コツコツとはしごを降りる音が反響している。よほど深いのだろう。下を見てしまうと体が竦みそうなので、ただひたすらに降りることに集中していた。
「……なんでこんな夜遅くなんだ? 普通なら店は閉まってないか?」
「ところがどっこいその逆で、これから行く店は夜にしか営業してないんだヨ。それも秘密な感じがしていいと思わない?」
雑談をしながらたっぷり一分ほど使って下に到着し、うしろを振り返ると、二十メートルほど真っすぐ行った先に古びた木製のドアが見えた。そこまでの道は両脇に設置されたろうそくが頼りなく照らしている。
進んでいくと、カルアはドアの横の壁に寄りかかりながら腕を組み、いかにも気怠そうにしてオレが来るのを待っていた。
「タラタラしていいのはお菓子だけだヨ主人公君。まぁいいけど。ここが……欲しいものが手に入る店だヨ――」
ドアにはすりガラスが設置されているが、明かりがもれている様子がない。ギギギィッッー と耳に残るような不快音を出しながら、カルアがノブを回してドアを開け放すと――
「うわぁ……」
非常に失礼かもしれないが、とにかく陰鬱で暗い雰囲気だった。唯一の明かりである蛍光灯は一部が切れていたりしてほとんど機能しておらず、床はまるで闇そのものだ。
正面にはオレの身長ほどはある大型のガラスケースが四つ設置されており、中に入っているものは見えない。そこからみぎて奥はとりわけ明るく、カウンターらしき場所がある。
壁に設置されたスピーカーからは、どこか不安を掻き立てられるような不気味なオルゴールの音楽が流れていた。ときおりノイズが混じるせいでさらに不気味さに拍車がかかっている。
明らかに普通の人が来てはいけないような場所だということは、生物的に本能で感じ取った。オレは思わず後ろに一歩下がると、左側にある二階へ続く階段から、ドタドタと忙しない足取りが近づいてきた。
「申し訳ありません! 息子が中々手を離してくれないものでして、出迎えれませんでした……」
水玉模様のニット帽を被った、エプロンタイプで緑の作業服を身に着けた女性が姿を表した。丸顔でタレ目の、営業スマイルが可愛らしく優しい感じがにじみ出てる。
視線を下に移すと、その女性のお腹は大きく膨れ上がって丸みを帯びており、赤子を宿していることが伺えた。急いで階段を降りたせいか、こめかみの部分を苦々しい表情でぐいぐいと押している。
てっきり魔女のようなヨボヨボのおばあちゃんだったり、パリコレのような個性の権化の服を着た残念な人が出てくるのではないかと思ったが、見た目は完全にどこにでもいる専業主婦だ。
「あれ……?」
自分でもおかしいとは思うが、初対面なはずなのに、その女性からは妙な既視感を感じた。とっさにオレは「どこかでお会いしましたか?」と質問する……よりも早く、女性の店員が口を開いた。
「カルア様から伺っております。須藤様? ですよね。申し遅れました、わたしはこの人形屋の店主をしております。堂流と言います。店内はあまり褒められたものじゃありませんが、きっとお客さんの欲しいものが手に入るはずですので、どうか……」
「人形屋……」
仰々しく礼をしたあとに「すみません、頭痛でして……」とまたこめかみを抑える堂流さん。オレは堂流さんに、先ほどの質問とは違う誰もが感じていた疑問を口にした。
「あの、堂流さん」
「はい、なんでしょう?」
「堂流さんはどうして、この場所で店を建てようと思ったんですか?」
堂流さんの営業スマイルがわずかに崩れる。その瞬間、オレは立ち入ったことを聞いてしまったかもと後悔し「あっ、別に無理して答えなくても……」と付け加えたが、
「いえ、大丈夫です。お答えします。長くなるので全部は言えませんが……ここは、夫と出会った思い出の場所なんです。あ、動いた……」
膨らんだお腹をさすりながら優しく笑う堂流さん。ずいぶんと特殊な場所で出会ったんだなぁという言葉は、心の中だけにとどめた。ふとこちらに顔を向けた堂流さんは急に申し訳無さそうな表情になり、
「ご来店されたところ申し訳ないのですが、しばらく須藤様への人形の用意に時間がかかりますので、それまで当店を見学なさってください。その際に……」
堂流さんはサッとカウンターまで行って戻ってくると、持ち手が付いたキャンドルホルダーを一人分携えてきた。白い棒状のろうそくに、赤く小さな炎が揺らめいている。
「転ぶといけませんので、ぜひお持ちになってください」
いやだったら蛍光灯直せよ、という言葉を飲み込み、短くお礼の言葉を述べる。相変わらず営業スマイルを崩さない堂流さん。二階からはさっきまで止んでいたのに、また少しずつ男の子の泣き声が聞こえてきた。
「あの、ここには……ッ!!」
どんな人形が売っているのかと聞こうとした直前、何気なく照らしたガラスケース横に置かれた植木鉢。そこに植えられた花を理解した瞬間、まるで呼吸器官に石を詰められ塞がれたように、言葉を発することができなくなってしまった。
――青色のヒヤシンス
口元を魚のようにパクパクさせたオレをよそに、泣き声に気づいたのか堂流さんは「す、すいません!」と言葉を残して再び二階へ行ってしまった。
なんでこの花が? と思って近づくとカルアが「見よ見よ!」とカップルのようにオレの腕を自分へと絡ませてきた。反動でゆらりと炎が踊る。
…………腕に伝わる柔らかな感触によっての興奮を悟られぬように、オレは花をあきらめ歩き出した。きっとたまたま堂流さんが好きな花なのだろう。怖い方向に考えるから怖くなるのだ。
気を取り直してガラスケースの中を見てみようと、ろうそくの火を掲げて――思わず血の気が引いた。その人形は毛糸で作られており、胴体や四肢はもちろんのこと、ドレスやスーツなどの服も細部までちみつに再現されていた。
大きさは十五センチほどで、他にも様々な服を着た人形が長座の姿勢で隙間なく並べられている。それだけ、ただそれだけならよかったのだが……
一つ、一つだけ、たった一つどうしようもないほどに恐怖を感じているのは……
「なぁ、カルア」
「ん? なんだい?」
「ここにある人形――なんで全員笑ってるんだ? むしろ笑いすぎて逆にひきつってるような……」
人形は、笑っているというより、笑わされているに近いと感じた。まるで両頬から引っ張っているほどにニヤけさせた口元からは、頭の中でピエロが連想された。
顔をしかめるオレを見てカルアは、待ってましたと言わんばかりに口元を隠しながら「フッフッフッ」とその裏で邪悪な笑い声をもらした。
「なんで全部の人形が笑ってるのか気になるでしョ? ンフフ〜聞きたい? そ・れ・は・ね、少しでも罪悪感を失くすためなんだヨ」
「??? どうゆう、ことだ……?」
言っている意味がわからず戸惑っていると、カウンターから「須藤様、人形の準備ができましたのでお越しください」と堂流さんの呼ぶ声がした。
「僕は掘り出し物がないか探してるヨ。いい夢見ろよ!」
白い歯を見せながらグッと親指を立てるカルア。なんとなくその場にいたくなかったオレは早足で向かった。
「こちらです」とカウンターテーブルに並べられたのは、制服のデザインが丁寧に編み込まれた三体の人形だった。
一体目は髪が金髪で、ガッシリとしたスポーツマンを連想させる筋肉質な体型。二体目は中肉中背で、顔はイケメンに作られている。三体目は二重あごに、制服が張り裂けてしまうくらいの肥満体型……あれ? これって……。
「あの、すいません堂流さん、この店にある人形って、いったい……」
「それに答える前に、ズバリ須藤様に訊きます、あなたは今、ストレス解消のことで悩んでいますよね?」
「――ッ! それは、カルアから聞いたんですか?」
「勝手なことをして申し訳ありません。ですがここに置いてある人形は――まさに、あなたのような人に買われるためにあるようなものなんです!」
落ち着いた口調から、急に人が変わったように自信満々になる堂流さんにオレは困惑した。ということは、この人形はストレス解消になにかしら役立つものなのだろうか。そしてその答えは、オレの予想の斜め斜め斜め上を行った。
「この人形の名前は――人間サンドバッグと言います」
「人間サンドバッグ?」
あまりにも聞き慣れない単語なので思わずそう聞き返すと、堂流さんは今までの優しそうで穏やかな表情から一転、こめかみを抑えながら、まるで置かれている人形と同じ不気味な笑みを浮かべて、
「耐久性は無限大! より快適なストレス解消を実現していただきたく、肌の手触りや毛穴などによるデコボコ、筋肉の感触までほぼ100%生身の人間に近づけました! 作り方は超簡単! まず湯船にたっぷりとお湯を張ります。このとき、お湯の温度は必ず三十七度から三十八度にしてください。あとは人形を湯船に沈めて半日放置するだけ! 以上!! これを殴った際のカイカンは、まるでセーター服と機関銃よりもずっとずっとずーっと得ること間違いなしの逸品です! ご購入いただけましたら必ず、充実したストレス解消を約束いたします!!!!」
「……はぁ」
まるでシャバネットの低田社長バリにたたみかけるような紹介をする堂流さん。本当にそんな簡単な手順で、その人間サンドバッグとやらを作れるのだろうかと疑っていると、ゆっくりと包み込むようにオレの手を握ってきて、
「時間ほど残酷なものはありません。たとえ今が満たされていても、いつの日かすべてを奪われる日が来るかもしれない。このまま普通のパンチングボールを使い続けることに、なんの不満もないんですか?」
さっきのテンションが嘘のように、今度は悲しげでなにかを訴えるような目つきで見てくる堂流さん。オレは思わず口ごもってしまう。
「そ、それは……」
――壊れないパンチングボール
今目の前には、その条件を見事にクリアしたものがある。たとえ大金をはたいてでも買う価値は大いにあるだろう。
しかしなにか……なにかはわからないが、その一歩を踏み出してしまったら最後、駅のホームで言う白線を越えてしまうような――そんなわけ自分でもわからない思考が頭を巡った。
購入までの踏ん切りがつけられず言い淀んでいると、二階から今のオレにとっては絶好のタイミングで、
「ママーーーーン!!! どうしてェェェェェ!!!!!」
ずっと止んでいた男の子の泣き声が、パワーアップして復活してきた。今度は一階でもはっきりと聞き取れるほどの大きな声に、営業スマイルから一転、まるでどこにでもいそうな我が子を想う母の慌てた顔になった堂流さんは、
「す、すいません! うちの息子ったら、男の子なのにかなりの泣き虫でして。小学校に入学して結構経つのに友達の一人もできないし、学校ではあまりいい話聞かないんですよ〜。まったく困った子でして〜ほんとに〜」
謝罪するようにオレに言うと、カウンターから飛び出しまたも二階へと消えていってしまった。少しの沈黙が訪れたあと、後ろから一通り見てきたのか「そろそろ終わったかい?」とカルアが尋ねてきた。
「いやその、まだ決心がついてないと言うか……すごく魅力的な商品だし、ここまで連れてきてくれたことはありがたいんだけど、とりあえず今日は、購入を見送ろ……」
最後まで言いかけたその時、今更気づいたのだが、カウンターの左端にはひっそりとちょうど人形一体がすっぽり入るほどの小さなガラスケースが置いてあった。中にはやはり気持ち悪いほどに過剰な笑みを浮かべた人形がある。
「カルア、これって……」
手足や胴体などはいたって普通で、同じ大きなガラスケースに入れられるはずの見た目だ。強いて違う点を挙げるとするなら、頬に猫のような引っかき傷と、右目尻に大きなホクロがあるということだけだ。
その人形を一目見たカルアがぽかんと口を開けたあと、今度は小悪魔的な笑みを浮かべて、
「触れば、わかるヨ……」
なにを企んでいるのかわからないカルアのことだ。きっと触ったところでロクなことがないのはわかっていた。わかっていたのだが、オレの手は頭で考えるより早く小さなノブを開けて、手を伸ばし……
「――ッッッッ!!!?!?!!!!」
触れた箇所から全身へと感電するように、オレの頭に濁流のごとく映像が流れ込んできた。
真っ赤に染まっていくアスファルト――
不規則で荒い息遣い――
口から吐き出しそうな心臓――
骨が折れるほどの四肢の震え――
けたたましいバイクの音――
泣きわめく子どもの声――
いつもより高い目線――まるで、自分以外の誰かになったような気がする。
ぼやけていた視界が開けてくる。真っ赤なのは決して絵の具なんかじゃない、血液だ。人間の体を流れる血液だ。鉄のような臭いと排気ガスの臭いが混ざり合って鼻が曲がる。ついでに涙も出てくる。
胃の内容物がジェットコースターのようにこみ上げて逆流しそうだ。今、オレは、オレは、オレは、オレは、オレは、ボク、は…………
飛び散った血液に肉片、その中心に血を流し横たわる親子の姿……
母親と思われる頭からは骨が露出し、ぐちゃぐちゃになったピンク色の破片のようなものが見える……
――そんな凄惨な光景を見て、どうしようもなく頭を抱えているのは……オレ!?
