「さっきの見た?」
「一ノ瀬さんにだけ、あんな感じじゃない?」
名前が出ても、
一花は振り向かない。
聞こえなかったふりは、
もう自然にできる。
説明もしない。
否定もしない。
ただ、
さっきまで近くにあった体温が、
戻らないことだけを、
ぼんやりと感じていた。
「……ねえ」
隣から、夢の声。
一花が顔を向けると、
夢はニヤッと笑う。
「今のさ」
「もう付き合ってるって言われても、否定できないやつじゃない?」
からかうみたいな口調。
でも、目はちゃんと優しい。
一花は、
すぐに言葉が出なかった。
「……違う、けど」
小さく言って、
少し間を置いてから、続ける。
「そういうんじゃない、と思う」
“思う”。
その言い切れなさに、
夢は何も突っ込まなかった。
「ふーん」
それだけ言って、
肩をすくめる。
「じゃあ、その“そういうんじゃない人”にさ」
「ちゃんと見張ってもらいなよ」
「また倒れたら困るでしょ」
冗談みたいに。
でも、どこか本気で。
一花は、
返事をしないまま、
グラウンドの方を見る。
歓声の中で、
桐谷の姿はもう見えない。
それでも、
胸の奥に残った温度だけが、
今日が、
確かに“ただの体育祭じゃなかった”ことを、
静かに主張していた。
