人間サンドバッグ 終
「……あっという間、だったな」
「みんな、行くときはあんなに騒いてたのに、帰りはすごい静かだよね。変なの」
「疲れちゃったんだよ、きっと。オレも足が筋肉痛だ」
「ふふっ、わたしも。明日は振替休日だけど、どこも出かけれる体力なんてないよね。たまには家でオンラインゲームでもしない?」
「いいねいいね! ところで、そのゲームの内容は………………」
太陽は目を瞑ってしまうほどにまばゆいオレンジ色に輝き、はるか地平線の先に沈もうとしている。そんな美しくも何気ない風景を、バスに優しく揺られながら眺めている。これから学校に到着して、そこで現地解散となる。
三泊四日という言葉だけ聞くと長旅だが、体内時計が狂ったのかあまりにも一瞬に、刹那に、秒針のごとく終わってしまった。まるで修学旅行に行ったという結果だけが残ったようだ。
広島の原爆ドームを見たり、東京のディスリーランドで遊んだり……その他にも楽しいことが起こりすぎて、夢うつつな気分がどうも抜けないでいる。
どうして、楽しい時間はこうも早く終わってしまうのだろうとバスに乗っているのに船を漕ぐという矛盾の状態になりながら考えていると、プシューという音の後にバスが停車する。見ると学校の校門前で、いつの間にか到着したことになっていた。
普通なら景色を眺めている時点で目的地が近いことに気づきそうだが、よほど寝ぼけていたのだろう。いざ立ち上がろうとしたものの、眠気が邪魔してうまくいかない。
「着いたよ。寝るなら家で寝なよ」
大好きな彼女に起こされる……なんと気分が良いものか。もう少し寝たフリでもしようと思ったが、これ以上は芹澤さんに、ついでに運転手にも迷惑がかかるのでやめた。オレはあたかも今起きたかのように寝ぼけた声を出す。
「ん、んぁ……ほんとだ。ごめん、うっかり寝ちゃってた」
「バスの運転手さん、早く発進したいって」
芹澤さんに半ば引っ張られる形でオレはバスを降りる。外に一歩でた瞬間、夜を告げるようなひんやりとした冷たい風が頬を撫でた。すでに他の生徒は一人で帰ったり、家族に迎えに行ってもらったりしている。
降りたのを確認して走り去っていくバス。長い時間バスに乗ってたので体の筋肉が固まってしまっていた。少しでもほぐそうと勢いよく伸びをしようとしたら……
「――ヤクソク、ヤブッタネ」
「!!!!」
両肩に手を置いて、耳元で囁く……そんな悪趣味な話しかけ方をする人物は、オレが知っている限り一人しかいなかった。首がネジ切れるほどの早さで振り向いたが……そこにはがらんとした寂しい道路があるだけだった。
「どうしたの? 親にパソコンの検索履歴を見られたみたいな顔して」
「……いや、なんでもない。じゃ、じゃあ、帰り道こっちだから。またね!」
「またね!」
きっとまだ、寝ぼけているのだろう。そう思うことにした。足だけじゃなく、喉もたくさん喋ったり笑ったりして疲れているはずなのに、別れ際は元気な声を出して手を振ってくれる彼女。オレも負けじと大声を出しながら強く手を振り返した。
逆光により黒く染まったアパートを見ると、たった三日のはずなのにやけに長く家に帰っていない感じがする。
今日は使用しなかった三日分と今日の分を含めて人間サンドバッグと向かい合わないといけない。正直に言うとダルいが、約束だから仕方ないと玄関のドアを開けようとしたら……
「あれ? 鍵が……」
かかってない、そんな馬鹿な。アパートを出る前、当然かけたはずなのに。靴を脱いでフローリングの床を踏んだそのとき、靴下になにやら湿った感覚がした。足裏を見ると――
「なっ、なんだよこれ!!」
白色の靴下は――身の毛がよだつほど真っ赤に染まっていた。血溜まりか、それともただの絵の具か。よく見るとソレは点々と、部屋から続いているのがわかる。オレは我を忘れて飛び込んだ。
「人形が……ない!!」
万が一、人に見られないように押し入れに隠していたはずの佐藤たちの人形がなくなっていた。約束を破ったから回収された? 嘘だ、そんな、ありえない。上手く思考がまとまらず、焦りだけが夏休みの宿題のように募っていく。
ぐるぐると人間サンドバッグを使っていた時間を思い返す。きっとこれからも使い続けるのだろう。そうと思っていた。しかしそれが今、音を立てて崩れ始めていることは想像に難くなかった。足先から指先にかけて震えが止まらない。禁断症状ってヤツだろうか?
「――! そ、そうだ! 人形屋に、行けば、必ず……!!」
カルアの夜にしか営業していないなんて言葉は、頭の隅の隅の隅へと追いやった。根拠なんてなかった。
しかし今動かずにただ喪失感に浸るのはあまりにも愚かだと思えたから。行動する理由はそれだけでいい。オレは鍵をかけるのも忘れて外へ飛び出した。
くたくたになったはずのオレの体はどこから力が注がれているのか、人形屋に行くという目的を得たとたんに自分の限界を超えるパフォーマンスを見せてくれた。
学校をグルっと右に迂回し、裏門の方向に出れば、あの日と同じように遠くの山々や果てしなく続く一本道、廃墟と化した民家がある田舎に着く。間違いない、ここを真っすぐに進めば到着する。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…………」
走り方なんてめちゃくちゃだ。以前疲れない走り方というのをネットの記事で見たことがあるような気がするが、人間本当に焦っているときは視野が狭くなる。故にそんなことをするほど今は頭が回らないのだ。
走る、走る、走る、走る。疲労なんて忘れてしまうほどに。しかし代わり映えのない単調な景色が、本当に人形屋に向かっているのだろうかという不安を生んで、振り切るようにしてさらにオレは加速した。
どれくらい走っただろうか? そろそろ建物らしきものが見えないとおかしいのに、見えるのは相変わらず山々や田んぼばかりだ。
あの日カルアと一緒に歩いた距離から考えて、そろそろ人形屋の建物が見えるはずなのに……道を間違えるはずもなく困っていると、電柱に一人の男が花束と紙袋を持って立っているのを見つけた。その花束には――見覚えがあった。
「あっ……!」
――青色のヒヤシンスだ。なんであの男が!? それは近づいていくごとに理由がハッキリしていった。その電柱は、黒いシルクハットを追いかけていたあの夜、偶然通りかかった場所だったのだ。今でも十分に加速していたが、さらにギアを上げた。
貪る勢いで酸素を体内に取り込む。男の見た目は四十代前半くらいでつむじが大きく禿げており、ぽっちゃりとした体型に猫背が目につく。言っちゃ悪いが、大人の余裕などの覇気をこれっぽっちも感じなかった。
その男は電柱に置いてあった駄菓子や135ml入りの缶ビールを取り除いたあと、紙袋から新たに同じ駄菓子や缶ビールを並べた。
「あ、あの……」
オレは思わず話しかけてしまっていた。いや、正しくは話しかけずにはいられなかった。なぜなら、通りかかったときは暗闇でわからなかったが、電柱には駄菓子や缶ビールのほかにもう一つあったのだ。それ、は……
「その、写真の人って……奥さんと息子さんですか?」
写真には、クリスマスツリーを背に三人家族が肩を寄せ合いながらにっこりとピースをしていた。右下には小さく(ニ✕✕✕年十二月 汐満家 ✕✕駅にて。)と書かれている。
そこに写っている水玉模様のニット帽を被っている人物は――堂流さんその人だった。
「きっ、君は……? 瀬名と颯希の、知り合いだったのかい?」
キョトンとした顔で目の前の男はオレに問いかけてきた。瀬名? 颯希? 聞いた、ことのない名だ。いったい誰の、ことを言っているのだろう? 意味が、わからな……
「――ッ!!」
熟睡していたところを特段やかましい目覚まし時計に起こされたような衝撃が走る。脳内は急速にある記憶へと遡っていた。
今から大体六年前、小学五年生になる何日か前だった気がする。オレが住んでいる街でひき逃げ事件が起こったのだ。
朝のニュースでぼんやりと見た記憶がよみがえる。時間は夕暮れ時、当時妊婦だった母親とその息子が帰路につく途中に後ろからバイクが激突し即死。
その後通報され焦った犯人が都市部へ逃走、信号無視などの交通違反を繰り返した挙げ句、当時横断歩道を渡っていた四十代のサラリーマンを轢いて重傷を負わせた痛ましい事件だ。
あのとき感じた既視感が、音を立てて点を作り、線でつながっていく。それがたしかな形を形成する。最初に死亡した親子の、被害者の、名前が――
――きっ、君は……? 瀬名と颯希の知り合いだったのかい?
「アアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
オレは叫びながら頭を抱えてうずくまった。予期せぬ行動に毒気を抜かれる四十代の男。じゃ、じゃあ、オレがあの日関わった堂流さんは? 二階から聞こえてきた男の子の泣き声は? ?マークと恐怖で押しつぶされてどうにかなってしまいそうだった。
男の話を聞く限り、どうやら瀬名と颯希というのは オレが知っている堂流さんとその息子の本当の名前らしい。そして男いわく、自分は瀬名さんの旦那だというのだ。ここまで理解するのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
「……君が誰かは知らないが、よかったら少し私の話を聞いてくれないか?」
瀬名さんの旦那は話を聞いて欲しかったのか、オレへの返事を待つことなくぽつりぽつりと、左斜め上を見ながら昔を懐かしむように話し始めた。
「瀬名とは……今はなくなっちゃったけど、この辺りに私の実家があってね、農家を営んでたんだ。ちょうど今の時期、両親の手伝いに行ったときに、向かいの土地に引っ越してくる人がいたんだ。田んぼくらいしかないこの辺鄙な土地に誰だろうと挨拶しに行ってみると」
「そこで……」
こくりと頷く瀬名さんの旦那。しかし皮肉な話だ。瀬名とその旦那さんが出会った場所であるにも関わらず、よりによってそこで瀬名さんとその息子が命を落とした場所でもあるなんて。瀬名さんの旦那さんは、この事実をどう受け止めているのだろう。
「一目惚れだったんだ。振られても辛抱強くアタックしてね、気持ちが通じたときは心の底から嬉しかったよ。畑作業も一緒にやっていく中で、色々と瀬名のことを知っていった。好きな食べ物とか花とか、面白いテレビ番組だとか、趣味だとか。特に趣味はちょっと変わっててね、なんだと思う?」
その答えを、オレはすでに持っている気がした。考えるより先に、ボソッと唇が勝手に動いた。
「……人形作り」
「え? なんでわかったの!? やっぱり君、瀬名とどうゆう関係なんだい? 見たところ高校生だし……」
「いえ違います! いやその、違わない、かもしれないんですが……」
回答がめちゃくちゃになり、しどろもどろになっているオレのことを察してくれたのか、瀬名さんの旦那はそれ以上の詮索をやめて再び話を再開した。
「君の言う通り、瀬名は人形作りが趣味でね、と言っても材料は木材とか粘土を使う本格的なものじゃなくて、毛糸で編む比較的かんたんなものなんだけど。よく休日はホームセンターに付き合わされたよ。面倒なことも苦しいこともあったけど、やがて結婚して、颯希が生まれて、二人目を妊娠して、まさに幸せの絶頂だったと思う」
泣きそうなのをグッとこらえているのか、下唇を強く噛んでいる瀬名さんの旦那。その表情からして、瀬名さんはとてもじゃないがあんなピエロのように不気味に笑う人形を作っていたとは思えなかった。ふと話していた瀬名さんの旦那の顔が、かすかに翳った。
「でも……そんな絶頂は長くは続かなかった。例のひき逃げ事件が起こってね、ひどい状態だったそうだ。なんでも瀬名は颯希をかばったせいか、バイクがモロに直撃して、脳みそがあちこちに散乱してたらしい。もちろん、お腹の中にいた赤ちゃんも……ハハ」
「そう、ですか……」
なにもかける言葉がなかった。瀬名さんの旦那は、砂漠のように乾いた笑いをもらしている。頭痛に悩んでこめかみを押す堂流――いや、瀬名さんを思い出す。あの水玉模様のニット帽の下には、いったいなにが隠されていたのだろうか。
「付き合わせてしまって悪いね。君もこれから――墓参りに行くんだよね? よかったら一緒に行かないかい?」
「……え?」
一瞬、なにを言っているのかわからなかった。ほんの冗談なのかと次の言葉を待つが、瀬名さんの旦那はいたって当然のことを喋っていると言わんばかりに顔色を一つも変えなかった。
「はか、まいり? じゃなくて、ここから歩けば三分くらいで道具小屋に……」
「小屋? なにを言っているんだい? ここから先にある建物は――墓地ぐらいしかないよ?」
ブワッと一気に毛が逆立つのを感じる。それが合図となってオレは再び全速力で走り出した。後ろで瀬名さんの旦那がなにかを言っているようだったが、そんなことはどうでもよかった。
「そうだ……そうじゃないか! 瀬名さんと、その息子と、赤ちゃんが死人だとしたら、あの店は、あの店は……!!」
否定したかった。ただただ否定したかった。もう一度だけでいいからあの人形屋に行って、佐藤たちの人形とは違った新しい人間サンドバッグを紹介してほしかった。
せっかく失くした大事なものを取り戻せると唯一の望みを託したのに、それがゴミのように無残に打ち砕かれるというそんな現実が、起こっていいはずがなかった。
でも、でも、でも――沈む間際の夕日に照らされたその場所はどこまでも陰湿で、どこまでも陰鬱で、オレは全身の力が抜けてその場にへなへなと座り込んでしまった。
「あ、ああ、あぁ……」
まるでオレだけが逃げ遅れてしまい、ビルの高さほどある怪獣から睨まれたときのような絶望感が襲う。
人形屋があったはずの小屋には――広大な墓地が建てられていた……。
「違う、だろ。違う…………だろ……」
ゆらゆらと息絶える寸前の豊田議員ようにオレは墓地を徘徊する。まるで幻想でも見ているようだ。しかし視覚からの伝達情報を何度修正しても、答えは覆ることはなかった。
さっきまで走っていてかなり暑かったのに、ここに向かい合ったとたん鳥肌が立つほど涼しくなってしまった。理由は間違いなく、もうすぐ日が落ちるだけではないだろう。
「……んぁ?」
目的もなく歩き続けていると、ある竿石に目が止まった。なんてことない、たくさんあるうちの一つでしかないそれが、なぜだか強く惹きつけられる。導かれるように前に立ち、刻まれた文字を見て――グラリと視界が歪んだ。
汐満家之墓
「汐、満……?」
同姓同名……いや、こんな珍しい苗字がそう簡単にいるはずがない。じゃあ、本当に……
「人形屋なんて、存在しないのか……」
「――そんなことないヨ」
ハッとして振り返ると、そこには、見覚えのある人物が佇んでいた。相変わらず黒いシルクハットで目元は隠れており、不気味にニヤける口元だけが浮かび上がっていた。
「初めて店に行くとき言ったよね? 夜にしか営業してないって。営業時間外に来られるのは、こっちとしても迷惑だヨ」
「どうゆうことだよ! 家に帰ると人形がなくなっているし、人形屋がある場所は墓地になってるし、意味わかんねぇよ!!」
つばを飛ばす勢いで怒鳴り散らしたのに対してカルアは、時折シルクハットを正しい位置に直しながら、オレを視界に入れることなく服についたホコリを手で払っていた。それを見て血管が切れたのとカルアに掴みかかったのはほぼ同時だった。
「……なんだよ。なに、黙ってんだよ。オレは説明を求めて――」
「青色のヒヤシンスの花言葉は、『不変』『変わらぬ愛』なんて意味があるんだヨ。実にロマンチックだと思わないかい?」
「??? なにを、言ってるんだ……?」
「人間という生き物はあっという間に年を取る。橋本○奈のような美少女も、福山○治のようなイケメンも、いずれシワが出て醜くなり、思うように体が動かず、ベッドで寝たきりになって、生命維持装置に繋がれた挙げ句、細々と生涯を終える。こっからはぼくの憶測でしかないけど、それを悲観した堂流君が青色のヒヤシンスの花を好んだり、少しでも変わらず色褪せないものとして人形作りが趣味になったりすることは、必然だと思わないかい?」
――時間ほど残酷なものはありません。たとえ今が満たされていても、いつの日かすべてを奪われる日が来るかもしれない。このまま普通のパンチングボールを使い続けることに、なんの不満もないんですか?