――――――――
――――――――
――――――――!!!!!!!!!!
反射的に人形を床に叩きつける。触れてから叩きつけるまで要した時間は一秒もないはずなのに、少なくとも一分以上はあの映像を体感していた気がする。終わったあとも呼吸が苦しく、頭がズンズンと重低音が鳴っているように痛み続けている。
「アッ……アァッ……」
平衡感覚が失われているのか、まともに立つことすらできない。オレは膝から崩れ落ちると、ゴボゴボと泡を吹きながら力なく地面に伏した。
その様子を見てカルアは「カニさんみたーい!」とまるで純粋無垢な少年のように晴れ渡る笑顔をこちらに向けてくる。
「あんららー、さすがにちょっとやりすぎたかな?」
「…………。…………ッ」
かすかに伸ばした腕の力が抜け、やがてピクリとも動かなくなる。あの小さなガラスケースに入れられた人形は、いったいなんだったのだろう? これから意識を失うオレにとっては、それを知る由もない。
現在の時刻は十時半過ぎ。このまま人生を終えてしまうのかと思ったがそうではなく、オレが目を覚ましたのは、約八時間後の朝の六時以降だった――
「…………あれ、なんで!」
頭がズキズキする。体がダルビッシュよりダルい。昨日起こった二郎系ラーメンのスープより濃いできごとが頭の中で混濁していて溢れ出しそうだ。どうやらオレは、いつの間にか自分の部屋で眠っていたらしい。
どうやって帰ったかは覚えていない。自分の足で帰ってきたのか、それとも誰かに連れ添ってもらったのか……。ベットのすぐ横にあるカーテンを片側開ける。閃光手榴弾のような陽の光が全身に照りつけてきて思わず目を細めた。
「夢……なのか?」
人形屋という奇妙な店に行ったのもすべて悪い夢だと思ったのも束の間、テーブルに置かれた――三体の人形を視認したことで、現実で起こった出来事だと再確認させられた。
たっぷり三十秒ほど人形を見つめる。またあの小さなガラスケースに入れられた人形と同じ映像を視せられるのではと警戒しながら触ったが、ただの毛糸のふわふわとした手触りがあるだけだった。
「これは……」
机の色と同化していて今まで気づかなかったのだが、右から三番目の人形の下に小さな紙切れが敷かれていた。手に取ると、
――今はお試し期間中だから代金はいらないみたいだヨ。それと、この紙の上にある人形を一番最初に作るように、必ずだヨ。 大天使大聖女大大大女神カルアより
――触れば、わかるヨ……
カルアの子悪魔的なニヤけた口元を思い出す。オレはたまらず、
「――ッ!!」
指の爪が食い込むほどに拳を力強く握る。カルアはこうなることを知っていてオレにあの人形を触らせたのかと、そう理解したとたんに――ドクンッドクンッ と鼓動 が鳴り始める。殴りたい、殴らないと。でも……
壊れて床に放置したままのパンチングボールを見つめる。最後の方法としてバイトのお金を貯め、新しいのを買うという方法があるが、できればそうはしたくない。なぜならストレス解消の時間がなくなってしまうからだ。
「でも、お金がな……」
オレは何気なく視線をベッドの近くのテーブルに移して――人間サンドバッグと再び目が合う。堂流さんが昨夜言ってたあまりにも簡単な作り方に、オレはさいど人形に疑いの目を向けた。
しかしそうしたところで新しいパンチングボールが買えるわけではない。今は嘘にしか聞こえないこの話も縋らないといけないほどに、オレは金銭的に追い詰められていた。
オレは結局湯船にと三十七度から三十八度のお湯を張り、そして言うことを聞くのは非常に癪だが、紙の上にあった人形を先に沈めておいた。
「これでよし……と」
正直、まだ完全にこの人間サンドバッグを信じたわけではない。もしかしたらすべて嘘っぱちかもしれない。今は大丈夫だが、今後映像を視せられるような人形に変わるかもしれない。だが今はそんなあれこれ考えても仕方ないと思う。
時計を見ると、湯船いっぱいにお湯を張ることにより時間がかかってしまい、登校時間を数分と過ぎていたので急いで準備する。そうしながらも頭の中は、人間サンドバッグことばかりが浮かび続けていた――
すでにHR開始の時間から五分が経過している。砂原先生は時間に厳しい人なので、本人が遅刻していることはないだろう。
じゃあどうして……と考えていると、ガラガラと引き戸がスライドし、ようやく到着した砂原先生。しかし今日はいつもの気だるい感じはなく、どこか重々しい表情をしている。
「お前ら、落ち着いて聞いてくれ。佐藤と鈴木と高橋が、昨夜から家に帰ってないらしい。誰か心当たりないか?」
さっきまで雑談ムードだったのが一変、チラホラとざわめきはじめるクラスメイト。中にはしめしめと言わんばかりにせせら笑う生徒もいたが、ほとんどは俗に言う【行方不明】という単語が連想されて困惑していた。
にしても不可解だと思う。今日はログインボーナスはなかったし、佐藤たちはいくら素行が悪く近隣の住民から問題児扱いされても、学校にだけはきちんと来る生徒なのだ。どうして……と思った次の瞬間、
「――ハッ!!」
急速に頭の中が回転する。その際になぜかオレは、家にある三体の人形を思い出していた。一体目はガッシリとしたスポーツ体型、二体目は中肉中背、三体目は肥満体型……佐藤たちとまったく同じだ。
いや、そんな、まさかそんなことがあるはずがない。オレは頭の中に浮かんだ最悪なシナリオをすぐに消しゴムで消した。徐々に頭痛や息切れが激しくなっていって、違和感を感じたのかとなりの女子たちが話しかけてきた。
「どうしたの須藤くん? 具合悪いの?」
「保健室行ったほうがいいんじゃない?」
「いや、その……大丈――ウッ!?!!」
ドクンッドクンッドクンッ と鼓動が暴れ始める。砂原先生がいつものオレの状態を察してくれたのか、優しい口調で、
「須藤、無理しないでとっとと行ってこい」
「……すいません、ありがとう、ございます」
オレは吐かないように口元を手で押さえながら、もはや通い慣れた保険室へ急いだ。勢いよく引き戸をスライドさせると、中には誰もいない。午前中はよく留守にしていることを、何度も通ったことで学んだ。
いつもの左角にあるベッドに直行すると、シャーと音を立てながらカーテンを閉め外界から遮断する。布団に潜り込みながら、オレは興味本位で心霊番組を見てしまった子どものように震えていた。
最悪のシナリオ――それは、あの三体の人形は佐藤たち本人ではないだろうか? というものだった。当然絶対にありえないのですぐに消したが、消しても消しても消しても消しても、また滲むようにして考えが浮かんでくるので精神的にもかなり参っていた。
結局放課後もこの不安は拭うことはできずに、二時間目から戻った授業も六時間目までずっと、集中できないまま終えてしまった――
「……はぁ」
放課後、午後の夏の日差しは衰えることなく街全体を威圧している。足取りは人間サンドバッグに対して多少の期待があった登校時とは違い、今はテストで赤点を取った日の帰り道のように重かった。
このままオレは、人間サンドバッグ使ってストレス解消をしてもいいのだろうか? 万が一最悪のシナリオ通りなら、理性がある今この瞬間が、人形を返品することのできる唯一のチャンスではないだろうか?
もっとも、まずは暑さで火照った体を潤したい。とりあえずアパートに帰ってキンキンに冷えた麦茶でも飲んでからじゃないと始まらないだろう。玄関のドアを開けると――
「……ゴクッ……ゴクッ、返品は、困るヨ、主人公君」
「お、お前はたしか! カルア!! なんで部屋に……!」
まるで同居人のように堂々とジュースを飲むカルア。不思議に思ったのは、三十度近い気温でも一向に白いトレンチコートを脱ごうとしないことだ。なにかこだわりでもあるのだろうか。ん? おいその手に持ってる――
「そ、そのジュースは! オレがちびちびと特別な日にしか飲まないと決めてる三つ目サイダーの贅沢メロン味! なんでお前が一気に飲んでるんだ!! ガブ飲みか? ガブ飲みメロンクリームソーダか!」
「いやぁ~すごく美味しかったヨ! にしても最初にメロンクリームソーダを作った人って、すごくせっかちな人だと思わない? 本来ならメロンソーダとバニラアイスを別々に食べるはずなのに、時間がなかったのかアイスをメロンソーダに溶かして一度に食べる……いや飲むという邪道! しかしこれが美味しすぎて、メロンだけに…………メロンメロンだヨ!!」
「………………百点」
「ほんとに!? うれし――」
「マイナスのな」
「理不尽!!」
なに一つ悪意を孕んでないような無邪気な笑みと声色に、オレの中の怒りは呆れという名の水により消火されていった。ああ……オレの、わずかな楽しみが……ってそれより!
「そうだカルア! 今日はいったいなんの用だ? どうせ旅人なんだから隣町でもどこでも行けばいいじゃないか」
そう言うとカルアはオレのとこまでズリズリとすり寄ってきて「冷たいこと言うなヨ〜」とおちょぼ口になりながらオレの頬を指で押し当てた。あーめんどくさいこうゆう人。もしかしてだがずっと居座る気じゃないよな?
