向こうから、ゆっくりと歩いてくる人影が目に入った。
彼だ。
ーー名前も知らない、あの人。
その隣には、涼しげで整った顔立ちの女性がいた。
その近くには二人の男もいたけど仲良さそうに歩く彼とその隣の人にしか目がいかない。
視界に入れるだけで、胸にズキっと何かを刺されたような鋭い痛みが走る。
前から近づいてくる彼らに足が動かず、立ち止まったままの私。
金縛りにでもあったかのように体が思うように動いてくれない。
守ってくれるって、いってたくせに。
ドス黒いものが私の心を占め、感情を醜くさせる。
時雨「……何してんだ、ここで」
彼が私に気づき、足を止めて、少し驚いたように眉を寄せる。
彼の隣の女性が私に視線を向け、首をかしげる。
「時雨の知り合い?」
時雨ーー
その女性の口から自然に溢れたその名を聞いた瞬間、ひどく胸が締め付けられた。
時雨……か。彼女のその言葉に深く傷ついている自分がいることに、彼への恋心を自覚する。
彼女は私の知らない彼の名前も、彼のことも知っていて。
何も知らない私は彼にとって、彼の人生に何も刻んでいないのだと。胸が痛む。
時雨「お前には関係ねぇ。……で、何してんだ?」
隣にいる女性には目も向けず、冷たくそう言い放つ彼は私に目線を合わせて優しく聞いてくる。
「買い物に、来ただけ」
そんなふうに、優しくしないでほしい。愚かにも勘違いしてしまうそうになる。
?「何その態度!本当可愛くないやつ」
時雨「はいはい」
彼女の方は怒っているがそれを軽くあしらう彼。その関係すら親しく見えて、嫌になる自分がいる。
時雨「ここら辺、危ないから送ってく」
「……大丈夫。一人で行けるから」
こんなにも惨めで、嫌な気持ちになったのは初めてだ。
今にも泣いてしまいたいと感じる私はこんなにも弱い人間だったのかと、思い知らされる。
時雨「いいから、行くぞ」
パシっ。
突然腕を掴まれて、思わず反射的にその手を振り払ってしまった。
その瞬間、周囲の空気がひやりと冷え込んだように感じた。
……失敗した。
ほんの一瞬、時雨の目がわずかに揺れたのを見て、自分の胸がちくりと痛む。
時雨「怒ってるのか?」
低く落ち着いた声でそう聞かれる。
「怒ってない」
時雨「……怒ってんじゃねぇか」
「怒ってはない。……ただ」
時雨「ただ?」
いいかけて、言葉が喉で止まった。
ーーただ、馬鹿馬鹿しくなっただけだ。
こんな感情に振り回されている自分が。
彼に向けるべきじゃない気持ち。
もっても仕方のない感情。
私には、その資格なんてないのに。
時雨「ただ、なんだ?」
答えることをしなかった私の手を再び握り、子供に問いかけるような優しい聞き方をしてくる時雨。
再び私の手をそっと握り、その瞳でじっと答えを待っていた。
「……なんでもない」
そう答えると、時雨はほんの短い沈黙のあと、ふっと息をつき、掴んだ手を離さないまま言った。
時雨「……じゃあ、行くぞ」
そういって手を引き歩き出す時雨の横顔は悲しそうで、なんでそんな顔しているのか分からなかった。
