名前のない香水

受話口から漏れる、一花の震える声。

『……かっこ悪いところ、見せたくないの。……今の私は、桐谷くんの知ってる私じゃないから。』

桐谷は、上げかけた右手をゆっくりと下ろした。
目の前の白いドア。その一枚の壁の向こうに、一花がいる。

衝動的にノックをしそうになる自分を、理性で必死に抑え込む。
今ここで「ドアの前にいる」なんて言えば、彼女はもっと傷つき、自分を責めるだろう。

「……わかった。無理すんな、一花」

桐谷は静かに、けれど彼女を安心させるように声を落とした。

「……わかった。無理すんな、一花」

一拍おいて、

「今日は、やめとくわ」
「また、落ち着いたらでいい」

優しい嘘。
自分の心臓の音だけが響く静かな廊下を、桐谷は背を向けて歩き出した。

ナースステーションに立ち寄り、忙しそうに動く看護師に声をかける。

「すみません。1117号室の、一花に……これを」

差し出したのは、ピンクと黄色のチューリップ。

合わせて、22本。

「あ、お見舞いの方? お名前は……」

「……名乗るほどのもんじゃないんで。ただ、置いといてやってください。……あいつが、少しでも笑えるように」

桐谷はそれだけ言い残すと、振り返らずに病院を後にした。


――けれど、廊下の角を曲がる直前、ほんの一瞬だけ足が止まる。

振り返りそうになる衝動を、奥歯を噛みしめて押し殺した。

手元に残ったのは、花の香りと、行き場を失った熱い鼓動だけだった。