「ごめんごめん、お遊びが過ぎたヨ。今日はね――主人公君と約束しに来たんだ。感心なことに、僕の言う通り作ってくれたみたいじゃないか。えらいえらい! ナデナデしよっか?」
カルアはそう言い終わるより前に、すでにわしゃわしゃとオレの頭を撫でくり回してきた。あまりの予想外の行動に、オレの頬は血が一気に集中したように真っ赤に染まってしまった。
「しっ、しながらいうセリフか!」
シルクのように柔らかく少しひんやりとした感触が頭皮を伝って理解できた。もっと味わえば良いものを、オレは照れかくしなのか大声を出しながら頭をふるわせて手をどかしてしまった。
「約束の前に、人間サンドバッグを運び出すのを手伝ってあげようと思ってね。もう一つの用でもあるヨ。これで飲み物の件はチャラね」
「チャラかどうかはオレが決めるもんだろ。それになんだ? 運び出すって? まるですごいおも……」
言い終わるより早く、カルアはハミングしながら軽快な足取りでユニットバスに入っていってしまった。直後、浴室内からカルアの興奮したような、歓喜に満ちた声がこもって聞こえてきた。
いったいなにを見ているのかと、オレもあとから続いてドアを開ける。視界に入った湯船の中には――
「ウワアアアアアアッッッ!!!!!!」
たっぷりと張ったはずのお湯は跡形もなくなっており、代わりにそれをスポンジのように吸収して大きくなったのか、今では湯船全体を埋めていた――鈴木の体で。
「鈴、木……? 鈴木なのか?」
思わずそう問いかけるが返事はない。まさかこれが、人間サンドバッグ!? 堂流さんの言った通り、肌の手触りから毛穴、筋肉の感触の他に、髪一本一本の質感や爪の形、足の太さや皮膚の少し焦げた色合いなどほぼすべてが本人同様に作られている。
驚愕のあまり見とれていると、カルアがまたも企むように口元をニヤけさせながら「ついでにここも触ってごらんヨ」とガシッと腕を掴まされる。
そのままオレが嫌がる間もなく、カルアによって鈴木の股間の部分に触れさせられた。グニュッとくたびれたグミのような触り慣れた感触にヒッ……と小さく悲鳴を上げる。その反応を見てカルアは心底愉快そうにゲラゲラと笑った。
「ほんと主人公君はカラカイがいがあって助かるヨ。じゃあぼくは頭を持つから、主人公君は両足をお願いね」
「お、お前なぁ……」
人形の件然り、ジュースの件然り、カルアは定期的に誰かをイジメないと死んじゃう病気なのかと、本気で心配している。相変わらず触感が人間のソレな両足を持ち上げた瞬間、カルアが最初に鈴木の人形を作れと言っていた理由がわかった。
なんと鈴木の人形は、体重も本人同様に再現されていたのだ。それ故に鈴木の見た目からして90キロを超える巨体を持ち上げねばならず、二人がかりでも運び出すのにかなり苦労した。なんとか洋室に上げて部屋の中心に起立させる。
「オーケー! 百聞は一見にしかずだ。まずは僕がお手本を見せてあげ――」
「その前にカルア! 説明してもらおうか! 百歩譲ってお湯を吸ったら人形が大きくなるというのはわかる。でもどうしてその見た目が――鈴木と瓜二つなんだよ!! 残りの二体の人形も、もし、かして……」
ようやく消えかけたはずの最悪のシナリオが、再び浮上してきてしまった。カルアに視線で否定してほしいとせめてもの合図を送るが……現実は、カルアの口角があからさまに上がったことで、非情にも答えが決定してしまった。
「少し、違うヨ。主人公君は人形が佐藤たち本人だと思ってるかもしれないけど、正しくは人形そのものではなく、あくまで人形に佐藤たちのタマシイが入っているんだヨ。体は完全に堂流君のお手製だから。そこんとこ大事だヨ」
「――ッ!!」
よく、わからなかった。今、カルアはなんと言ったんだ? タマシイが……の時点でオレの脳は職務放棄してしまったのか、これ以上思考することができなくなっていた。一方カルアはなにを思い出したのか、手の平をポンと叩いて、
「そう言えば、堂流君から万が一主人公君が使用するのを渋ったらって、手紙を預かったんだ。聞いてくれるかい?」
カルアは元々読むつもりだったのか、オレから了解を得ずにスカートのポケットから一枚の折りたたまれた便箋を出した。そのまま声に出して読み始める。
――須藤様、この手紙を読んでいるということは、あなたが人間サンドバッグを使うことに罪悪感を抱いてしまっていることかと思います。
――しかしそれは、大きな間違いだと断言しましょう。なぜなら、これは単なるストレス解消ではありません。正義の鉄槌だからです。
――腐ったリンゴは取り除かないといけないように、いずれ社会の歯車となったとき迷惑をかけてしまう前に、悪の種は早めに摘み取らないといけません。
――鈴木。罪状は飲酒に喫煙、そしてそれを他の同級生に強要したことです。おかげでその生徒は慢性的に強く喘息が続いてしまい、今も苦しんでいる状態です。
――はじめに言っておきますが、これはまだ序の口でしかありません。残りの二人の罪はマリアナ海溝より深く、ユーラシア大陸より広いです。それをお話します。
――高橋。罪状は不純異性交遊。他の人より少し顔が整っているというだけで天狗になったのか、ゴムも付けずに性交渉を繰り返し、妊娠してしまった複数の女生徒は中絶を余儀なくされました。
――そして最後は一番の邪悪、佐藤。罪状は無免許運転に……ひき逃げ。父親のバイクを定期的に勝手に乗り回した挙げ句、当時一人暮らしだった八十代の老人を轢いたのち走り去った。
運がいいのか、その老人は以前から認知症の疑いがあったので警察はひき逃げ事件ではなく、単なる失踪事件として片付けてしまった。
――こんな、こんな人間ならざる者が、のうのうと生きていいのでしょうか? 世界のどこかでは常に戦争が起こっていて、毎日何百人と罪なき命が失われています。その人たちの命と掃き溜めの命、天秤にかけたらどちらが重いかなんてのはギャンブル依存症の末路より明らかだと思います。
――須藤様、あなたの、力が必要です。掃き溜めの汚れたタマシイを、その拳で、正義の拳で、浄化してください。須藤様にしかできません。どうか、お願いします。 人形屋店主 堂流より
「………………」
一通り読み終えると、部屋には潰れそうなほどの静寂が訪れた。ま、まさか三人そんな秘密があっただなんて……。開いた口が塞がらないでいると、それを破るようにカルアが、
「わかってくれたかい? 主人公君が罪悪感を感じる必要は、別にないんだヨ。君は酷いことをされたんだから、遠慮なく――ストレス解消の道具にしても」
……耳元で誘うように囁くカルア。言われてみれば、たしかにそうだろう。直接本人を殴らずに済むし、自分自身には一切危険もない。断る理由なんかあるのか? オレの中のどこかから声がする。
己の欲望のままに手を伸ばしたその時、一握の砂のごとくわずかに残った良心が……
「こんなの――受け取れるわけないだろ!」
パンチングボールを使っているときのような張り上げた声で、受け取りを拒否する。ニコニコとしたカルアの口から一変、首をかしげてなにがなんだかわからないのか無防備にぽかんと口を開けた。。
「受け取れない? 僕の話ちゃんと聞いてたかい? ジョーダンはマイケルだけにしなヨ。しつこいようだけど、主人公君が罪悪感を感じる必要なんてまったくなくて、むしろこれは正義の鉄槌なんだヨ?」
「でも、こんなやり方、許されるはずが……」
言いながら、違うなと――オレは思った。たしかにタマシイが入った人形でストレスを解消するなんて、道徳的にも倫理的にも反していると思うが、それ以上にオレは……怯えているだけなのだ。怖いのだ。
もしカルアの言う通りにしたら、オレはその掃き溜め と同類になってしまうのではないかという不安が、自分が変わってしまうという不安が、ヘビのようにとぐろを巻いて取れないのだ。だから、
「カルア、オレは人間サンドバッグを返品……」
「――これからも、優しい人を演じ続けるのかい?」
「――ッ!!」
ドクンッ! と心臓が押さえつけられたバネのように跳ね上がる。不意打ちの一撃を食らったようで、いつもより苦しく感じる。そんなことはお構えなしに、カルアは呆れたようにつぶやいた。
「いいのかな〜。まぁ主人公君は優しい人だし? そう言うのはわかってたけど? でも言葉を返すようだけど優しい人? というのにも限度があるわけで? 僕から見れば、主人公君は優しい人? という基準線をすでに超えてるんだヨ。それは優しい人? じゃなくて自分の意見を言えないただの臆病者だヨ。そうは思わないかい? 優しいのす・ど・う・君?」
ドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッ!!!!!!!!!!!!!!!!
「ガッ!……アアッ…………ッ」
マシンガンのごとく優しいという言葉を連呼されて、オレは耳から噴水みたいに血を吹き出してしまいそうだった。ガクッと膝から崩れ落ち、ピクピクと小刻みに痙攣する。
声が出ない。あまりの鼓動の音量に堪えられなくなり、耳を塞ぐがなんの意味もない。鼻から呼吸ができず、口で頼りなく酸素を取り込んでいる。それを見下ろしながら、カルアは嘲るように言う。
「ん? どうしたの? どこか具合でも悪いの? なにかよくない物でも食べたとか? もしかして好きな人に振られちゃったとか? そ・れ・と・も――アラームが鳴ってるとか?」
「ど、どうし、て……」
カルアは、鼓動のことをどうやって知ったのだろう……? いや、今はそんなこと考えている場合じゃない。早く……早く助けを呼ばないと……!!
「た、助け……」
「あいにく僕は正義のヒーローでも神様でもなく、ただ天使で聖女で女神レベルでかわいい普通の女の子なんだヨ。つまり慈善事業じゃなく、助けるということは当然こちらに対価が……」
だらだらと喋っている間にも、オレの口からはあの人形に触ったときと同じようにぶくぶくと泡が漏れる。鼓動が徐々に落ち着いてきて……いや違う。遅くなっているんだ。このままだと、心臓に永遠の有給休暇を与えてしまう。
だめだ、このままじゃ、本当に……。解消、しないと。解消して、スッキリしないと……。
完全に意識が闇に落ちる前に、
オレがオレでなくなる前に、
優しさのクサリで、絞め殺される前に――
「ん……んぁ……」
この短い期間で気絶というのを二度も経験するなんて、オレは三周ほど回ってツイてるんじゃないだろうか? オレらしくないポジティブな考えだ。
もう鼓動は鳴っていないので体を起こそうとしたその時、オデコの部分を指で突かれている感覚がした。目線を動かすと、
「ツンツン、ツンツンツーン、どうも、オデコツンツン女です」
「やめんかっ!」
オレは勢いよく起き上がるとカルアの指を払い除けた。ふと窓を見ると、差し込む陽の光が濃いオレンジ色に変化している。時間からして午後七時ほどといったところだろう。沈む太陽を見やっていると、
「決心は、ついたかな?」
「…………」
オレは言葉を交わすこともなく、無言で首を縦に振った。一歩ずつ踏みしめるようにして、鈴木の人形の前に立つ。
蒸し暑い空気を肌で感じながら、大きく吸って吐いてを数回行った。これから裁かれるというのに、気持ち悪いくらいの笑顔は変わらずに健在だ。まるで、なにも考えていないように見える。
不愉快だ。
不愉快だ。
不愉快だ。
とてもとてもとても、不愉快…………
「――――ッッッ!!!!」
気がついたときには手が動いていた。まるでロケット花火のように勢いよく、怒りという名の炎を宿したオレは、明らかにいつも以上の力で拳を繰り出すことができた。
「ティバァッッ!!!!」
鈴木の人形の胴体に貫くような右ストレートが決まった瞬間、笑顔からは想像できないようなうめき声を上げたのだ。思わず次の左ストレートの手を止める。
「ええっ?」
「言い忘れてたけど、この人間サンドバッグには見た目や重さ以外にリアルなところがあって、それは殴った際に、中に入ったタマシイの主と同じ声を発する機能だヨ。これで殴るのがより捗るはず!」
……ほんの一日前は、カルアに対して得体のしれない恐怖や不安をどこか感じてしまうことがあったが、今では言葉に言い表せないくらいに感謝している。カルアはまるで、飲み会で盛り上がっているときのように大げさに手を叩きながら、
「いいねいいねぇ〜! でもたった一発で済むほど、主人公君のストレス解消はその程度なのかな?」
まるで挑発するようなカルアの発言。しかしスイッチの入った今となっては、暖炉に薪をくべてさらに油とガソリンをぶちこむようなものだ。鈴木の人形を殴る、殴る。殴る。ときどき蹴る。そしてまた殴る。殴る、殴る、殴る…………
「鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌!!!!!!」
「アベマァァッッッ!!!!」
拳のラッシュを決め込んでいる最中、いつかカルアが言った言葉が頭をよぎる。常に人間サンドバッグが笑っているのは、罪悪感を失くすためだと。
罪悪感? 違うね! オレにそんなものはありゃしない。なぜならこの行為は、正義の鉄槌であり、因果応報だからだ。悪いことをしたら自身にも悪いことが起こる。そんな当たり前なことを体で教えているだけなのだ。
しばらく殴り続けて気づいたのだが、鈴木の眼から透明で温かい液体が出ていることに気づいた。涙も出るのか、という関心よりも先に出てきたのは――憤怒の心だった。
「なに泣いてんだゴラァ! 出していいのは血とうめき声だけじゃボケェッッッ!! この――ド腐れ短小チンポコ野郎がァ!!」
「ディアニィィィッッッ!!」
絶えず奏でられ続ける拳と蹴りの二重奏。それがが皮膚に、肉に、骨にめり込む感じがしてとても心地よく、気持ちがいい。
鈴木の人形の笑顔を見る度にイジメたい、もっとイジメたいという欲望が噴水のように湧き上がる。これがサディズムってやつだろうか。思わずガクガクと足腰がしびれて立っていられなくなる。
「アハハハハハハハ!! ヒヒッ……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハヒッハハハ!!!!」
オレは狂った笑い声を浮かべながら、先ほど抱いていたはずの恐怖や不安といったものは、綺麗さっぱり消え去っていたことに気づいた。
でも、そんなことは別にどうでもいいと思えた。今この瞬間、思いっきりストレスを発散させられるなら、それ以上の幸運なんて便器にしつこくこびりつくウンコほどの価値しかないと本気で思えた。
少し休憩して、また殴ってを繰り返し、いくつかの時が流れて、流れて、流れて――
「……ん、ハァ……」
いつの間にか寝てしまったらしい。思いっきり両腕を上に伸ばして上半身を起こす。恐らく何十年と忘れていた天使の目覚めという感覚だった。まるで脳に直接エナジードリンクをぶっかけられたみたいに、隅々まで冴えわたっているのを感じる。
「あ、起きた起きた。いきなり気を失って倒れたから、てっきり死んだのかと思っちゃったヨ」
いつもならやかましいと思うカルアの言動も、今に至っては仏のような広い心で許すことができた。窓からはうっすらと黄色い陽の光が見える。
二度目の伸びをしてから、また床に大の字で寝そべる。憑き物が落ちるの意味が、頭でなく体全体で理解できた気がした。
「すごく……良かったよ……」
「なにそのピロートーク始めるときの第一声みたいなやつ〜。ヤ・ラ・シ・イ〜〜」
「チッがうわ! 久しぶり、なんだよ……。オレは今までパンチングボールでストレス解消をしてきたけど、どこか満たされない気持ちがあった。けどそれをひた隠しにして、目を背けて……今日やっと本当の意味でストレス解消ができたよ。ありがとう」
ふと時計を見て驚いた。針は午後の四時半を示していたのだ。時間が戻っている!? と思ったのも束の間、冷静になって陽の光から考えると、針はグルっと一周して、現在の時刻は午前の四時半。夜明けだ。
「まじか……ハハッ……」
時間を無駄にしたことよりも、オレはかつてないほどの達成感と高揚感を感じていた。小学生のとき、プロボクサーになりたくて必死に練習に打ち込んでいた時期を思い出して、オレは含み笑いをした。
「満足してる最中悪いけど、次は僕の本来の目的を果たさせてもらうヨ」
ぺちぺちと頬を叩かれ、夢心地でいたオレは現実に引き戻される。正直このまま寝たフリでもしようと思っていたが、鈴木の人形を一緒に持ってくれた恩もあるので仕方なく起きる。
「約束と言ってもね、簡単なことだヨ。この人間サンドバッグを――必ず一日一回、時間は五分だけでいいから使用するだけ! 簡単でしョ?」
「……? それ、だけなのか?」
「それさえ守ってしまえば、人間サンドバッグは永遠に使い放題! 料金も無料! どう? いい話でしョ?」
五分だけでいい? こんなに画期的で最高の商品を、五分だけしか使わないだなんてもったいないじゃないか。なにごともやりすぎるとありがたみがなくなるなんて言葉をよく聞くが、オレは盲目になりすぎて微塵も考えつかなかった。
「こんなにいい商品、オレは一回に関わらず三回でも四回でも使うぞ。二ポンドかけてもいい」
「……気に入ってくれたようで良かったヨ。僕も、初めての仕事にしちゃ上出来、かな」
「初めて?」
「あぁいや、こっちの話だヨ……それより、主人公君」
なに――とカルアのいる方向へと体を動かした瞬間、音もなくオレの眉間に右手を近づけると、
――ピンッ
「えっ……」
驚く暇もなく、まるで睡魔にでも襲われたようにあまりにも突然、意識が遠のいていった。
カルアがなんの冗談か一発オレの眉間に――デコピンをしただけなのに。それだけなのにオレは、なすすべななく床に沈んでいく。その間際、
「――終点までの物語は今……決められた」
「………ッ………え…………?」
カルアはずっと深く被ったまんまだった黒いシルクハットを――スッと取って見せた。長いまつげ、クリスタルのように透き通った銀色の瞳、真っ白でところどころウェーブかかった髪が、ファサッと飛び出して露わになる。
「…………!!」
すごく、きれいだなと思った。きれいすぎて、とてもこの世のものとは思えないような危うさと儚さと脆さを兼ね備えているように感じた。まるで雪のように……。
カルアの発した言葉の意味がわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。そう思えるほどに、彼女は………………。
ドサッ
「いた! なにす――」
よりにもよってカーペットの敷いてない固いところで尻もちをついてしまったため、起き上がってすぐお尻がジンジンする。唐突なカルアの奇行に文句の一つでも言ってやろうと思ったが……部屋にはオレ以外誰もいなかった。
「…………え?」
生暖かい風が吹き抜けていく。オレがデコピンを食らってから起き上がるまで、時間としては五秒ほどだ。にも関わらずまるで最初からカルアなんていなかったかのように、部屋にはオレだけが取り残されていた。
いったいカルアとは何者なのだろう。しかしなぜかそれを知ろうとすると、この夢のような時間が終わってしまう気がした。ふと喉が渇いたので冷蔵庫まで行こうとすると、
「…………」
「…………」
殴ったあとは綺麗サッパリ消えていて、元のピエロのような笑顔だけが残った鈴木の人形と目線が合う……やはり見つめられているようで気持ちが悪い。カルアの言葉を思い出す。
――約束と言ってもね、簡単なことだヨ。この人間サンドバッグを――必ず一日一回、時間は五分だけでいいから使用するだけ! 簡単でしョ?