瀬名さんのいつの日かすべてを奪われる日が来るかもしれないという言葉は、ひき逃げ事故が原因ですでにこの世にいないからこそ出たのだと納得した。
「そういえば、堂流君はまだ君に話してなかったよね? 店を作った目的を」
「そ、それはあの店が人間サンドバッグを売ってる店だって……あっ」
そう言えばそうだった。たしか人形屋に行ったあの日は「ここにある人形はなんなのか?」と訊いただけで、店を作った目的までは訊いていない。オレはずっと掴んでいたカルアの胸ぐらを離した。
「それを話す前に確認なんだけど、大体の事情は思い出したよね? ひき逃げ事件のこと。死者は潮満瀬名とその息子の潮満颯希、そして……生まれるはずだった赤ちゃん。元から二人目を作る予定だったのか、女の子だったら六花、男の子だったら六助とすでに名前は決めてたらしいヨ」
「…………」
オレは黙って話を聞いていた。瀬名さんはどうして、人間サンドバックなんて売る店を出そうと思ったのだろう? その答えが、カルアなら知っているような気がした。
「まぁ、そんなことはどうでもいいか。ところで主人公君は、その事件がどのような結末を迎えたか知っているかい?」
いくら世間を騒がせた事件とはいえ、すでに六年は経っている。オレは頭の細胞すべてを使って記憶を掘り起こす作業をした。そして、
「…………あ! たしか犯人は三人の死者と一人の重傷者を出したにも関わらず、たったの懲役八年という軽すぎる刑が下された! どうして……」
「親ガチャだよ! お・や・ガ・チ・ャ! いいとこの坊ちゃんだったらしいねぇ。被害者側の弁護士に多額の賄賂を渡して証拠品を押収したり、不利になることばっか言わせて裁判を有利に進めたらしいヨ。清々しいほどのクズで笑えてこないかい?」
まるで嘲るような口調で、しまいにはお腹を押さえながら笑い転げるカルア。なにが……なにがおかしいんだよ! と言ってやりたい。しかし話の内容が衝撃すぎて口が動かなかった。カルアはひとしきり笑い終えると話に戻った。
「さぞかし瀬名さんたちは無念だろうねぇ。その無念さが憎しみに代わるのはもはや、アダムとイブが結ばれて夫婦になるくらい当然のことだったヨ。命を奪った犯人、もしくはその可能性がある標的を甘い言葉で人形屋に誘い込み、いっときの夢を見せたあとに人形化する。そしてそれを商品として売る。これが人形屋の本当の目的だヨ」
ガラスケースに並べられた人間サンドバッグ達。あれはすべて、瀬名さんを轢いた犯人のような罪を背負った人なのか…………いや、ちょっと待て、だとしたら――
「なあカルア。あの小さなガラスケースに入れられた人形ってなんだ? 見た目こそ他の人形と一緒なんだが、なんかその……オーラが違うというか……」
「まだわからないのかい? 犯人の顔をよーく思い出してみなヨ」
「かお? 顔って……ッ!!」
ニュースで見た犯人の顔と、人形屋でガラスケースに入れられた顔が、パズルのように一致した。今まで思い出せなかったのは、見た目がどこにでもいる平均的な顔すぎて、他の誰かと混合してしまっていたからだ。
しかし二つだけ、犯人にしか持っていないなん特徴がある。頬にある猫に引っかかれたような傷跡、右目尻に直径一センチはある大きなほくろ……間違えない、あの小さなガラスケースに入れられた人形の正体は――ひき逃げ事件の犯人だ。
「主人公君が視たあの映像は、瀬名さんたちを轢いたときの犯人の記憶なんだ。毎回触った他人がどんな反応をするのか、僕のささやかな楽しみなんだヨ。悪いね」
ペロッと舌を出して謝るカルアに対して、オレは憤ることより先に……本来なら、もっと早くに気づくべきだった疑問が浮かび上がっていた。
「そうだカルア! たしかさっき人形屋には、瀬名さんたちを殺した犯人のような人だけを誘い込むって言ったよな?」
「ん、そうだヨ。それとその可能性がある人ね」
「じゃあなんで……カルアはオレを人形屋に連れ込んだんだ! たしかにオレは褒められるほどの立派な人間じゃないが、かと言って犯罪を犯すほど落ちぶれた覚えはねぇし、その可能性もねぇぞ!!」
ガスコンロで強火に点火したように、オレは再び怒りの炎をカルアに突きつけた。カルアはオレに見せつけるようにわざとらしく、大きくうなだれて、
「……ハァ……主人公君はなにも、なーんにもわかってないようだね」
「なにを言って――グァッ!」
再度掴もうとした直前、伸ばした腕を逆に掴んできたカルア。その瞬間、まるで万力なような力で掴んだ箇所を締めつけてきた。骨がギリギリときしみ、筋肉がプレスされて破裂しそうだ。
「ど、どうして……こんな、ことを……!」
「もう一度言うよ。約束、破ったでしョ?」
「――ッ!!」
バスを降りた際に聞こえたあの言葉は、やっぱり……
「一日一回、五分だけでいいから人間サンドバッグを使用すること。そう言ったよね? なのに主人公君はのんきに青春の思い出づくり? 意味がわからないのはこっちのほうだヨ。理由を聞いてもいいかな? かなぁ?」
「そ、それは、修学旅行だから……持ってくわけにも、いかない、から……仕方な――アガアァァァァッ!!!!」
グジュッ とまるで果実が潰れたような音の直後、腕の中の骨がバラバラに砕け散った気がした。一部は皮膚を突き破りそこから出血してしまっている。オレはたまらずひざまずき、腕を強く押さえ込んだ。カルアは聞いたことのないような冷ややかな声で、
「仕方ない? 今仕方ないと言おうとしたのかい? 不愉快だヨ。主人公君も一回くらい言われたことがあるだろう? 嘘つくと閻魔様に舌を抜かれるって、泥棒の始まりって。約束というのはつまり、嘘をつかないことだヨ」
「だか……ら、オレも犯罪者と同じ……って、言いたい、のか……?」
「休めば、良かったのにね……。これから主人公君が受けるバツに比べれば――きっとそう思うはずだヨ」
「バ、バツって……なにを、馬鹿なことを」
口ではそう言ったものの、言葉は震度三ほどの震えを隠しきれなかった。しばらくすると遠くからズザッ、ザッ、ザッと、こちらに向かってなにかを引きずるような音が聞こえた。
やがて暗闇に目が慣れてきたとき、視界に映る人物を見て……オレはさらに絶望した。
「さ、さと、う……?」
顔を俯かせてはいるが、あの金髪で格闘家のようにガッシリとした体つきは間違えなく佐藤だった。
人間サンドバッグが意思を持って歩いている!? なんて驚く暇もないまま、続いて鈴木、高橋とぞろぞろと姿を現したのだ!
オレはまるで他の子どもにおもちゃを取られて喚く三歳児のように、今にも泣き出しそうな顔でカルアの脚に縋りついた。
「どうしてだよ! んも、戻らないんじゃなかったのかよぉ! だから! 安心して、使ってたのに……」
「戻らないヨ……約束を破らない限りは。一日一回殴ることで、本来は制御できなくて戻ってしまうところを抑え込んでいるんだヨ。それを主人公君は……もったいないことをしたね」
ま、まさか、そんな……だから一日一回は殴るなんて約束を……。オレはただ、修学旅行を楽しんでいただけなのに。美味しい飯を食べて、きれいな景色を見て、そんな学生時代なら当たり前の幸せを享受していただけなのに……!
「そ、そんなこと……わからない、だろ」
「その言葉は――ぼくじゃなくて、三人に言ったほうがいいと思うヨ」
ニヒルな笑みを見せつけたのち、カルアはオレの肩にポンと手を置き「元気だヨ。元気があればなんでも耐えられるヨ」とあまりにも投げやりな言葉を残したあと、そのまま霧散するようにしてフッとどこかへ消えてしまった。
四人だけの世界と化した墓地。大量のカラスがこれから起きることを暗示しているかのように、こちらに向かって一斉に鳴いてきた。それに呼応するかのように、ぽつりぽつりと雨が降り始める。
「ナぁ、スドウ……お前ノ、お前のセいデよォ……」
佐藤が一歩前へ出ると、怪獣のように唸り声を上げながら、オレに見せびらかすように着ている制服を縦に裂いてみせた。以前は人間に限りなく寄せた肌や毛穴などがあったが、オレが見た光景は予想をはるかに裏切るものだった。
「ヒッ、ヒイイィィィィィィッッッ!!!!」
佐藤は、中途半端に戻ってしまったのか――まるで人体模型のように皮膚がなく、肉がなく、骨もなく肺や心臓などの臓器がまるだしになり血が滴っていた。こんな状態で生きれるわけがない。じゃあ、今佐藤の体を動かしているものは――
「グガウッ!!」
「よウヤく、お前に、一発食らラセられタぜ。しカシまだ足りなイ……」
「ちョッと佐藤さんズルいッスよ! オレも須藤に殴らレタ恨みは同じッスから!」
「ぼくを、仲間はズレに、しないデよ。ポコチン、触られた屈辱、どう晴らせば、イイか、考エテよ」
いつの間にか横に回り込んでいた高橋が、オレの頬が食い込むんで血が出るほどの一撃を食らわせた。血は本降りになった雨により流れて地面に吸収されていく。オレは泥濘んだ地面に頭をこすりつけるようにして、
「ごめん、なさい……ごめん、なさい……ごめんなさい」
今更謝っても遅いのに、謝らずにはいられなかった。無駄だとわかっていても、助かる可能性がコンドームほどの厚さしかないとしても、オレはそれにかけたかった。しかし願いは届かず、ついには逃げられぬように四方を取り囲まれてしまった。
「こ丿日を、ずッと、待っテイたぞ……スドウ」
「今まデに殴らレタ……四百六十一万九千五百七十七発」
