神に選ばれなかった者達 前編

…幼い頃の空音いそらは、常に死と隣り合わせだった。

ある意味で彼にとっては、毎晩の悪夢よりも、現実の方がずっと過酷だったのかもしれない。

空音いそらが生まれたのは、スラム街の一角。

病院のベッドの上ではなく、一部屋しかない安アパートの畳の上で生まれた。

空音いそらの母親が、生まれたばかりのいそらをゴミ捨て場に捨てなかったのは、彼の人生で最も幸福なことだったに違いない。

子供を捨てるなんて、なんて残酷なことをするんだ。

そう思う人もいるかも知れない。

しかし、このスラムでは、子捨て、親捨ては珍しいことではなかった。

むしろ、ありふれたことだった。

当時、スラム街で生まれた子供の多くが、路地裏やゴミ山、ドブ川に捨てられた。

まだへその緒をつけたままの裸の子供が、路上に捨てられてカラスの餌になっている光景は、珍しくもなんともなかったのだ。

それなのに、空音いそらは幸運にも捨てられなかった。

この時はまだ、空音いそらの母親にも、幼いいそらを育てる意志があったものと思われる。

けれど、捨てられなかったからといって、愛されて育てられたかというと、そんなことはなかった。

空音いそらは、母親に愛された記憶がなかった。

生まれてこの方、母親に抱き締められた記憶もない。

いそら、という名前を呼んでもらったことも、数えるほどしかないような気がする。

愛されるどころか、空音いそらは、母親に虐待されながら育った。

空音いそらの母親は、娼婦だった。

スラム街に住む女性の大半は、娼婦である。

それ以外に、学のない女性に仕事はないのだ。

空音いそらは、自分の父親についてまったく知らない。

何故自分があの母親に生かされたのか、その理由も分からない。

当時、スラム街で娼婦をしている女性にとって、子供というのは厄介者以外の何物でもなかったからだ。

娼婦という仕事上、子供を身ごもることは珍しくない。

スラム街では、避妊の知識なんてろくに伝わっていない。

その為、間違った避妊法が横行し、そして当然失敗した。

そうして、誰の子かも分からぬ子供を妊娠することになった。

妊娠に気づいた娼婦達は、大抵、その子供を中絶する。
 
腹が大きくなれば、客がつかないからだ。

それに、自分一人で生きていくだけでも精一杯なのに、子供の面倒なんて見られない。

子供を生んだとしても、育てられる訳がない。

とはいえ、都市部のように、病院に行って専門の医者に中絶手術をしてもらう…なんてことは出来なかった。

そんな金の余裕はないからだ。

では、どうするか。

スラム街には、スラム街の「医者」達がいる。

その医者達は、麻酔も使わず、消毒もろくにしていない古びた医療器具で手術をする。

あるいは、毒薬にも似た「中絶薬」を娼婦達に売りつける。

その値段もまた、法外なものだった。

薬の安全性も低く、命の保証はなかった。

それでも、都市部に行って手術してもらうよりはずっと安価で、そして「お手頃」だった。

だから、娼婦達はそのような方法で中絶する。

腹の中に宿った子供は、一度も陽の光を見ることなく、そのまま毒で殺されてしまうのだ。