頭の中に墨汁を垂らすようにして、思考が真っ黒に染まっていく。五分だけでいい? 甘い甘い甘い甘い甘い甘甘い甘い甘い甘いい甘い甘い甘い! 練乳を火にかけてドロドロに濃縮したくらい甘ったるいぞ!!
「――五百分だ」
オレはドタドタと風呂場へ向かった。ドアを開けるとシャンプー置き場には佐藤と高橋の人形が。いつでも作れるように置いておいたのだ。
「……一日ぐらい休んでも、いいよな?」
納得するように首を縦に振ったあと、佐藤と高橋の人形を手に取る。思わず口角が磁力に引き寄せられたようにして上がってしまう。今自分、最高に笑顔してる。さぁ、確定死刑の始まりだ――
その日からだ、オレと人間サンドバッグによる生活が始まったのは。
朝起きて鉄槌、登校する直前に鉄槌、下校して家に帰ったら鉄槌、なんかイライラしたら鉄槌、寝る前に鉄槌というのを毎日行い、平均にして五時間は正義のために働いた気がする。実に気持ちがいい。
おかげで心の余裕ができたオレは、学校で嫌なときは嫌だと自分の素直な意見を言うことができて、良い意味でも悪い意味でも一目置かれる存在になった。そして数ヶ月のときが過ぎた――
中には前のなんでも頼みを聞いてくれていたころのほうがよかったなんて言う邪悪もいるが、その人とは上手く距離を取っている。我ながら人付き合いはかなり上達したつもりだ。
突然だが、人間サンドバッグのおかげであったいいことを三つ紹介しよう。
一つ目は、鼓動がほぼ鳴らなくなったことだ。どんなに怒りやストレスを溜め込んでも、人間サンドバッグがあるという精神的な安心感が、鼓動を抑え込んでじっしつ消滅したのだ。
二つ目は、クラスメイトと本当の意味で交友関係が深まりはじめたことだ。最近のできごとの一つとして、人生で生まれて初めて放課後に寄り道をし、みんなでハンバーガーを食べたことだ。チーズチキンバーガー、宇宙一美味しかったなぁ。
今では心の底から笑うことも増え、頼る以外の他にも自然と話しかけてくれるクラスメイトが増えてくれたのだ。
最後に三つ目なんだが……その……なんだ、自分が一番信じられないという気持ちがあるのだが、どうやら事実らしいんだ。イヤでも弄ばれている可能性もあるわけだし、自分一人の思い込みという可能性も……
「――ほんとごめん!! 待たせちゃった?」
「……いいや、大丈夫だよ。今来たところだから」
待ち合わせ場所の駅の構内に着き、膝に手をつきながら息を整える。今でも目の前の景色が信じられなかった。まさかオレに――芹澤刀子という彼女ができるなんて。
実は夢ではないだろうか? ならせめてと、芹澤さんの水色のワンピース姿を舐め回すようにして視姦してしまう。
「へ、変かな? 結構頑張って選んだつもりだけど……」
「ふぇ? いやいや全然全然! あっ、全然って悪い意味の全然じゃなくて良い方の……」
オレはいったいなにを喋っているんだ? いかんいかん、なにごとも始めが鑑真。第一印象が大事なように、ここで失敗したら今後の関係に間違えなく影響する。もっと男らしく、スマートに。
「すごく、可愛いよ。ボクは幸せ者だ」
「そ、そうなんだ。ふうん……」
と言いつつ、少しだけ顔を俯かせながら恥ずかしそうに笑う芹澤さんを見て、オレの胸の中は⭐ファンファーレでも鳴っているかのように高らかに高揚した。
二度目の突然だが、オレはこれから芹澤刀子とデートをする。なぜオレが芹澤さんと付き合うことができたのかは……それは、告白してきた芹澤さんのみが知ることだろう。
この日のためにできる限りのことはしたつもりだ。行き先の予習や身なりの徹底。面白いトークをするコツなどをネットで調べたりした。ついでに高すぎないけどかっこよくキメれる服を漁ったりもした。
……そこまでなら順調だった。しかし気張りすぎたせいか、なんとデート初日にして遅刻してしまうというとんだ大ボケをかましてしまったのだ。てっきりこれから冷たい態度を取られるのかと思ったが、
「あ、あのさ……須藤」
「ん? なに?」
芹澤さんは基本的に言いたいことがあればズバズバと言う性格だ。しかし今はオレに対して目をそらしたり、どこか悲しげな表情をしている。勇気を出したのか、両手に握りこぶしを作った直後、オレと向き合った。
「この前の……じゃなくて、まだ須藤が今みたいに変わる前にわたしさ……ひどいこと言ったよね? 笑顔の練習したほうがいいんじゃないとか、ずっとヘラヘラしてて馬鹿みたいとかさ。無愛想な態度も取ったし……嫌い、なんて言っちゃったりもした。ほんとに、ごめん」
「…………あぁ」
芹澤さんにとっては辛く重い沈黙が訪れる。しかしオレが話を聞き終えて思ったことは――なんだ、そんなことか、だった。
普通なら過去に受けた嫌なことをほじくり返されると、誰であれ少しは腹が立つものだと思ったが、今のオレは奇妙なことにむしろ感謝していた。
あの日芹澤さんにボロクソに言われなければ、極度の疲労と空腹により外に出て、あの黒いシルクハットと出会うことがなかったからだ。後から思えば、今までのできごとはこうして芹澤さんとデートをするという運命を辿るための、過程の一つだったのだろう。
とまぁそんな過去のことより、今芹澤さんが笑顔じゃないことのほうがよっぽど問題だ。オレは使うことがない恋愛に関する知識をなんとか引っ張り出そうとあれこれ考えていると、
「お詫びと言ったらなんだけどさ……その……変なことかもしれない、けど……」
「変なこと?」
芹澤さんは目を伏せながらもじもじとトイレを我慢するような仕草をしたあと、少し背伸びをしてどこか吐息を含んだ色っぽい声でオレに耳打ちをしてきた。
「今晩、両親家にいないからさ……二人で、部屋で……」
その言葉を聞いた瞬間「ハヒャア!?」と自分でもわけがわからない大声を発したあと、勢いよく飛び上がってめちゃくちゃな身振り手振りで拒否した。
「いっ、いいやいやいやいやいいややや、まだ年齢的というかお互いまだ知り合ってないというか、十分だと思えるくらい二人で過ごしてさ、お互い気持ちがその……通じ合ったらそのときは……よろしくお願いします!」
なにがよろしくお願いしますだボケェ!! 据え膳食わぬはなんとやらという言葉を忘れたのかこの玉なしスカタン野郎! せっかくの童貞卒業を棒に、いや如意棒にふりやがって、つくづく自分が嫌になる。
「わ、私もその時は……よろしくお願いします。そう、だよね、とりあえず今日は、ちゃんとお互いを理解するためにデートしよう。ごめんね、どこか近道をするつもりで魔が差したんだと思う。もう言わないよ」
いやもう一度言ってください神様仏様刀子様! 今度は、今度は間違えないから! だからオレにもう一度オレに、童貞卒業を、童貞卒業を、童貞卒業をオオオオオオオ!!!!!!
「……そうだ! 今から近くの自然公園でも散歩しない? この前近くを歩いてたら珍しい花が咲いてて、すごく綺麗だったの!」
「…………いいね、それ。今ちょっと体が鈍っているところだからちょうどいいかも」
「わかった。昼になったらその……サンドイッチを作ってきたんだけど、食べる?」
「食べる食べる超食べる!!」
駅の自動ドアを抜けると、真夏にしては涼しく穏やかな風が全身を突き抜けた。どこかから運ばれてきた草木の匂いを嗅ぎながら、別に夢でも悪くないと思えた。最後の三つ目は見ての通り、彼女が、できたことだ。
さっきも言ったが自分が一番信じられなくて、芹澤さんから告白された日から毎日、眠るときに夢なのか頬をつねることがすっかり習慣になってしまった。もう姿を表さなくなったが、ふとカルアのニヒルな笑みを思い出した。
「芹澤さんと付き合えたのも、アイツのおかげだよなぁ……」
「ん? なんか言った?」
「いや、なんでも。なんのサンドイッチ用意してくれたのかな〜って思ってた」
「ふっふっふっ、驚かないでね〜。じゃじゃーん! 甘辛く味付けした鶏の照り焼きサンドと………………」
芹澤さんの楽しそうに話す声をBGMにして、グルっと周りを見渡す。今までなんの気なしに見えていた風景が、まるで新品の絵の具でなぞられているように色づいている。ああ、世界ってこんなにも美しかったのか。
こんな時間が長く、長く、長く続けばいいと思っていた。
しかしオレは知らなかった。裏で糸を引いている、カルアの存在を。そして思い知ることになる。カルアの言った言葉、終点の意味を――
「これからくじ引きでバスの席を決めるぞ〜」
陽炎のようにゆらゆらと間延びした声で、砂原先生の提案で帰りのHRに修学旅行のバスの席を決めることになった。一人ずつ割り箸を取って、下に書かれていた番号に応じて決まるシンプルなものだ。
行き先は東京と広島で目的は関わったことがない人とも交流を深めるだとか、自然・環境学習などと表面上は謳っているが、多分九割ほどの生徒はそんなことはお構えなしに仲間内で思い出づくりに励むことだろう。
周りを見渡してみると、生徒の反応は様々だった。
「なっ、なんで窓側じゃねぇんだよォー! 席変われ席ー!」
「お前モブT子ちゃんと隣の席か? マジうらやましーッ! 席をゲットして、ついでにT子ちゃんのハートも奪っちまうのかお前はァー!?」
「……興味ないね」
「スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……」
「…………バスが不慮の事故で谷底に落ちますように……」
オレはくじを引いた結果、残念ながら芹澤さんとはだいぶ離れた席に決まってしまった。せっかく好きそうな話のネタを用意したのに……と落胆している表情を察したのか、HRが終わった直後に芹澤さんが駆け寄ってくれた。
「バスで席が離れたぶん、それ以外で一緒になればいいだけじゃん! そんな悲しい顔しないでよ」
ニカッと笑う芹澤さんを見て、いつの間にか落ち込んだ気持ちは吹っ飛んでいた。あまりの切り替えの速さに自分自身で驚きつつも、こうなったのも彼女がいたからなんだと心の底から実感する。
「……ありがとう。芹澤さん」
「ん? なんか言った?」
「芹澤さんの彼氏になれて幸せだって言ったんだよ」
「!?!?!!!! そっ、そんなこと言ったって、こないだの遅刻は許さないからね! まっ、んまぁ? これから私と一緒に修学旅行で食べるお菓子の買い物に付き合ってくれるなら、考えなくもないけど?」
「や、やっぱりあのとき内心では怒ってたのか……本当にごめん……」
「いやいやそんな怒ってるなんて大げさな……ってだからそんな悲しい顔しないでよ! で? 私と行くの? 行かないの?」
「もちろん! オレも――」
言いかけたその時、電流のようにカルアの放ったあのときの言葉が頭をよぎった。
――約束と言ってもね、簡単なことだヨ。この人間サンドバッグを必ず一日一回、時間は五分だけでいいから使用するだけ! 簡単でしョ?