「百億倍、返シ、ダ」
「やめてくれェェェーーーーーーッッッ!!!!!」
愚者の絶叫が響き渡る。だがそれは、先ほどの血と同様に地面に吸収されていくだろう。殴られながら、蹴られながら、消えてしまいそうな意識の中、カルアの言葉を思い出す。
――終点までの物語は、今……決められた
あのときは意味がわからなかったが、今ならわかる気がした。頭ではなく、心で。そしてその終点は、あの日から少しずつ、少しずつオレに近づいてきて……今はもう……すぐ、そこに――
雨はさらに激しさを増して滝のようだ。それに追い打ちをかけるように暴風が主張してきて、まるで空の神様が怒り狂っているように思える。
普通ならそんな状態のとき、人は外出は避けようとするだろう。だがしかし、よりにもよって墓地のど真ん中で、傷だらけで、白目をむきながら、泡を吹いて無様に横たわる人がいた。それが主人公の――
「かぁ……い……た……」
顔が、胴体が、足が、手が、痛みと寒さによる筋肉の硬直で動けない。かろうじて動く目だけを頼りに、今の状況をさぐる。どうやらもう佐藤たちは帰っていったらしい。この雨と暴風なら当然だろう。
「い、いてぇ……いてぇ、よ……」
冷え切った体に対して、目からは生暖かい水が溢れてきた。痛みで泣いたなんて久しぶりな気がする。今まで笑って我慢してきたツケが回ってきたのだろうか。惨めだ。あまりにも脆弱で、貧弱で、情けなくて、頼りなくて、滑稽だ。でも、でも、だとしても……
「助け、て……助けて……」
人に見せられる姿じゃないのに、頭ではそう思っていても、どうしようもなく体は誰かの救護を必要としている。誰かの体温を必要としている。誰かの優しい言葉を必要としている。無力な自分を見すぎて頭がおかしくなりそうだ。
「うわー、酷くやられたね」
背後から声がしたので、オレは動き始めた手を使って体を後ろに回転させたが誰もいない。そして再び正面に向き直した際に、瞬間移動でもしたのかソイツはいた。
傘をささずに佇んで、ただオレだけを見つめている。やはり黒いシルクハットのせいで、目元は見えない。
恨みや怒りはなかった。それよりも先に、このどうしようもない状況に一筋の光を灯してほしかった。オレはまるで女王様に対する奴隷Aのようにカルアの足元にすり寄った。
「やく、そく、破いて……悪かった、からぁ……だから、たの、む……助け、て……!」
「……………………」
「なんで、黙ってん……よ。お願い、だ……助け――」
「もう、終わったんだヨ」
「……え?」
「もういいヨ。十分だ。主人公君は立派に役目を果たしてくれた。ストレス解消に悩む主人公が理想的な道具を手にしたが、結局最後は自分で手で壊してしまう哀れな最期を遂げる物語。同じことを言うようだけど、初めての仕事にしちゃ実に上手くいったヨ。これはあとで自分にご褒美をあげないとね」
なにを、言っているんだ? 今のオレには、カルアの言葉を理解するほどの知能も余裕もなかった。オレは助けてって言ってるんだぞ? 言葉の意味がわからないのか? ふとカルアはオレに目線を合わせるように両膝を折りしゃがんだ。
「な、んだよ……」
カルアは無言のまま、スッとオレの眉間へと右手を伸ばす。その行動には身に覚えがあり、反射的に恐怖を感じたオレは、仰向けのままながらも足と手を使って少しずつ後ろへ後退していった。
対してカルアは一歩、一歩、また一歩と亀のようにノロイ足取りだが、しかし確実にオレとの距離を埋めてくる。頼む、来ないでくれ。謝るから、修学旅行に行ってて、人間サンドバックを使わなかったことを謝るから……だから……!!!!
謝罪を口に出そうとしたそのとき、激しい激痛が襲った。外柵に後頭部を強く打ちつけたらしい。見ると暗闇のはずが、なぜかその竿石に彫られた文字を読むことができた。そこには……
須藤家之墓
これは、偶然なのだろうか? そんなことを考える暇もなく、それが壁となってこれ以上の後退するルートを塞いでしまったのだ。カルアがいつものようにニヒルな笑みを浮かべ足を止める。
「ま、待っ……」
ようやく発した言葉だが、言い終える前にカルアの「バイバイ、主人公君」という言葉の直後、再び眉間へと右手を伸ばしてくる。そして……
「――さぁ、終点の時間だヨ」
その言葉と同時に、カルアはピンッ――とオレの眉間を指で弾いた。その瞬間、まるでテレビの電源を消したようにあまりにも呆気なく、文字通り一瞬で意識が途絶えた。抵抗する暇も、声をあげる時間もなかった。
終わりのない崖下に突き落とされた気分だ。頭から一直線に、深く、黒く、暗く、時間の感覚も消え失せていく。これが、【死】というものなのだろうか。だとしたら、なんて、なんて、なんて悲惨な……
……………………
………………
………
なにも、見えない。一寸の光も混じっていない、純粋な、闇。音も闇に吸い込まれているのか、なにも聞こえない。ただ意識だけが、虚空の空間にぽつんと浮かんでいるだけのようだ。
喋ろうとしても喉が、舌が、口が、なに一つ存在しないようでなにもできない。このまま闇の一部として生き続けてしまうのだろうか? そもそもオレは、なんでこんな空間にいるんだ? 思い、出せない。
……………………………………………???
……だめだ。そろそろ、考えるのもダルくなってききた。いっそ目はないけど寝てしまおうかと考えたが、それは徐々に戻りつつある五感によりやめることとなった。手の感覚が、戻り始めた。まだ動かすことはできないけど。手の感覚が。
「ここにあるやつが全部サン◯◯◯◯なのか? 小せぇしただの毛◯の◯◯じゃねえか」
「お湯に浸すことで大きくなるんですよ。それに、ただの◯◯◯◯ックじゃありません。人◯◯◯◯◯◯◯ですよ。なんなりとご覧になってください」
――あ、あっ、ここ、は……?
なにやら話し声も聞こえる。ぼやけているが眼も見えるようになってきた。まずは状況の把握をしなければ。ここはどこなのかとか、今は何時かとか、わからないことばかりで頭が痛くな……あれ?
――サワレ、ナイ……。
何気なく頭を触ろうとしたら、腕が動かなかった。それどころかもう片方の腕もピクリとも動かない。どんなに力んでも力んでも力んでも、結果が変わることがなかった。
それでもがむしゃらに力んでいると、徐々に戻り続けてきた視覚がほぼ完全に回復した。やっタ……ヤったゾ!!!!
けれどすぐに――見えなければよかったと後悔した。
まず何処にいるかは、すぐにわかった。忘れるはずがない。床下が見えないほど暗い店内、青色のヒヤシンス、オレと同じ身長ほどのガラスケース、ここは…………人形屋! そして、なんで、なんでなんでなんでなんでなんで…………
――オ、オレが人形にィィィーーーッッ!!!!
体は全身毛糸で細かく編み込まれている。しかもオレがいる場所は、ひき逃げ事件の犯人が入れられていた小さなガラスケース!!
先ほど声を発したつもりが、なに一つ響いていなかった。さらにようやく顔の表情の部分がある形で固定されていることに気づく――笑顔だ。
――いっ痛い!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイ゛ダイ゛ィィィィィィイイイイイイ゛!!!!!!!!!!!!
まるで両側からありえない強さで頬を引っ張られ、無理やり笑顔を作らされているようだ。本来なら今すぐにでもちぎれそうなものだが、そうはならず絶えずして両頬には耐え難い痛みが送られ続けている。
――だ、れか……助け、て……
精いっぱい体に対して力を入れているが、未だに両腕は動くことがなかった。それでも両腕だけでなく両足や頭を動かそうとしばらく格闘していると、
「おい店主、この人形の分際で偉そうに中に入ってるやつは誰だ」
「これは最近入荷した人形でございまして、とても殴りがいがあるんですよ。私が保証します」
――なっ!? なにを言って……んだよ……瀬名さん。いや、今は堂流……なの、か?
そのとき、客と思われる佐藤とは比較にならないほどガタイがよく、灰色のタンクトップを着た男が、ガラスケースのドアを開けた。そして――
――ギャアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!!
「本当にどれでも一つ無料でいいのか? あとで金要求すんなよ」
「ご安心ください。料金はいずれ然るべきときにいただきますので」
叫んでいるはずなのに、相変わらず店内は不気味なオルゴールの音楽が流れ続けている。タンクトップの男はニヤニヤしながら、オレの四肢や頭を本来はありえない方向に曲げたり、強くつまんだりして遊んでいる。なのに……なのに、
――なんでずっと、意識を失えないんだよオオオォォォォォォッッッッッッ!!!!
「お客さん、それにしますか?」
「ああ気に入ったよ。この貧弱貧弱そうな間抜け面が気に入った。これから――よ・ろ・し・く・な♥」
吐き気を催す邪悪な笑みをこちらに向ける灰色のタンクトップの男。お、おい、ちょっと待てよ。じゃあこれからオレは、この男に……そんな! オレが今までやってきたことと同じか、それ……以上か……。
これから、
これから、
これから、
これから、
これ、か、ら――――
ぃ
――嫌だァァァッッッ!!! もうストレス解消なんてェェェェェッッッ!!!!!!!!!!
