかないはずはない。

無理をしてる。

俺を安心させるために、彼女は精一杯の「大丈夫」を振り絞ったんだ。

(……バカだな。無理すんなって、言わなきゃいけないのに)

でも、

その無理をさせてでも会いに行きたいと思ってしまう自分を、止められない。

初めて呼ばれた、自分の名前。

あの時、ドア越しに泣いていた声より、

今の声の方が、ずっと強く俺の胸を焦がした。

踵を返す。

今来たばかりの道を、全力で引き返す。

少しでも早く。

一秒でも早く。

彼女が無理をしてまで作ってくれたこの時間を、

一瞬たりとも無駄にしたくなかった。