「……? どうしたの? 急にぼぉーっとして」
「……あーごめんごめん。ちょっと寝不足かもしれない」
わざとらしくあくびをかく仕草をする。すると芹澤さんは眉にシワを寄せながら唐突に手を握ってきて、
「睡眠は大切だよ! 今日は行くのやめたほうが……」
「大丈夫大丈夫! たしかちょうど昨日発売された最新のお菓子が、近くのマイナスイオンに売ってたような……お先にー!!」
心配そうに見つめる芹澤さんを振り切って、オレは駆け足でマイナスイオンに向かった。別にそうする必要はないのに、まるで不安振り切るようにして走った。
「帰ってきたとき、まとめてやれば問題ないだろ……」
走っても、走っても、走っても、走っても、走っても、カルアと交わしたあの約束に対しての不安は、どうしても消えないままだった――
「……なんでこんな夜遅くなんだ? 普通なら店は閉まってないか?」
「ところがどっこいその逆で、これから行く店は夜にしか営業してないんだヨ。それも秘密な感じがしていいと思わない?」
雑談をしながらたっぷり一分ほど使って下に到着し、うしろを振り返ると、二十メートルほど真っすぐ行った先に古びた木製のドアが見えた。そこまでの道は両脇に設置されたろうそくが頼りなく照らしている。
進んでいくと、カルアはドアの横の壁に寄りかかりながら腕を組み、いかにも気怠そうにしてオレが来るのを待っていた。
「タラタラしていいのはお菓子だけだヨ主人公君。まぁいいけど。ここが……欲しいものが手に入る店だヨ――」
ドアにはすりガラスが設置されているが、明かりがもれている様子がない。ギギギィッッー と耳に残るような不快音を出しながら、カルアがノブを回してドアを開け放すと――
「うわぁ……」
非常に失礼かもしれないが、とにかく陰鬱で暗い雰囲気だった。唯一の明かりである蛍光灯は一部が切れていたりしてほとんど機能しておらず、床はまるで闇そのものだ。
正面にはオレの身長ほどはある大型のガラスケースが四つ設置されており、中に入っているものは見えない。そこからみぎて奥はとりわけ明るく、カウンターらしき場所がある。
壁に設置されたスピーカーからは、どこか不安を掻き立てられるような不気味なオルゴールの音楽が流れていた。ときおりノイズが混じるせいでさらに不気味さに拍車がかかっている。
明らかに普通の人が来てはいけないような場所だということは、生物的に本能で感じ取った。オレは思わず後ろに一歩下がると、左側にある二階へ続く階段から、ドタドタと忙しない足取りが近づいてきた。
「申し訳ありません! 息子が中々手を離してくれないものでして、出迎えれませんでした……」
水玉模様のニット帽を被った、エプロンタイプで緑の作業服を身に着けた女性が姿を表した。丸顔でタレ目の、営業スマイルが可愛らしく優しい感じがにじみ出てる。
視線を下に移すと、その女性のお腹は大きく膨れ上がって丸みを帯びており、赤子を宿していることが伺えた。急いで階段を降りたせいか、こめかみの部分を苦々しい表情でぐいぐいと押している。
てっきり魔女のようなヨボヨボのおばあちゃんだったり、パリコレのような個性の権化の服を着た残念な人が出てくるのではないかと思ったが、見た目は完全にどこにでもいる専業主婦だ。
「あれ……?」
自分でもおかしいとは思うが、初対面なはずなのに、その女性からは妙な既視感を感じた。とっさにオレは「どこかでお会いしましたか?」と質問する……よりも早く、女性の店員が口を開いた。
「カルア様から伺っております。須藤様? ですよね。申し遅れました、わたしはこの人形屋の店主をしております。堂流と言います。店内はあまり褒められたものじゃありませんが、きっとお客さんの欲しいものが手に入るはずですので、どうか……」
「人形屋……」
仰々しく礼をしたあとに「すみません、頭痛でして……」とまたこめかみを抑える堂流さん。オレは堂流さんに、先ほどの質問とは違う誰もが感じていた疑問を口にした。
「あの、堂流さん」
「はい、なんでしょう?」
「堂流さんはどうして、この場所で店を建てようと思ったんですか?」
堂流さんの営業スマイルがわずかに崩れる。その瞬間、オレは立ち入ったことを聞いてしまったかもと後悔し「あっ、別に無理して答えなくても……」と付け加えたが、
「いえ、大丈夫です。お答えします。長くなるので全部は言えませんが……ここは、夫と出会った思い出の場所なんです。あ、動いた……」
膨らんだお腹をさすりながら優しく笑う堂流さん。ずいぶんと特殊な場所で出会ったんだなぁという言葉は、心の中だけにとどめた。ふとこちらに顔を向けた堂流さんは急に申し訳無さそうな表情になり、
「ご来店されたところ申し訳ないのですが、しばらく須藤様への人形の用意に時間がかかりますので、それまで当店を見学なさってください。その際に……」
堂流さんはサッとカウンターまで行って戻ってくると、持ち手が付いたキャンドルホルダーを一人分携えてきた。白い棒状のろうそくに、赤く小さな炎が揺らめいている。
「転ぶといけませんので、ぜひお持ちになってください」
いやだったら蛍光灯直せよ、という言葉を飲み込み、短くお礼の言葉を述べる。相変わらず営業スマイルを崩さない堂流さん。二階からはさっきまで止んでいたのに、また少しずつ男の子の泣き声が聞こえてきた。
「あの、ここには……ッ!!」
どんな人形が売っているのかと聞こうとした直前、何気なく照らしたガラスケース横に置かれた植木鉢。そこに植えられた花を理解した瞬間、まるで呼吸器官に石を詰められ塞がれたように、言葉を発することができなくなってしまった。
――青色のヒヤシンス
口元を魚のようにパクパクさせたオレをよそに、泣き声に気づいたのか堂流さんは「す、すいません!」と言葉を残して再び二階へ行ってしまった。
なんでこの花が? と思って近づくとカルアが「見よ見よ!」とカップルのようにオレの腕を自分へと絡ませてきた。反動でゆらりと炎が踊る。
…………腕に伝わる柔らかな感触によっての興奮を悟られぬように、オレは花をあきらめ歩き出した。きっとたまたま堂流さんが好きな花なのだろう。怖い方向に考えるから怖くなるのだ。
気を取り直してガラスケースの中を見てみようと、ろうそくの火を掲げて――思わず血の気が引いた。その人形は毛糸で作られており、胴体や四肢はもちろんのこと、ドレスやスーツなどの服も細部までちみつに再現されていた。
大きさは十五センチほどで、他にも様々な服を着た人形が長座の姿勢で隙間なく並べられている。それだけ、ただそれだけならよかったのだが……
一つ、一つだけ、たった一つどうしようもないほどに恐怖を感じているのは……
「なぁ、カルア」
「ん? なんだい?」
「ここにある人形――なんで全員笑ってるんだ? むしろ笑いすぎて逆にひきつってるような……」
人形は、笑っているというより、笑わされているに近いと感じた。まるで両頬から引っ張っているほどにニヤけさせた口元からは、頭の中でピエロが連想された。
顔をしかめるオレを見てカルアは、待ってましたと言わんばかりに口元を隠しながら「フッフッフッ」とその裏で邪悪な笑い声をもらした。
「なんで全部の人形が笑ってるのか気になるでしョ? ンフフ〜聞きたい? そ・れ・は・ね、少しでも罪悪感を失くすためなんだヨ」
「??? どうゆう、ことだ……?」
言っている意味がわからず戸惑っていると、カウンターから「須藤様、人形の準備ができましたのでお越しください」と堂流さんの呼ぶ声がした。
「僕は掘り出し物がないか探してるヨ。いい夢見ろよ!」
白い歯を見せながらグッと親指を立てるカルア。なんとなくその場にいたくなかったオレは早足で向かった。
「こちらです」とカウンターテーブルに並べられたのは、制服のデザインが丁寧に編み込まれた三体の人形だった。
一体目は髪が金髪で、ガッシリとしたスポーツマンを連想させる筋肉質な体型。二体目は中肉中背で、顔はイケメンに作られている。三体目は二重あごに、制服が張り裂けてしまうくらいの肥満体型……あれ? これって……。
「あの、すいません堂流さん、この店にある人形って、いったい……」
「それに答える前に、ズバリ須藤様に訊きます、あなたは今、ストレス解消のことで悩んでいますよね?」
「――ッ! それは、カルアから聞いたんですか?」
「勝手なことをして申し訳ありません。ですがここに置いてある人形は――まさに、あなたのような人に買われるためにあるようなものなんです!」
落ち着いた口調から、急に人が変わったように自信満々になる堂流さんにオレは困惑した。ということは、この人形はストレス解消になにかしら役立つものなのだろうか。そしてその答えは、オレの予想の斜め斜め斜め上を行った。
「この人形の名前は――人間サンドバッグと言います」
「人間サンドバッグ?」
あまりにも聞き慣れない単語なので思わずそう聞き返すと、堂流さんは今までの優しそうで穏やかな表情から一転、こめかみを抑えながら、まるで置かれている人形と同じ不気味な笑みを浮かべて、
「耐久性は無限大! より快適なストレス解消を実現していただきたく、肌の手触りや毛穴などによるデコボコ、筋肉の感触までほぼ100%生身の人間に近づけました! 作り方は超簡単! まず湯船にたっぷりとお湯を張ります。このとき、お湯の温度は必ず三十七度から三十八度にしてください。あとは人形を湯船に沈めて半日放置するだけ! 以上!! これを殴った際のカイカンは、まるでセーター服と機関銃よりもずっとずっとずーっと得ること間違いなしの逸品です! ご購入いただけましたら必ず、充実したストレス解消を約束いたします!!!!」
「……はぁ」
まるでシャバネットの低田社長バリにたたみかけるような紹介をする堂流さん。本当にそんな簡単な手順で、その人間サンドバッグとやらを作れるのだろうかと疑っていると、ゆっくりと包み込むようにオレの手を握ってきて、
「時間ほど残酷なものはありません。たとえ今が満たされていても、いつの日かすべてを奪われる日が来るかもしれない。このまま普通のパンチングボールを使い続けることに、なんの不満もないんですか?」
さっきのテンションが嘘のように、今度は悲しげでなにかを訴えるような目つきで見てくる堂流さん。オレは思わず口ごもってしまう。
「そ、それは……」
――壊れないパンチングボール
今目の前には、その条件を見事にクリアしたものがある。たとえ大金をはたいてでも買う価値は大いにあるだろう。
しかしなにか……なにかはわからないが、その一歩を踏み出してしまったら最後、駅のホームで言う白線を越えてしまうような――そんなわけ自分でもわからない思考が頭を巡った。
購入までの踏ん切りがつけられず言い淀んでいると、二階から今のオレにとっては絶好のタイミングで、
「ママーーーーン!!! どうしてェェェェェ!!!!!」
ずっと止んでいた男の子の泣き声が、パワーアップして復活してきた。今度は一階でもはっきりと聞き取れるほどの大きな声に、営業スマイルから一転、まるでどこにでもいそうな我が子を想う母の慌てた顔になった堂流さんは、
「す、すいません! うちの息子ったら、男の子なのにかなりの泣き虫でして。小学校に入学して結構経つのに友達の一人もできないし、学校ではあまりいい話聞かないんですよ〜。まったく困った子でして〜ほんとに〜」
謝罪するようにオレに言うと、カウンターから飛び出しまたも二階へと消えていってしまった。少しの沈黙が訪れたあと、後ろから一通り見てきたのか「そろそろ終わったかい?」とカルアが尋ねてきた。
「いやその、まだ決心がついてないと言うか……すごく魅力的な商品だし、ここまで連れてきてくれたことはありがたいんだけど、とりあえず今日は、購入を見送ろ……」
最後まで言いかけたその時、今更気づいたのだが、カウンターの左端にはひっそりとちょうど人形一体がすっぽり入るほどの小さなガラスケースが置いてあった。中にはやはり気持ち悪いほどに過剰な笑みを浮かべた人形がある。
「カルア、これって……」
手足や胴体などはいたって普通で、同じ大きなガラスケースに入れられるはずの見た目だ。強いて違う点を挙げるとするなら、頬に猫のような引っかき傷と、右目尻に大きなホクロがあるということだけだ。
その人形を一目見たカルアがぽかんと口を開けたあと、今度は小悪魔的な笑みを浮かべて、
「触れば、わかるヨ……」
なにを企んでいるのかわからないカルアのことだ。きっと触ったところでロクなことがないのはわかっていた。わかっていたのだが、オレの手は頭で考えるより早く小さなノブを開けて、手を伸ばし……
「――ッッッッ!!!?!?!!!!」
触れた箇所から全身へと感電するように、オレの頭に濁流のごとく映像が流れ込んできた。
真っ赤に染まっていくアスファルト――
不規則で荒い息遣い――
口から吐き出しそうな心臓――
骨が折れるほどの四肢の震え――
けたたましいバイクの音――
泣きわめく子どもの声――
いつもより高い目線――まるで、自分以外の誰かになったような気がする。
ぼやけていた視界が開けてくる。真っ赤なのは決して絵の具なんかじゃない、血液だ。人間の体を流れる血液だ。鉄のような臭いと排気ガスの臭いが混ざり合って鼻が曲がる。ついでに涙も出てくる。
胃の内容物がジェットコースターのようにこみ上げて逆流しそうだ。今、オレは、オレは、オレは、オレは、オレは、ボク、は…………
飛び散った血液に肉片、その中心に血を流し横たわる親子の姿……
母親と思われる頭からは骨が露出し、ぐちゃぐちゃになったピンク色の破片のようなものが見える……
――そんな凄惨な光景を見て、どうしようもなく頭を抱えているのは……オレ!?