「……あっという間、だったな」
「みんな、行くときはあんなに騒いてたのに、帰りはすごい静かだよね。変なの」
「疲れちゃったんだよ、きっと。オレも足が筋肉痛だ」
「ふふっ、わたしも。明日は振替休日だけど、どこも出かけれる体力なんてないよね。たまには家でオンラインゲームでもしない?」
「いいねいいね! ところで、そのゲームの内容は………………」
太陽は目を瞑ってしまうほどにまばゆいオレンジ色に輝き、はるか地平線の先に沈もうとしている。そんな美しくも何気ない風景を、バスに優しく揺られながら眺めている。これから学校に到着して、そこで現地解散となる。
三泊四日という言葉だけ聞くと長旅だが、体内時計が狂ったのかあまりにも一瞬に、刹那に、秒針のごとく終わってしまった。まるで修学旅行に行ったという結果だけが残ったようだ。
広島の原爆ドームを見たり、東京のディスリーランドで遊んだり……その他にも楽しいことが起こりすぎて、夢うつつな気分がどうも抜けないでいる。
どうして、楽しい時間はこうも早く終わってしまうのだろうとバスに乗っているのに船を漕ぐという矛盾の状態になりながら考えていると、プシューという音の後にバスが停車する。見ると学校の校門前で、いつの間にか到着したことになっていた。
普通なら景色を眺めている時点で目的地が近いことに気づきそうだが、よほど寝ぼけていたのだろう。いざ立ち上がろうとしたものの、眠気が邪魔してうまくいかない。
「着いたよ。寝るなら家で寝なよ」
大好きな彼女に起こされる……なんと気分が良いものか。もう少し寝たフリでもしようと思ったが、これ以上は芹澤さんに、ついでに運転手にも迷惑がかかるのでやめた。オレはあたかも今起きたかのように寝ぼけた声を出す。
「ん、んぁ……ほんとだ。ごめん、うっかり寝ちゃってた」
「バスの運転手さん、早く発進したいって」
芹澤さんに半ば引っ張られる形でオレはバスを降りる。外に一歩でた瞬間、夜を告げるようなひんやりとした冷たい風が頬を撫でた。すでに他の生徒は一人で帰ったり、家族に迎えに行ってもらったりしている。
降りたのを確認して走り去っていくバス。長い時間バスに乗ってたので体の筋肉が固まってしまっていた。少しでもほぐそうと勢いよく伸びをしようとしたら……
「――ヤクソク、ヤブッタネ」
「!!!!」
両肩に手を置いて、耳元で囁く……そんな悪趣味な話しかけ方をする人物は、オレが知っている限り一人しかいなかった。首がネジ切れるほどの早さで振り向いたが……そこにはがらんとした寂しい道路があるだけだった。
「どうしたの? 親にパソコンの検索履歴を見られたみたいな顔して」
「……いや、なんでもない。じゃ、じゃあ、帰り道こっちだから。またね!」
「またね!」
きっとまだ、寝ぼけているのだろう。そう思うことにした。足だけじゃなく、喉もたくさん喋ったり笑ったりして疲れているはずなのに、別れ際は元気な声を出して手を振ってくれる彼女。オレも負けじと大声を出しながら強く手を振り返した。
逆光により黒く染まったアパートを見ると、たった三日のはずなのにやけに長く家に帰っていない感じがする。
今日は使用しなかった三日分と今日の分を含めて人間サンドバッグと向かい合わないといけない。正直に言うとダルいが、約束だから仕方ないと玄関のドアを開けようとしたら……
「あれ? 鍵が……」
かかってない、そんな馬鹿な。アパートを出る前、当然かけたはずなのに。靴を脱いでフローリングの床を踏んだそのとき、靴下になにやら湿った感覚がした。足裏を見ると――
「なっ、なんだよこれ!!」
白色の靴下は――身の毛がよだつほど真っ赤に染まっていた。血溜まりか、それともただの絵の具か。よく見るとソレは点々と、部屋から続いているのがわかる。オレは我を忘れて飛び込んだ。
「人形が……ない!!」
万が一、人に見られないように押し入れに隠していたはずの佐藤たちの人形がなくなっていた。約束を破ったから回収された? 嘘だ、そんな、ありえない。上手く思考がまとまらず、焦りだけが夏休みの宿題のように募っていく。
ぐるぐると人間サンドバッグを使っていた時間を思い返す。きっとこれからも使い続けるのだろう。そうと思っていた。しかしそれが今、音を立てて崩れ始めていることは想像に難くなかった。足先から指先にかけて震えが止まらない。禁断症状ってヤツだろうか?
「――! そ、そうだ! 人形屋に、行けば、必ず……!!」
カルアの夜にしか営業していないなんて言葉は、頭の隅の隅の隅へと追いやった。根拠なんてなかった。
しかし今動かずにただ喪失感に浸るのはあまりにも愚かだと思えたから。行動する理由はそれだけでいい。オレは鍵をかけるのも忘れて外へ飛び出した。
くたくたになったはずのオレの体はどこから力が注がれているのか、人形屋に行くという目的を得たとたんに自分の限界を超えるパフォーマンスを見せてくれた。
学校をグルっと右に迂回し、裏門の方向に出れば、あの日と同じように遠くの山々や果てしなく続く一本道、廃墟と化した民家がある田舎に着く。間違いない、ここを真っすぐに進めば到着する。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…………」
走り方なんてめちゃくちゃだ。以前疲れない走り方というのをネットの記事で見たことがあるような気がするが、人間本当に焦っているときは視野が狭くなる。故にそんなことをするほど今は頭が回らないのだ。
走る、走る、走る、走る。疲労なんて忘れてしまうほどに。しかし代わり映えのない単調な景色が、本当に人形屋に向かっているのだろうかという不安を生んで、振り切るようにしてさらにオレは加速した。
どれくらい走っただろうか? そろそろ建物らしきものが見えないとおかしいのに、見えるのは相変わらず山々や田んぼばかりだ。
あの日カルアと一緒に歩いた距離から考えて、そろそろ人形屋の建物が見えるはずなのに……道を間違えるはずもなく困っていると、電柱に一人の男が花束と紙袋を持って立っているのを見つけた。その花束には――見覚えがあった。
「あっ……!」
――青色のヒヤシンスだ。なんであの男が!? それは近づいていくごとに理由がハッキリしていった。その電柱は、黒いシルクハットを追いかけていたあの夜、偶然通りかかった場所だったのだ。今でも十分に加速していたが、さらにギアを上げた。
貪る勢いで酸素を体内に取り込む。男の見た目は四十代前半くらいでつむじが大きく禿げており、ぽっちゃりとした体型に猫背が目につく。言っちゃ悪いが、大人の余裕などの覇気をこれっぽっちも感じなかった。
その男は電柱に置いてあった駄菓子や135ml入りの缶ビールを取り除いたあと、紙袋から新たに同じ駄菓子や缶ビールを並べた。
「あ、あの……」
オレは思わず話しかけてしまっていた。いや、正しくは話しかけずにはいられなかった。なぜなら、通りかかったときは暗闇でわからなかったが、電柱には駄菓子や缶ビールのほかにもう一つあったのだ。それ、は……
「その、写真の人って……奥さんと息子さんですか?」
写真には、クリスマスツリーを背に三人家族が肩を寄せ合いながらにっこりとピースをしていた。右下には小さく(ニ✕✕✕年十二月 汐満家 ✕✕駅にて。)と書かれている。
そこに写っている水玉模様のニット帽を被っている人物は――堂流さんその人だった。
「きっ、君は……? 瀬名と颯希の、知り合いだったのかい?」
キョトンとした顔で目の前の男はオレに問いかけてきた。瀬名? 颯希? 聞いた、ことのない名だ。いったい誰の、ことを言っているのだろう? 意味が、わからな……
「――ッ!!」
熟睡していたところを特段やかましい目覚まし時計に起こされたような衝撃が走る。脳内は急速にある記憶へと遡っていた。
今から大体六年前、小学五年生になる何日か前だった気がする。オレが住んでいる街でひき逃げ事件が起こったのだ。
朝のニュースでぼんやりと見た記憶がよみがえる。時間は夕暮れ時、当時妊婦だった母親とその息子が帰路につく途中に後ろからバイクが激突し即死。
その後通報され焦った犯人が都市部へ逃走、信号無視などの交通違反を繰り返した挙げ句、当時横断歩道を渡っていた四十代のサラリーマンを轢いて重傷を負わせた痛ましい事件だ。
あのとき感じた既視感が、音を立てて点を作り、線でつながっていく。それがたしかな形を形成する。最初に死亡した親子の、被害者の、名前が――
――きっ、君は……? 瀬名と颯希の知り合いだったのかい?
「アアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
オレは叫びながら頭を抱えてうずくまった。予期せぬ行動に毒気を抜かれる四十代の男。じゃ、じゃあ、オレがあの日関わった堂流さんは? 二階から聞こえてきた男の子の泣き声は? ?マークと恐怖で押しつぶされてどうにかなってしまいそうだった。
男の話を聞く限り、どうやら瀬名と颯希というのは オレが知っている堂流さんとその息子の本当の名前らしい。そして男いわく、自分は瀬名さんの旦那だというのだ。ここまで理解するのに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
「……君が誰かは知らないが、よかったら少し私の話を聞いてくれないか?」
瀬名さんの旦那は話を聞いて欲しかったのか、オレへの返事を待つことなくぽつりぽつりと、左斜め上を見ながら昔を懐かしむように話し始めた。
「瀬名とは……今はなくなっちゃったけど、この辺りに私の実家があってね、農家を営んでたんだ。ちょうど今の時期、両親の手伝いに行ったときに、向かいの土地に引っ越してくる人がいたんだ。田んぼくらいしかないこの辺鄙な土地に誰だろうと挨拶しに行ってみると」
「そこで……」
こくりと頷く瀬名さんの旦那。しかし皮肉な話だ。瀬名とその旦那さんが出会った場所であるにも関わらず、よりによってそこで瀬名さんとその息子が命を落とした場所でもあるなんて。瀬名さんの旦那さんは、この事実をどう受け止めているのだろう。
「一目惚れだったんだ。振られても辛抱強くアタックしてね、気持ちが通じたときは心の底から嬉しかったよ。畑作業も一緒にやっていく中で、色々と瀬名のことを知っていった。好きな食べ物とか花とか、面白いテレビ番組だとか、趣味だとか。特に趣味はちょっと変わっててね、なんだと思う?」
その答えを、オレはすでに持っている気がした。考えるより先に、ボソッと唇が勝手に動いた。
「……人形作り」
「え? なんでわかったの!? やっぱり君、瀬名とどうゆう関係なんだい? 見たところ高校生だし……」
「いえ違います! いやその、違わない、かもしれないんですが……」
回答がめちゃくちゃになり、しどろもどろになっているオレのことを察してくれたのか、瀬名さんの旦那はそれ以上の詮索をやめて再び話を再開した。
「君の言う通り、瀬名は人形作りが趣味でね、と言っても材料は木材とか粘土を使う本格的なものじゃなくて、毛糸で編む比較的かんたんなものなんだけど。よく休日はホームセンターに付き合わされたよ。面倒なことも苦しいこともあったけど、やがて結婚して、颯希が生まれて、二人目を妊娠して、まさに幸せの絶頂だったと思う」
泣きそうなのをグッとこらえているのか、下唇を強く噛んでいる瀬名さんの旦那。その表情からして、瀬名さんはとてもじゃないがあんなピエロのように不気味に笑う人形を作っていたとは思えなかった。ふと話していた瀬名さんの旦那の顔が、かすかに翳った。
「でも……そんな絶頂は長くは続かなかった。例のひき逃げ事件が起こってね、ひどい状態だったそうだ。なんでも瀬名は颯希をかばったせいか、バイクがモロに直撃して、脳みそがあちこちに散乱してたらしい。もちろん、お腹の中にいた赤ちゃんも……ハハ」
「そう、ですか……」
なにもかける言葉がなかった。瀬名さんの旦那は、砂漠のように乾いた笑いをもらしている。頭痛に悩んでこめかみを押す堂流――いや、瀬名さんを思い出す。あの水玉模様のニット帽の下には、いったいなにが隠されていたのだろうか。
「付き合わせてしまって悪いね。君もこれから――墓参りに行くんだよね? よかったら一緒に行かないかい?」
「……え?」
一瞬、なにを言っているのかわからなかった。ほんの冗談なのかと次の言葉を待つが、瀬名さんの旦那はいたって当然のことを喋っていると言わんばかりに顔色を一つも変えなかった。
「はか、まいり? じゃなくて、ここから歩けば三分くらいで道具小屋に……」
「小屋? なにを言っているんだい? ここから先にある建物は――墓地ぐらいしかないよ?」
ブワッと一気に毛が逆立つのを感じる。それが合図となってオレは再び全速力で走り出した。後ろで瀬名さんの旦那がなにかを言っているようだったが、そんなことはどうでもよかった。
「そうだ……そうじゃないか! 瀬名さんと、その息子と、赤ちゃんが死人だとしたら、あの店は、あの店は……!!」
否定したかった。ただただ否定したかった。もう一度だけでいいからあの人形屋に行って、佐藤たちの人形とは違った新しい人間サンドバッグを紹介してほしかった。
せっかく失くした大事なものを取り戻せると唯一の望みを託したのに、それがゴミのように無残に打ち砕かれるというそんな現実が、起こっていいはずがなかった。
でも、でも、でも――沈む間際の夕日に照らされたその場所はどこまでも陰湿で、どこまでも陰鬱で、オレは全身の力が抜けてその場にへなへなと座り込んでしまった。
「あ、ああ、あぁ……」
まるでオレだけが逃げ遅れてしまい、ビルの高さほどある怪獣から睨まれたときのような絶望感が襲う。
人形屋があったはずの小屋には――広大な墓地が建てられていた……。
「違う、だろ。違う…………だろ……」
ゆらゆらと息絶える寸前の豊田議員ようにオレは墓地を徘徊する。まるで幻想でも見ているようだ。しかし視覚からの伝達情報を何度修正しても、答えは覆ることはなかった。
さっきまで走っていてかなり暑かったのに、ここに向かい合ったとたん鳥肌が立つほど涼しくなってしまった。理由は間違いなく、もうすぐ日が落ちるだけではないだろう。
「……んぁ?」
目的もなく歩き続けていると、ある竿石に目が止まった。なんてことない、たくさんあるうちの一つでしかないそれが、なぜだか強く惹きつけられる。導かれるように前に立ち、刻まれた文字を見て――グラリと視界が歪んだ。
汐満家之墓
「汐、満……?」
同姓同名……いや、こんな珍しい苗字がそう簡単にいるはずがない。じゃあ、本当に……
「人形屋なんて、存在しないのか……」
「――そんなことないヨ」
ハッとして振り返ると、そこには、見覚えのある人物が佇んでいた。相変わらず黒いシルクハットで目元は隠れており、不気味にニヤける口元だけが浮かび上がっていた。
「初めて店に行くとき言ったよね? 夜にしか営業してないって。営業時間外に来られるのは、こっちとしても迷惑だヨ」
「どうゆうことだよ! 家に帰ると人形がなくなっているし、人形屋がある場所は墓地になってるし、意味わかんねぇよ!!」
つばを飛ばす勢いで怒鳴り散らしたのに対してカルアは、時折シルクハットを正しい位置に直しながら、オレを視界に入れることなく服についたホコリを手で払っていた。それを見て血管が切れたのとカルアに掴みかかったのはほぼ同時だった。
「……なんだよ。なに、黙ってんだよ。オレは説明を求めて――」
「青色のヒヤシンスの花言葉は、『不変』『変わらぬ愛』なんて意味があるんだヨ。実にロマンチックだと思わないかい?」
「??? なにを、言ってるんだ……?」
「人間という生き物はあっという間に年を取る。橋本○奈のような美少女も、福山○治のようなイケメンも、いずれシワが出て醜くなり、思うように体が動かず、ベッドで寝たきりになって、生命維持装置に繋がれた挙げ句、細々と生涯を終える。こっからはぼくの憶測でしかないけど、それを悲観した堂流君が青色のヒヤシンスの花を好んだり、少しでも変わらず色褪せないものとして人形作りが趣味になったりすることは、必然だと思わないかい?」
――時間ほど残酷なものはありません。たとえ今が満たされていても、いつの日かすべてを奪われる日が来るかもしれない。このまま普通のパンチングボールを使い続けることに、なんの不満もないんですか?
