名前のない香水

一花はスマホの端をぎゅっと握りしめ、受話口に向かって、震える声を振り絞った。

「……ごめんなさい。私、やっぱり会いたい」

一瞬、

廊下の時間が止まったような気がした。

「今なら、大丈夫だと思うの。……さっきはあんなこと言ったけど。やっぱり、会いたい」

恥ずかしさで、また頬が熱くなる。

でも、もう「桐谷くん」という壁の中に隠れていることはできなかった。

「……会えないかな。……凰雅(おうが)くん」

初めて呼んだ、彼の名前。

言葉にした瞬間、心臓が跳ねて、視界がじわりと滲む。

受話口の向こうで、雑踏の音が止まる。

息を呑む気配。

そして——

『……。』

次に聞こえてきたのは、

彼が猛然と駆け出す、激しい足音だった。

『……待ってろ。今、すぐ行く。……一花!』

その声を聞いた瞬間、

一花の胸の奥に、

桃色と黄色の花が、一斉にほどけるみたいに咲き広がった。