――――――――
――――――――
――――――――!!!!!!!!!!
反射的に人形を床に叩きつける。触れてから叩きつけるまで要した時間は一秒もないはずなのに、少なくとも一分以上はあの映像を体感していた気がする。終わったあとも呼吸が苦しく、頭がズンズンと重低音が鳴っているように痛み続けている。
「アッ……アァッ……」
平衡感覚が失われているのか、まともに立つことすらできない。オレは膝から崩れ落ちると、ゴボゴボと泡を吹きながら力なく地面に伏した。
その様子を見てカルアは「カニさんみたーい!」とまるで純粋無垢な少年のように晴れ渡る笑顔をこちらに向けてくる。
「あんららー、さすがにちょっとやりすぎたかな?」
「…………。…………ッ」
かすかに伸ばした腕の力が抜け、やがてピクリとも動かなくなる。あの小さなガラスケースに入れられた人形は、いったいなんだったのだろう? これから意識を失うオレにとっては、それを知る由もない。
現在の時刻は十時半過ぎ。このまま人生を終えてしまうのかと思ったがそうではなく、オレが目を覚ましたのは、約八時間後の朝の六時以降だった――
「…………あれ、なんで!」
頭がズキズキする。体がダルビッシュよりダルい。昨日起こった二郎系ラーメンのスープより濃いできごとが頭の中で混濁していて溢れ出しそうだ。どうやらオレは、いつの間にか自分の部屋で眠っていたらしい。
どうやって帰ったかは覚えていない。自分の足で帰ってきたのか、それとも誰かに連れ添ってもらったのか……。ベットのすぐ横にあるカーテンを片側開ける。閃光手榴弾のような陽の光が全身に照りつけてきて思わず目を細めた。
「夢……なのか?」
人形屋という奇妙な店に行ったのもすべて悪い夢だと思ったのも束の間、テーブルに置かれた――三体の人形を視認したことで、現実で起こった出来事だと再確認させられた。
たっぷり三十秒ほど人形を見つめる。またあの小さなガラスケースに入れられた人形と同じ映像を視せられるのではと警戒しながら触ったが、ただの毛糸のふわふわとした手触りがあるだけだった。
「これは……」
机の色と同化していて今まで気づかなかったのだが、右から三番目の人形の下に小さな紙切れが敷かれていた。手に取ると、
――今はお試し期間中だから代金はいらないみたいだヨ。それと、この紙の上にある人形を一番最初に作るように、必ずだヨ。 大天使大聖女大大大女神カルアより
――触れば、わかるヨ……
カルアの子悪魔的なニヤけた口元を思い出す。オレはたまらず、
「――ッ!!」
指の爪が食い込むほどに拳を力強く握る。カルアはこうなることを知っていてオレにあの人形を触らせたのかと、そう理解したとたんに――ドクンッドクンッ と鼓動 が鳴り始める。殴りたい、殴らないと。でも……
壊れて床に放置したままのパンチングボールを見つめる。最後の方法としてバイトのお金を貯め、新しいのを買うという方法があるが、できればそうはしたくない。なぜならストレス解消の時間がなくなってしまうからだ。
「でも、お金がな……」
オレは何気なく視線をベッドの近くのテーブルに移して――人間サンドバッグと再び目が合う。堂流さんが昨夜言ってたあまりにも簡単な作り方に、オレはさいど人形に疑いの目を向けた。
しかしそうしたところで新しいパンチングボールが買えるわけではない。今は嘘にしか聞こえないこの話も縋らないといけないほどに、オレは金銭的に追い詰められていた。
オレは結局湯船にと三十七度から三十八度のお湯を張り、そして言うことを聞くのは非常に癪だが、紙の上にあった人形を先に沈めておいた。
「これでよし……と」
正直、まだ完全にこの人間サンドバッグを信じたわけではない。もしかしたらすべて嘘っぱちかもしれない。今は大丈夫だが、今後映像を視せられるような人形に変わるかもしれない。だが今はそんなあれこれ考えても仕方ないと思う。
時計を見ると、湯船いっぱいにお湯を張ることにより時間がかかってしまい、登校時間を数分と過ぎていたので急いで準備する。そうしながらも頭の中は、人間サンドバッグことばかりが浮かび続けていた――
すでにHR開始の時間から五分が経過している。砂原先生は時間に厳しい人なので、本人が遅刻していることはないだろう。
じゃあどうして……と考えていると、ガラガラと引き戸がスライドし、ようやく到着した砂原先生。しかし今日はいつもの気だるい感じはなく、どこか重々しい表情をしている。
「お前ら、落ち着いて聞いてくれ。佐藤と鈴木と高橋が、昨夜から家に帰ってないらしい。誰か心当たりないか?」
さっきまで雑談ムードだったのが一変、チラホラとざわめきはじめるクラスメイト。中にはしめしめと言わんばかりにせせら笑う生徒もいたが、ほとんどは俗に言う【行方不明】という単語が連想されて困惑していた。
にしても不可解だと思う。今日はログインボーナスはなかったし、佐藤たちはいくら素行が悪く近隣の住民から問題児扱いされても、学校にだけはきちんと来る生徒なのだ。どうして……と思った次の瞬間、
「――ハッ!!」
急速に頭の中が回転する。その際になぜかオレは、家にある三体の人形を思い出していた。一体目はガッシリとしたスポーツ体型、二体目は中肉中背、三体目は肥満体型……佐藤たちとまったく同じだ。
いや、そんな、まさかそんなことがあるはずがない。オレは頭の中に浮かんだ最悪なシナリオをすぐに消しゴムで消した。徐々に頭痛や息切れが激しくなっていって、違和感を感じたのかとなりの女子たちが話しかけてきた。
「どうしたの須藤くん? 具合悪いの?」
「保健室行ったほうがいいんじゃない?」
「いや、その……大丈――ウッ!?!!」
ドクンッドクンッドクンッ と鼓動が暴れ始める。砂原先生がいつものオレの状態を察してくれたのか、優しい口調で、
「須藤、無理しないでとっとと行ってこい」
「……すいません、ありがとう、ございます」
オレは吐かないように口元を手で押さえながら、もはや通い慣れた保険室へ急いだ。勢いよく引き戸をスライドさせると、中には誰もいない。午前中はよく留守にしていることを、何度も通ったことで学んだ。
いつもの左角にあるベッドに直行すると、シャーと音を立てながらカーテンを閉め外界から遮断する。布団に潜り込みながら、オレは興味本位で心霊番組を見てしまった子どものように震えていた。
最悪のシナリオ――それは、あの三体の人形は佐藤たち本人ではないだろうか? というものだった。当然絶対にありえないのですぐに消したが、消しても消しても消しても消しても、また滲むようにして考えが浮かんでくるので精神的にもかなり参っていた。
結局放課後もこの不安は拭うことはできずに、二時間目から戻った授業も六時間目までずっと、集中できないまま終えてしまった――
「……はぁ」
放課後、午後の夏の日差しは衰えることなく街全体を威圧している。足取りは人間サンドバッグに対して多少の期待があった登校時とは違い、今はテストで赤点を取った日の帰り道のように重かった。
このままオレは、人間サンドバッグ使ってストレス解消をしてもいいのだろうか? 万が一最悪のシナリオ通りなら、理性がある今この瞬間が、人形を返品することのできる唯一のチャンスではないだろうか?
もっとも、まずは暑さで火照った体を潤したい。とりあえずアパートに帰ってキンキンに冷えた麦茶でも飲んでからじゃないと始まらないだろう。玄関のドアを開けると――
「……ゴクッ……ゴクッ、返品は、困るヨ、主人公君」
「お、お前はたしか! カルア!! なんで部屋に……!」
まるで同居人のように堂々とジュースを飲むカルア。不思議に思ったのは、三十度近い気温でも一向に白いトレンチコートを脱ごうとしないことだ。なにかこだわりでもあるのだろうか。ん? おいその手に持ってる――
「そ、そのジュースは! オレがちびちびと特別な日にしか飲まないと決めてる三つ目サイダーの贅沢メロン味! なんでお前が一気に飲んでるんだ!! ガブ飲みか? ガブ飲みメロンクリームソーダか!」
「いやぁ~すごく美味しかったヨ! にしても最初にメロンクリームソーダを作った人って、すごくせっかちな人だと思わない? 本来ならメロンソーダとバニラアイスを別々に食べるはずなのに、時間がなかったのかアイスをメロンソーダに溶かして一度に食べる……いや飲むという邪道! しかしこれが美味しすぎて、メロンだけに…………メロンメロンだヨ!!」
「………………百点」
「ほんとに!? うれし――」
「マイナスのな」
「理不尽!!」
なに一つ悪意を孕んでないような無邪気な笑みと声色に、オレの中の怒りは呆れという名の水により消火されていった。ああ……オレの、わずかな楽しみが……ってそれより!
「そうだカルア! 今日はいったいなんの用だ? どうせ旅人なんだから隣町でもどこでも行けばいいじゃないか」
そう言うとカルアはオレのとこまでズリズリとすり寄ってきて「冷たいこと言うなヨ〜」とおちょぼ口になりながらオレの頬を指で押し当てた。あーめんどくさいこうゆう人。もしかしてだがずっと居座る気じゃないよな?