瀬名さんのいつの日かすべてを奪われる日が来るかもしれないという言葉は、ひき逃げ事故が原因ですでにこの世にいないからこそ出たのだと納得した。
「そういえば、堂流君はまだ君に話してなかったよね? 店を作った目的を」
「そ、それはあの店が人間サンドバッグを売ってる店だって……あっ」
そう言えばそうだった。たしか人形屋に行ったあの日は「ここにある人形はなんなのか?」と訊いただけで、店を作った目的までは訊いていない。オレはずっと掴んでいたカルアの胸ぐらを離した。
「それを話す前に確認なんだけど、大体の事情は思い出したよね? ひき逃げ事件のこと。死者は潮満瀬名とその息子の潮満颯希、そして……生まれるはずだった赤ちゃん。元から二人目を作る予定だったのか、女の子だったら六花、男の子だったら六助とすでに名前は決めてたらしいヨ」
「…………」
オレは黙って話を聞いていた。瀬名さんはどうして、人間サンドバックなんて売る店を出そうと思ったのだろう? その答えが、カルアなら知っているような気がした。
「まぁ、そんなことはどうでもいいか。ところで主人公君は、その事件がどのような結末を迎えたか知っているかい?」
いくら世間を騒がせた事件とはいえ、すでに六年は経っている。オレは頭の細胞すべてを使って記憶を掘り起こす作業をした。そして、
「…………あ! たしか犯人は三人の死者と一人の重傷者を出したにも関わらず、たったの懲役八年という軽すぎる刑が下された! どうして……」
「親ガチャだよ! お・や・ガ・チ・ャ! いいとこの坊ちゃんだったらしいねぇ。被害者側の弁護士に多額の賄賂を渡して証拠品を押収したり、不利になることばっか言わせて裁判を有利に進めたらしいヨ。清々しいほどのクズで笑えてこないかい?」
まるで嘲るような口調で、しまいにはお腹を押さえながら笑い転げるカルア。なにが……なにがおかしいんだよ! と言ってやりたい。しかし話の内容が衝撃すぎて口が動かなかった。カルアはひとしきり笑い終えると話に戻った。
「さぞかし瀬名さんたちは無念だろうねぇ。その無念さが憎しみに代わるのはもはや、アダムとイブが結ばれて夫婦になるくらい当然のことだったヨ。命を奪った犯人、もしくはその可能性がある標的を甘い言葉で人形屋に誘い込み、いっときの夢を見せたあとに人形化する。そしてそれを商品として売る。これが人形屋の本当の目的だヨ」
ガラスケースに並べられた人間サンドバッグ達。あれはすべて、瀬名さんを轢いた犯人のような罪を背負った人なのか…………いや、ちょっと待て、だとしたら――
「なあカルア。あの小さなガラスケースに入れられた人形ってなんだ? 見た目こそ他の人形と一緒なんだが、なんかその……オーラが違うというか……」
「まだわからないのかい? 犯人の顔をよーく思い出してみなヨ」
「かお? 顔って……ッ!!」
ニュースで見た犯人の顔と、人形屋でガラスケースに入れられた顔が、パズルのように一致した。今まで思い出せなかったのは、見た目がどこにでもいる平均的な顔すぎて、他の誰かと混合してしまっていたからだ。
しかし二つだけ、犯人にしか持っていないなん特徴がある。頬にある猫に引っかかれたような傷跡、右目尻に直径一センチはある大きなほくろ……間違えない、あの小さなガラスケースに入れられた人形の正体は――ひき逃げ事件の犯人だ。
「主人公君が視たあの映像は、瀬名さんたちを轢いたときの犯人の記憶なんだ。毎回触った他人がどんな反応をするのか、僕のささやかな楽しみなんだヨ。悪いね」
ペロッと舌を出して謝るカルアに対して、オレは憤ることより先に……本来なら、もっと早くに気づくべきだった疑問が浮かび上がっていた。
「そうだカルア! たしかさっき人形屋には、瀬名さんたちを殺した犯人のような人だけを誘い込むって言ったよな?」
「ん、そうだヨ。それとその可能性がある人ね」
「じゃあなんで……カルアはオレを人形屋に連れ込んだんだ! たしかにオレは褒められるほどの立派な人間じゃないが、かと言って犯罪を犯すほど落ちぶれた覚えはねぇし、その可能性もねぇぞ!!」
ガスコンロで強火に点火したように、オレは再び怒りの炎をカルアに突きつけた。カルアはオレに見せつけるようにわざとらしく、大きくうなだれて、
「……ハァ……主人公君はなにも、なーんにもわかってないようだね」
「なにを言って――グァッ!」
再度掴もうとした直前、伸ばした腕を逆に掴んできたカルア。その瞬間、まるで万力なような力で掴んだ箇所を締めつけてきた。骨がギリギリときしみ、筋肉がプレスされて破裂しそうだ。
「ど、どうして……こんな、ことを……!」
「もう一度言うよ。約束、破ったでしョ?」
「――ッ!!」
バスを降りた際に聞こえたあの言葉は、やっぱり……
「一日一回、五分だけでいいから人間サンドバッグを使用すること。そう言ったよね? なのに主人公君はのんきに青春の思い出づくり? 意味がわからないのはこっちのほうだヨ。理由を聞いてもいいかな? かなぁ?」
「そ、それは、修学旅行だから……持ってくわけにも、いかない、から……仕方な――アガアァァァァッ!!!!」
グジュッ とまるで果実が潰れたような音の直後、腕の中の骨がバラバラに砕け散った気がした。一部は皮膚を突き破りそこから出血してしまっている。オレはたまらずひざまずき、腕を強く押さえ込んだ。カルアは聞いたことのないような冷ややかな声で、
「仕方ない? 今仕方ないと言おうとしたのかい? 不愉快だヨ。主人公君も一回くらい言われたことがあるだろう? 嘘つくと閻魔様に舌を抜かれるって、泥棒の始まりって。約束というのはつまり、嘘をつかないことだヨ」
「だか……ら、オレも犯罪者と同じ……って、言いたい、のか……?」
「休めば、良かったのにね……。これから主人公君が受けるバツに比べれば――きっとそう思うはずだヨ」
「バ、バツって……なにを、馬鹿なことを」
口ではそう言ったものの、言葉は震度三ほどの震えを隠しきれなかった。しばらくすると遠くからズザッ、ザッ、ザッと、こちらに向かってなにかを引きずるような音が聞こえた。
やがて暗闇に目が慣れてきたとき、視界に映る人物を見て……オレはさらに絶望した。
「さ、さと、う……?」
顔を俯かせてはいるが、あの金髪で格闘家のようにガッシリとした体つきは間違えなく佐藤だった。
人間サンドバッグが意思を持って歩いている!? なんて驚く暇もないまま、続いて鈴木、高橋とぞろぞろと姿を現したのだ!
オレはまるで他の子どもにおもちゃを取られて喚く三歳児のように、今にも泣き出しそうな顔でカルアの脚に縋りついた。
「どうしてだよ! んも、戻らないんじゃなかったのかよぉ! だから! 安心して、使ってたのに……」
「戻らないヨ……約束を破らない限りは。一日一回殴ることで、本来は制御できなくて戻ってしまうところを抑え込んでいるんだヨ。それを主人公君は……もったいないことをしたね」
ま、まさか、そんな……だから一日一回は殴るなんて約束を……。オレはただ、修学旅行を楽しんでいただけなのに。美味しい飯を食べて、きれいな景色を見て、そんな学生時代なら当たり前の幸せを享受していただけなのに……!
「そ、そんなこと……わからない、だろ」
「その言葉は――ぼくじゃなくて、三人に言ったほうがいいと思うヨ」
ニヒルな笑みを見せつけたのち、カルアはオレの肩にポンと手を置き「元気だヨ。元気があればなんでも耐えられるヨ」とあまりにも投げやりな言葉を残したあと、そのまま霧散するようにしてフッとどこかへ消えてしまった。
四人だけの世界と化した墓地。大量のカラスがこれから起きることを暗示しているかのように、こちらに向かって一斉に鳴いてきた。それに呼応するかのように、ぽつりぽつりと雨が降り始める。
「ナぁ、スドウ……お前ノ、お前のセいデよォ……」
佐藤が一歩前へ出ると、怪獣のように唸り声を上げながら、オレに見せびらかすように着ている制服を縦に裂いてみせた。以前は人間に限りなく寄せた肌や毛穴などがあったが、オレが見た光景は予想をはるかに裏切るものだった。
「ヒッ、ヒイイィィィィィィッッッ!!!!」
佐藤は、中途半端に戻ってしまったのか――まるで人体模型のように皮膚がなく、肉がなく、骨もなく肺や心臓などの臓器がまるだしになり血が滴っていた。こんな状態で生きれるわけがない。じゃあ、今佐藤の体を動かしているものは――
「グガウッ!!」
「よウヤく、お前に、一発食らラセられタぜ。しカシまだ足りなイ……」
「ちョッと佐藤さんズルいッスよ! オレも須藤に殴らレタ恨みは同じッスから!」
「ぼくを、仲間はズレに、しないデよ。ポコチン、触られた屈辱、どう晴らせば、イイか、考エテよ」
いつの間にか横に回り込んでいた高橋が、オレの頬が食い込むんで血が出るほどの一撃を食らわせた。血は本降りになった雨により流れて地面に吸収されていく。オレは泥濘んだ地面に頭をこすりつけるようにして、
「ごめん、なさい……ごめん、なさい……ごめんなさい」
今更謝っても遅いのに、謝らずにはいられなかった。無駄だとわかっていても、助かる可能性がコンドームほどの厚さしかないとしても、オレはそれにかけたかった。しかし願いは届かず、ついには逃げられぬように四方を取り囲まれてしまった。
「こ丿日を、ずッと、待っテイたぞ……スドウ」
「今まデに殴らレタ……四百六十一万九千五百七十七発」
