名前のない香水

駅に降りると、
夜の空気が少しだけ冷たかった。

「歩けるか?」

桐谷くんは、責めることも急かすこともなく、
ただ当たり前みたいに隣に立ってくれる。

肩を支える手は、強すぎず、
でも離れない。

駅から十分もかからない距離。

「近いって言っただろ」

そう言って、少しだけ笑う。

住宅街を曲がった先に見えたのは、
白い外壁の、アメリカン風の家だった。

大きすぎるわけじゃない。
でも、どこか開放的で、温かい。

ウッドデッキ。
整えられた芝生。
季節の花がきちんと並んでいる花壇。

門灯のやわらかい光が、
家全体を優しく包んでいた。

——素敵。

自然と、そう思った。

きっと。

ちゃんと「おかえり」がある家。

ちゃんと「ただいま」が返ってくる家。

桐谷くんは、
こんな場所で育ったんだ。

だから、あんなふうに
人を責めないのかな。

だから、あんなふうに
支えられるのかな。

胸の奥が、少しだけあたたかくなる。

「着いたぞ」

そう言って、

一花の手を、
ほんの少しだけ強く握った。

その温度が、
さっきよりも近く感じた。