「ごめんごめん、お遊びが過ぎたヨ。今日はね――主人公君と約束しに来たんだ。感心なことに、僕の言う通り作ってくれたみたいじゃないか。えらいえらい! ナデナデしよっか?」
カルアはそう言い終わるより前に、すでにわしゃわしゃとオレの頭を撫でくり回してきた。あまりの予想外の行動に、オレの頬は血が一気に集中したように真っ赤に染まってしまった。
「しっ、しながらいうセリフか!」
シルクのように柔らかく少しひんやりとした感触が頭皮を伝って理解できた。もっと味わえば良いものを、オレは照れかくしなのか大声を出しながら頭をふるわせて手をどかしてしまった。
「約束の前に、人間サンドバッグを運び出すのを手伝ってあげようと思ってね。もう一つの用でもあるヨ。これで飲み物の件はチャラね」
「チャラかどうかはオレが決めるもんだろ。それになんだ? 運び出すって? まるですごいおも……」
言い終わるより早く、カルアはハミングしながら軽快な足取りでユニットバスに入っていってしまった。直後、浴室内からカルアの興奮したような、歓喜に満ちた声がこもって聞こえてきた。
いったいなにを見ているのかと、オレもあとから続いてドアを開ける。視界に入った湯船の中には――
「ウワアアアアアアッッッ!!!!!!」
たっぷりと張ったはずのお湯は跡形もなくなっており、代わりにそれをスポンジのように吸収して大きくなったのか、今では湯船全体を埋めていた――鈴木の体で。
「鈴、木……? 鈴木なのか?」
思わずそう問いかけるが返事はない。まさかこれが、人間サンドバッグ!? 堂流さんの言った通り、肌の手触りから毛穴、筋肉の感触の他に、髪一本一本の質感や爪の形、足の太さや皮膚の少し焦げた色合いなどほぼすべてが本人同様に作られている。
驚愕のあまり見とれていると、カルアがまたも企むように口元をニヤけさせながら「ついでにここも触ってごらんヨ」とガシッと腕を掴まされる。
そのままオレが嫌がる間もなく、カルアによって鈴木の股間の部分に触れさせられた。グニュッとくたびれたグミのような触り慣れた感触にヒッ……と小さく悲鳴を上げる。その反応を見てカルアは心底愉快そうにゲラゲラと笑った。
「ほんと主人公君はカラカイがいがあって助かるヨ。じゃあぼくは頭を持つから、主人公君は両足をお願いね」
「お、お前なぁ……」
人形の件然り、ジュースの件然り、カルアは定期的に誰かをイジメないと死んじゃう病気なのかと、本気で心配している。相変わらず触感が人間のソレな両足を持ち上げた瞬間、カルアが最初に鈴木の人形を作れと言っていた理由がわかった。
なんと鈴木の人形は、体重も本人同様に再現されていたのだ。それ故に鈴木の見た目からして90キロを超える巨体を持ち上げねばならず、二人がかりでも運び出すのにかなり苦労した。なんとか洋室に上げて部屋の中心に起立させる。
「オーケー! 百聞は一見にしかずだ。まずは僕がお手本を見せてあげ――」
「その前にカルア! 説明してもらおうか! 百歩譲ってお湯を吸ったら人形が大きくなるというのはわかる。でもどうしてその見た目が――鈴木と瓜二つなんだよ!! 残りの二体の人形も、もし、かして……」
ようやく消えかけたはずの最悪のシナリオが、再び浮上してきてしまった。カルアに視線で否定してほしいとせめてもの合図を送るが……現実は、カルアの口角があからさまに上がったことで、非情にも答えが決定してしまった。
「少し、違うヨ。主人公君は人形が佐藤たち本人だと思ってるかもしれないけど、正しくは人形そのものではなく、あくまで人形に佐藤たちのタマシイが入っているんだヨ。体は完全に堂流君のお手製だから。そこんとこ大事だヨ」
「――ッ!!」
よく、わからなかった。今、カルアはなんと言ったんだ? タマシイが……の時点でオレの脳は職務放棄してしまったのか、これ以上思考することができなくなっていた。一方カルアはなにを思い出したのか、手の平をポンと叩いて、
「そう言えば、堂流君から万が一主人公君が使用するのを渋ったらって、手紙を預かったんだ。聞いてくれるかい?」
カルアは元々読むつもりだったのか、オレから了解を得ずにスカートのポケットから一枚の折りたたまれた便箋を出した。そのまま声に出して読み始める。
――須藤様、この手紙を読んでいるということは、あなたが人間サンドバッグを使うことに罪悪感を抱いてしまっていることかと思います。
――しかしそれは、大きな間違いだと断言しましょう。なぜなら、これは単なるストレス解消ではありません。正義の鉄槌だからです。
――腐ったリンゴは取り除かないといけないように、いずれ社会の歯車となったとき迷惑をかけてしまう前に、悪の種は早めに摘み取らないといけません。
――鈴木。罪状は飲酒に喫煙、そしてそれを他の同級生に強要したことです。おかげでその生徒は慢性的に強く喘息が続いてしまい、今も苦しんでいる状態です。
――はじめに言っておきますが、これはまだ序の口でしかありません。残りの二人の罪はマリアナ海溝より深く、ユーラシア大陸より広いです。それをお話します。
――高橋。罪状は不純異性交遊。他の人より少し顔が整っているというだけで天狗になったのか、ゴムも付けずに性交渉を繰り返し、妊娠してしまった複数の女生徒は中絶を余儀なくされました。
――そして最後は一番の邪悪、佐藤。罪状は無免許運転に……ひき逃げ。父親のバイクを定期的に勝手に乗り回した挙げ句、当時一人暮らしだった八十代の老人を轢いたのち走り去った。
運がいいのか、その老人は以前から認知症の疑いがあったので警察はひき逃げ事件ではなく、単なる失踪事件として片付けてしまった。
――こんな、こんな人間ならざる者が、のうのうと生きていいのでしょうか? 世界のどこかでは常に戦争が起こっていて、毎日何百人と罪なき命が失われています。その人たちの命と掃き溜めの命、天秤にかけたらどちらが重いかなんてのはギャンブル依存症の末路より明らかだと思います。
――須藤様、あなたの、力が必要です。掃き溜めの汚れたタマシイを、その拳で、正義の拳で、浄化してください。須藤様にしかできません。どうか、お願いします。 人形屋店主 堂流より
「………………」
一通り読み終えると、部屋には潰れそうなほどの静寂が訪れた。ま、まさか三人そんな秘密があっただなんて……。開いた口が塞がらないでいると、それを破るようにカルアが、
「わかってくれたかい? 主人公君が罪悪感を感じる必要は、別にないんだヨ。君は酷いことをされたんだから、遠慮なく――ストレス解消の道具にしても」
……耳元で誘うように囁くカルア。言われてみれば、たしかにそうだろう。直接本人を殴らずに済むし、自分自身には一切危険もない。断る理由なんかあるのか? オレの中のどこかから声がする。
己の欲望のままに手を伸ばしたその時、一握の砂のごとくわずかに残った良心が……
「こんなの――受け取れるわけないだろ!」
パンチングボールを使っているときのような張り上げた声で、受け取りを拒否する。ニコニコとしたカルアの口から一変、首をかしげてなにがなんだかわからないのか無防備にぽかんと口を開けた。。
「受け取れない? 僕の話ちゃんと聞いてたかい? ジョーダンはマイケルだけにしなヨ。しつこいようだけど、主人公君が罪悪感を感じる必要なんてまったくなくて、むしろこれは正義の鉄槌なんだヨ?」
「でも、こんなやり方、許されるはずが……」
言いながら、違うなと――オレは思った。たしかにタマシイが入った人形でストレスを解消するなんて、道徳的にも倫理的にも反していると思うが、それ以上にオレは……怯えているだけなのだ。怖いのだ。
もしカルアの言う通りにしたら、オレはその掃き溜め と同類になってしまうのではないかという不安が、自分が変わってしまうという不安が、ヘビのようにとぐろを巻いて取れないのだ。だから、
「カルア、オレは人間サンドバッグを返品……」
「――これからも、優しい人を演じ続けるのかい?」
「――ッ!!」
ドクンッ! と心臓が押さえつけられたバネのように跳ね上がる。不意打ちの一撃を食らったようで、いつもより苦しく感じる。そんなことはお構えなしに、カルアは呆れたようにつぶやいた。
「いいのかな〜。まぁ主人公君は優しい人だし? そう言うのはわかってたけど? でも言葉を返すようだけど優しい人? というのにも限度があるわけで? 僕から見れば、主人公君は優しい人? という基準線をすでに超えてるんだヨ。それは優しい人? じゃなくて自分の意見を言えないただの臆病者だヨ。そうは思わないかい? 優しいのす・ど・う・君?」
ドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッ!!!!!!!!!!!!!!!!
「ガッ!……アアッ…………ッ」
マシンガンのごとく優しいという言葉を連呼されて、オレは耳から噴水みたいに血を吹き出してしまいそうだった。ガクッと膝から崩れ落ち、ピクピクと小刻みに痙攣する。
声が出ない。あまりの鼓動の音量に堪えられなくなり、耳を塞ぐがなんの意味もない。鼻から呼吸ができず、口で頼りなく酸素を取り込んでいる。それを見下ろしながら、カルアは嘲るように言う。
「ん? どうしたの? どこか具合でも悪いの? なにかよくない物でも食べたとか? もしかして好きな人に振られちゃったとか? そ・れ・と・も――アラームが鳴ってるとか?」
「ど、どうし、て……」
カルアは、鼓動のことをどうやって知ったのだろう……? いや、今はそんなこと考えている場合じゃない。早く……早く助けを呼ばないと……!!
「た、助け……」
「あいにく僕は正義のヒーローでも神様でもなく、ただ天使で聖女で女神レベルでかわいい普通の女の子なんだヨ。つまり慈善事業じゃなく、助けるということは当然こちらに対価が……」
だらだらと喋っている間にも、オレの口からはあの人形に触ったときと同じようにぶくぶくと泡が漏れる。鼓動が徐々に落ち着いてきて……いや違う。遅くなっているんだ。このままだと、心臓に永遠の有給休暇を与えてしまう。
だめだ、このままじゃ、本当に……。解消、しないと。解消して、スッキリしないと……。
完全に意識が闇に落ちる前に、
オレがオレでなくなる前に、
優しさのクサリで、絞め殺される前に――
「ん……んぁ……」
この短い期間で気絶というのを二度も経験するなんて、オレは三周ほど回ってツイてるんじゃないだろうか? オレらしくないポジティブな考えだ。
もう鼓動は鳴っていないので体を起こそうとしたその時、オデコの部分を指で突かれている感覚がした。目線を動かすと、
「ツンツン、ツンツンツーン、どうも、オデコツンツン女です」
「やめんかっ!」
オレは勢いよく起き上がるとカルアの指を払い除けた。ふと窓を見ると、差し込む陽の光が濃いオレンジ色に変化している。時間からして午後七時ほどといったところだろう。沈む太陽を見やっていると、
「決心は、ついたかな?」
「…………」
オレは言葉を交わすこともなく、無言で首を縦に振った。一歩ずつ踏みしめるようにして、鈴木の人形の前に立つ。
蒸し暑い空気を肌で感じながら、大きく吸って吐いてを数回行った。これから裁かれるというのに、気持ち悪いくらいの笑顔は変わらずに健在だ。まるで、なにも考えていないように見える。
不愉快だ。
不愉快だ。
不愉快だ。
とてもとてもとても、不愉快…………
「――――ッッッ!!!!」
気がついたときには手が動いていた。まるでロケット花火のように勢いよく、怒りという名の炎を宿したオレは、明らかにいつも以上の力で拳を繰り出すことができた。
「ティバァッッ!!!!」
鈴木の人形の胴体に貫くような右ストレートが決まった瞬間、笑顔からは想像できないようなうめき声を上げたのだ。思わず次の左ストレートの手を止める。
「ええっ?」
「言い忘れてたけど、この人間サンドバッグには見た目や重さ以外にリアルなところがあって、それは殴った際に、中に入ったタマシイの主と同じ声を発する機能だヨ。これで殴るのがより捗るはず!」
……ほんの一日前は、カルアに対して得体のしれない恐怖や不安をどこか感じてしまうことがあったが、今では言葉に言い表せないくらいに感謝している。カルアはまるで、飲み会で盛り上がっているときのように大げさに手を叩きながら、
「いいねいいねぇ〜! でもたった一発で済むほど、主人公君のストレス解消はその程度なのかな?」
まるで挑発するようなカルアの発言。しかしスイッチの入った今となっては、暖炉に薪をくべてさらに油とガソリンをぶちこむようなものだ。鈴木の人形を殴る、殴る。殴る。ときどき蹴る。そしてまた殴る。殴る、殴る、殴る…………
「鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑死刑鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌鉄槌!!!!!!」
「アベマァァッッッ!!!!」
拳のラッシュを決め込んでいる最中、いつかカルアが言った言葉が頭をよぎる。常に人間サンドバッグが笑っているのは、罪悪感を失くすためだと。