「百億倍、返シ、ダ」
「やめてくれェェェーーーーーーッッッ!!!!!」
愚者の絶叫が響き渡る。だがそれは、先ほどの血と同様に地面に吸収されていくだろう。殴られながら、蹴られながら、消えてしまいそうな意識の中、カルアの言葉を思い出す。
――終点までの物語は、今……決められた
あのときは意味がわからなかったが、今ならわかる気がした。頭ではなく、心で。そしてその終点は、あの日から少しずつ、少しずつオレに近づいてきて……今はもう……すぐ、そこに――
雨はさらに激しさを増して滝のようだ。それに追い打ちをかけるように暴風が主張してきて、まるで空の神様が怒り狂っているように思える。
普通ならそんな状態のとき、人は外出は避けようとするだろう。だがしかし、よりにもよって墓地のど真ん中で、傷だらけで、白目をむきながら、泡を吹いて無様に横たわる人がいた。それが主人公の――
「かぁ……い……た……」
顔が、胴体が、足が、手が、痛みと寒さによる筋肉の硬直で動けない。かろうじて動く目だけを頼りに、今の状況をさぐる。どうやらもう佐藤たちは帰っていったらしい。この雨と暴風なら当然だろう。
「い、いてぇ……いてぇ、よ……」
冷え切った体に対して、目からは生暖かい水が溢れてきた。痛みで泣いたなんて久しぶりな気がする。今まで笑って我慢してきたツケが回ってきたのだろうか。惨めだ。あまりにも脆弱で、貧弱で、情けなくて、頼りなくて、滑稽だ。でも、でも、だとしても……
「助け、て……助けて……」
人に見せられる姿じゃないのに、頭ではそう思っていても、どうしようもなく体は誰かの救護を必要としている。誰かの体温を必要としている。誰かの優しい言葉を必要としている。無力な自分を見すぎて頭がおかしくなりそうだ。
「うわー、酷くやられたね」
背後から声がしたので、オレは動き始めた手を使って体を後ろに回転させたが誰もいない。そして再び正面に向き直した際に、瞬間移動でもしたのかソイツはいた。
傘をささずに佇んで、ただオレだけを見つめている。やはり黒いシルクハットのせいで、目元は見えない。
恨みや怒りはなかった。それよりも先に、このどうしようもない状況に一筋の光を灯してほしかった。オレはまるで女王様に対する奴隷Aのようにカルアの足元にすり寄った。
「やく、そく、破いて……悪かった、からぁ……だから、たの、む……助け、て……!」
「……………………」
「なんで、黙ってん……よ。お願い、だ……助け――」
「もう、終わったんだヨ」
「……え?」
「もういいヨ。十分だ。主人公君は立派に役目を果たしてくれた。ストレス解消に悩む主人公が理想的な道具を手にしたが、結局最後は自分で手で壊してしまう哀れな最期を遂げる物語。同じことを言うようだけど、初めての仕事にしちゃ実に上手くいったヨ。これはあとで自分にご褒美をあげないとね」
なにを、言っているんだ? 今のオレには、カルアの言葉を理解するほどの知能も余裕もなかった。オレは助けてって言ってるんだぞ? 言葉の意味がわからないのか? ふとカルアはオレに目線を合わせるように両膝を折りしゃがんだ。
「な、んだよ……」
カルアは無言のまま、スッとオレの眉間へと右手を伸ばす。その行動には身に覚えがあり、反射的に恐怖を感じたオレは、仰向けのままながらも足と手を使って少しずつ後ろへ後退していった。
対してカルアは一歩、一歩、また一歩と亀のようにノロイ足取りだが、しかし確実にオレとの距離を埋めてくる。頼む、来ないでくれ。謝るから、修学旅行に行ってて、人間サンドバックを使わなかったことを謝るから……だから……!!!!
謝罪を口に出そうとしたそのとき、激しい激痛が襲った。外柵に後頭部を強く打ちつけたらしい。見ると暗闇のはずが、なぜかその竿石に彫られた文字を読むことができた。そこには……
須藤家之墓
これは、偶然なのだろうか? そんなことを考える暇もなく、それが壁となってこれ以上の後退するルートを塞いでしまったのだ。カルアがいつものようにニヒルな笑みを浮かべ足を止める。
「ま、待っ……」
ようやく発した言葉だが、言い終える前にカルアの「バイバイ、主人公君」という言葉の直後、再び眉間へと右手を伸ばしてくる。そして……
「――さぁ、終点の時間だヨ」
その言葉と同時に、カルアはピンッ――とオレの眉間を指で弾いた。その瞬間、まるでテレビの電源を消したようにあまりにも呆気なく、文字通り一瞬で意識が途絶えた。抵抗する暇も、声をあげる時間もなかった。
終わりのない崖下に突き落とされた気分だ。頭から一直線に、深く、黒く、暗く、時間の感覚も消え失せていく。これが、【死】というものなのだろうか。だとしたら、なんて、なんて、なんて悲惨な……
……………………
………………
………
なにも、見えない。一寸の光も混じっていない、純粋な、闇。音も闇に吸い込まれているのか、なにも聞こえない。ただ意識だけが、虚空の空間にぽつんと浮かんでいるだけのようだ。
喋ろうとしても喉が、舌が、口が、なに一つ存在しないようでなにもできない。このまま闇の一部として生き続けてしまうのだろうか? そもそもオレは、なんでこんな空間にいるんだ? 思い、出せない。
……………………………………………???
……だめだ。そろそろ、考えるのもダルくなってききた。いっそ目はないけど寝てしまおうかと考えたが、それは徐々に戻りつつある五感によりやめることとなった。手の感覚が、戻り始めた。まだ動かすことはできないけど。手の感覚が。
「ここにあるやつが全部サン◯◯◯◯なのか? 小せぇしただの毛◯の◯◯じゃねえか」
「お湯に浸すことで大きくなるんですよ。それに、ただの◯◯◯◯ックじゃありません。人◯◯◯◯◯◯◯ですよ。なんなりとご覧になってください」
――あ、あっ、ここ、は……?
なにやら話し声も聞こえる。ぼやけているが眼も見えるようになってきた。まずは状況の把握をしなければ。ここはどこなのかとか、今は何時かとか、わからないことばかりで頭が痛くな……あれ?
――サワレ、ナイ……。
何気なく頭を触ろうとしたら、腕が動かなかった。それどころかもう片方の腕もピクリとも動かない。どんなに力んでも力んでも力んでも、結果が変わることがなかった。
それでもがむしゃらに力んでいると、徐々に戻り続けてきた視覚がほぼ完全に回復した。やっタ……ヤったゾ!!!!
けれどすぐに――見えなければよかったと後悔した。
まず何処にいるかは、すぐにわかった。忘れるはずがない。床下が見えないほど暗い店内、青色のヒヤシンス、オレと同じ身長ほどのガラスケース、ここは…………人形屋! そして、なんで、なんでなんでなんでなんでなんで…………
――オ、オレが人形にィィィーーーッッ!!!!
体は全身毛糸で細かく編み込まれている。しかもオレがいる場所は、ひき逃げ事件の犯人が入れられていた小さなガラスケース!!
先ほど声を発したつもりが、なに一つ響いていなかった。さらにようやく顔の表情の部分がある形で固定されていることに気づく――笑顔だ。
――いっ痛い!! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイ゛ダイ゛ィィィィィィイイイイイイ゛!!!!!!!!!!!!
まるで両側からありえない強さで頬を引っ張られ、無理やり笑顔を作らされているようだ。本来なら今すぐにでもちぎれそうなものだが、そうはならず絶えずして両頬には耐え難い痛みが送られ続けている。
――だ、れか……助け、て……
精いっぱい体に対して力を入れているが、未だに両腕は動くことがなかった。それでも両腕だけでなく両足や頭を動かそうとしばらく格闘していると、
「おい店主、この人形の分際で偉そうに中に入ってるやつは誰だ」
「これは最近入荷した人形でございまして、とても殴りがいがあるんですよ。私が保証します」
――なっ!? なにを言って……んだよ……瀬名さん。いや、今は堂流……なの、か?
そのとき、客と思われる佐藤とは比較にならないほどガタイがよく、灰色のタンクトップを着た男が、ガラスケースのドアを開けた。そして――
――ギャアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!!
「本当にどれでも一つ無料でいいのか? あとで金要求すんなよ」
「ご安心ください。料金はいずれ然るべきときにいただきますので」
叫んでいるはずなのに、相変わらず店内は不気味なオルゴールの音楽が流れ続けている。タンクトップの男はニヤニヤしながら、オレの四肢や頭を本来はありえない方向に曲げたり、強くつまんだりして遊んでいる。なのに……なのに、
――なんでずっと、意識を失えないんだよオオオォォォォォォッッッッッッ!!!!
「お客さん、それにしますか?」
「ああ気に入ったよ。この貧弱貧弱そうな間抜け面が気に入った。これから――よ・ろ・し・く・な♥」
吐き気を催す邪悪な笑みをこちらに向ける灰色のタンクトップの男。お、おい、ちょっと待てよ。じゃあこれからオレは、この男に……そんな! オレが今までやってきたことと同じか、それ……以上か……。
これから、
これから、
これから、
これから、
これ、か、ら――――
ぃ
――嫌だァァァッッッ!!! もうストレス解消なんてェェェェェッッッ!!!!!!!!!!