罪悪感? 違うね! オレにそんなものはありゃしない。なぜならこの行為は、正義の鉄槌であり、因果応報だからだ。悪いことをしたら自身にも悪いことが起こる。そんな当たり前なことを体で教えているだけなのだ。
しばらく殴り続けて気づいたのだが、鈴木の眼から透明で温かい液体が出ていることに気づいた。涙も出るのか、という関心よりも先に出てきたのは――憤怒の心だった。
「なに泣いてんだゴラァ! 出していいのは血とうめき声だけじゃボケェッッッ!! この――ド腐れ短小チンポコ野郎がァ!!」
「ディアニィィィッッッ!!」
絶えず奏でられ続ける拳と蹴りの二重奏。それがが皮膚に、肉に、骨にめり込む感じがしてとても心地よく、気持ちがいい。
鈴木の人形の笑顔を見る度にイジメたい、もっとイジメたいという欲望が噴水のように湧き上がる。これがサディズムってやつだろうか。思わずガクガクと足腰がしびれて立っていられなくなる。
「アハハハハハハハ!! ヒヒッ……ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハヒッハハハ!!!!」
オレは狂った笑い声を浮かべながら、先ほど抱いていたはずの恐怖や不安といったものは、綺麗さっぱり消え去っていたことに気づいた。
でも、そんなことは別にどうでもいいと思えた。今この瞬間、思いっきりストレスを発散させられるなら、それ以上の幸運なんて便器にしつこくこびりつくウンコほどの価値しかないと本気で思えた。
少し休憩して、また殴ってを繰り返し、いくつかの時が流れて、流れて、流れて――
「……ん、ハァ……」
いつの間にか寝てしまったらしい。思いっきり両腕を上に伸ばして上半身を起こす。恐らく何十年と忘れていた天使の目覚めという感覚だった。まるで脳に直接エナジードリンクをぶっかけられたみたいに、隅々まで冴えわたっているのを感じる。
「あ、起きた起きた。いきなり気を失って倒れたから、てっきり死んだのかと思っちゃったヨ」
いつもならやかましいと思うカルアの言動も、今に至っては仏のような広い心で許すことができた。窓からはうっすらと黄色い陽の光が見える。
二度目の伸びをしてから、また床に大の字で寝そべる。憑き物が落ちるの意味が、頭でなく体全体で理解できた気がした。
「すごく……良かったよ……」
「なにそのピロートーク始めるときの第一声みたいなやつ〜。ヤ・ラ・シ・イ〜〜」
「チッがうわ! 久しぶり、なんだよ……。オレは今までパンチングボールでストレス解消をしてきたけど、どこか満たされない気持ちがあった。けどそれをひた隠しにして、目を背けて……今日やっと本当の意味でストレス解消ができたよ。ありがとう」
ふと時計を見て驚いた。針は午後の四時半を示していたのだ。時間が戻っている!? と思ったのも束の間、冷静になって陽の光から考えると、針はグルっと一周して、現在の時刻は午前の四時半。夜明けだ。
「まじか……ハハッ……」
時間を無駄にしたことよりも、オレはかつてないほどの達成感と高揚感を感じていた。小学生のとき、プロボクサーになりたくて必死に練習に打ち込んでいた時期を思い出して、オレは含み笑いをした。
「満足してる最中悪いけど、次は僕の本来の目的を果たさせてもらうヨ」
ぺちぺちと頬を叩かれ、夢心地でいたオレは現実に引き戻される。正直このまま寝たフリでもしようと思っていたが、鈴木の人形を一緒に持ってくれた恩もあるので仕方なく起きる。
「約束と言ってもね、簡単なことだヨ。この人間サンドバッグを――必ず一日一回、時間は五分だけでいいから使用するだけ! 簡単でしョ?」
「……? それ、だけなのか?」
「それさえ守ってしまえば、人間サンドバッグは永遠に使い放題! 料金も無料! どう? いい話でしョ?」
五分だけでいい? こんなに画期的で最高の商品を、五分だけしか使わないだなんてもったいないじゃないか。なにごともやりすぎるとありがたみがなくなるなんて言葉をよく聞くが、オレは盲目になりすぎて微塵も考えつかなかった。
「こんなにいい商品、オレは一回に関わらず三回でも四回でも使うぞ。二ポンドかけてもいい」
「……気に入ってくれたようで良かったヨ。僕も、初めての仕事にしちゃ上出来、かな」
「初めて?」
「あぁいや、こっちの話だヨ……それより、主人公君」
なに――とカルアのいる方向へと体を動かした瞬間、音もなくオレの眉間に右手を近づけると、
――ピンッ
「えっ……」
驚く暇もなく、まるで睡魔にでも襲われたようにあまりにも突然、意識が遠のいていった。
カルアがなんの冗談か一発オレの眉間に――デコピンをしただけなのに。それだけなのにオレは、なすすべななく床に沈んでいく。その間際、
「――終点までの物語は今……決められた」
「………ッ………え…………?」
カルアはずっと深く被ったまんまだった黒いシルクハットを――スッと取って見せた。長いまつげ、クリスタルのように透き通った銀色の瞳、真っ白でところどころウェーブかかった髪が、ファサッと飛び出して露わになる。
「…………!!」
すごく、きれいだなと思った。きれいすぎて、とてもこの世のものとは思えないような危うさと儚さと脆さを兼ね備えているように感じた。まるで雪のように……。
カルアの発した言葉の意味がわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。そう思えるほどに、彼女は………………。
ドサッ
「いた! なにす――」
よりにもよってカーペットの敷いてない固いところで尻もちをついてしまったため、起き上がってすぐお尻がジンジンする。唐突なカルアの奇行に文句の一つでも言ってやろうと思ったが……部屋にはオレ以外誰もいなかった。
「…………え?」
生暖かい風が吹き抜けていく。オレがデコピンを食らってから起き上がるまで、時間としては五秒ほどだ。にも関わらずまるで最初からカルアなんていなかったかのように、部屋にはオレだけが取り残されていた。
いったいカルアとは何者なのだろう。しかしなぜかそれを知ろうとすると、この夢のような時間が終わってしまう気がした。ふと喉が渇いたので冷蔵庫まで行こうとすると、
「…………」
「…………」
殴ったあとは綺麗サッパリ消えていて、元のピエロのような笑顔だけが残った鈴木の人形と目線が合う……やはり見つめられているようで気持ちが悪い。カルアの言葉を思い出す。
――約束と言ってもね、簡単なことだヨ。この人間サンドバッグを――必ず一日一回、時間は五分だけでいいから使用するだけ! 簡単でしョ?
頭の中に墨汁を垂らすようにして、思考が真っ黒に染まっていく。五分だけでいい? 甘い甘い甘い甘い甘い甘甘い甘い甘い甘いい甘い甘い甘い! 練乳を火にかけてドロドロに濃縮したくらい甘ったるいぞ!!
「――五百分だ」
オレはドタドタと風呂場へ向かった。ドアを開けるとシャンプー置き場には佐藤と高橋の人形が。いつでも作れるように置いておいたのだ。
「……一日ぐらい休んでも、いいよな?」
納得するように首を縦に振ったあと、佐藤と高橋の人形を手に取る。思わず口角が磁力に引き寄せられたようにして上がってしまう。今自分、最高に笑顔してる。さぁ、確定死刑の始まりだ――
その日からだ、オレと人間サンドバッグによる生活が始まったのは。
朝起きて鉄槌、登校する直前に鉄槌、下校して家に帰ったら鉄槌、なんかイライラしたら鉄槌、寝る前に鉄槌というのを毎日行い、平均にして五時間は正義のために働いた気がする。実に気持ちがいい。
おかげで心の余裕ができたオレは、学校で嫌なときは嫌だと自分の素直な意見を言うことができて、良い意味でも悪い意味でも一目置かれる存在になった。そして数ヶ月のときが過ぎた――
中には前のなんでも頼みを聞いてくれていたころのほうがよかったなんて言う邪悪もいるが、その人とは上手く距離を取っている。我ながら人付き合いはかなり上達したつもりだ。
突然だが、人間サンドバッグのおかげであったいいことを三つ紹介しよう。
一つ目は、鼓動がほぼ鳴らなくなったことだ。どんなに怒りやストレスを溜め込んでも、人間サンドバッグがあるという精神的な安心感が、鼓動を抑え込んでじっしつ消滅したのだ。
二つ目は、クラスメイトと本当の意味で交友関係が深まりはじめたことだ。最近のできごとの一つとして、人生で生まれて初めて放課後に寄り道をし、みんなでハンバーガーを食べたことだ。チーズチキンバーガー、宇宙一美味しかったなぁ。
今では心の底から笑うことも増え、頼る以外の他にも自然と話しかけてくれるクラスメイトが増えてくれたのだ。
最後に三つ目なんだが……その……なんだ、自分が一番信じられないという気持ちがあるのだが、どうやら事実らしいんだ。イヤでも弄ばれている可能性もあるわけだし、自分一人の思い込みという可能性も……
「――ほんとごめん!! 待たせちゃった?」
「……いいや、大丈夫だよ。今来たところだから」
待ち合わせ場所の駅の構内に着き、膝に手をつきながら息を整える。今でも目の前の景色が信じられなかった。まさかオレに――芹澤刀子という彼女ができるなんて。
実は夢ではないだろうか? ならせめてと、芹澤さんの水色のワンピース姿を舐め回すようにして視姦してしまう。
「へ、変かな? 結構頑張って選んだつもりだけど……」
「ふぇ? いやいや全然全然! あっ、全然って悪い意味の全然じゃなくて良い方の……」
オレはいったいなにを喋っているんだ? いかんいかん、なにごとも始めが鑑真。第一印象が大事なように、ここで失敗したら今後の関係に間違えなく影響する。もっと男らしく、スマートに。
「すごく、可愛いよ。ボクは幸せ者だ」
「そ、そうなんだ。ふうん……」
と言いつつ、少しだけ顔を俯かせながら恥ずかしそうに笑う芹澤さんを見て、オレの胸の中は⭐ファンファーレでも鳴っているかのように高らかに高揚した。
二度目の突然だが、オレはこれから芹澤刀子とデートをする。なぜオレが芹澤さんと付き合うことができたのかは……それは、告白してきた芹澤さんのみが知ることだろう。
この日のためにできる限りのことはしたつもりだ。行き先の予習や身なりの徹底。面白いトークをするコツなどをネットで調べたりした。ついでに高すぎないけどかっこよくキメれる服を漁ったりもした。
……そこまでなら順調だった。しかし気張りすぎたせいか、なんとデート初日にして遅刻してしまうというとんだ大ボケをかましてしまったのだ。てっきりこれから冷たい態度を取られるのかと思ったが、
「あ、あのさ……須藤」
「ん? なに?」
芹澤さんは基本的に言いたいことがあればズバズバと言う性格だ。しかし今はオレに対して目をそらしたり、どこか悲しげな表情をしている。勇気を出したのか、両手に握りこぶしを作った直後、オレと向き合った。
「この前の……じゃなくて、まだ須藤が今みたいに変わる前にわたしさ……ひどいこと言ったよね? 笑顔の練習したほうがいいんじゃないとか、ずっとヘラヘラしてて馬鹿みたいとかさ。無愛想な態度も取ったし……嫌い、なんて言っちゃったりもした。ほんとに、ごめん」
「…………あぁ」
芹澤さんにとっては辛く重い沈黙が訪れる。しかしオレが話を聞き終えて思ったことは――なんだ、そんなことか、だった。
普通なら過去に受けた嫌なことをほじくり返されると、誰であれ少しは腹が立つものだと思ったが、今のオレは奇妙なことにむしろ感謝していた。
あの日芹澤さんにボロクソに言われなければ、極度の疲労と空腹により外に出て、あの黒いシルクハットと出会うことがなかったからだ。後から思えば、今までのできごとはこうして芹澤さんとデートをするという運命を辿るための、過程の一つだったのだろう。
とまぁそんな過去のことより、今芹澤さんが笑顔じゃないことのほうがよっぽど問題だ。オレは使うことがない恋愛に関する知識をなんとか引っ張り出そうとあれこれ考えていると、
「お詫びと言ったらなんだけどさ……その……変なことかもしれない、けど……」
「変なこと?」
芹澤さんは目を伏せながらもじもじとトイレを我慢するような仕草をしたあと、少し背伸びをしてどこか吐息を含んだ色っぽい声でオレに耳打ちをしてきた。
「今晩、両親家にいないからさ……二人で、部屋で……」
その言葉を聞いた瞬間「ハヒャア!?」と自分でもわけがわからない大声を発したあと、勢いよく飛び上がってめちゃくちゃな身振り手振りで拒否した。
「いっ、いいやいやいやいやいいややや、まだ年齢的というかお互いまだ知り合ってないというか、十分だと思えるくらい二人で過ごしてさ、お互い気持ちがその……通じ合ったらそのときは……よろしくお願いします!」
なにがよろしくお願いしますだボケェ!! 据え膳食わぬはなんとやらという言葉を忘れたのかこの玉なしスカタン野郎! せっかくの童貞卒業を棒に、いや如意棒にふりやがって、つくづく自分が嫌になる。
「わ、私もその時は……よろしくお願いします。そう、だよね、とりあえず今日は、ちゃんとお互いを理解するためにデートしよう。ごめんね、どこか近道をするつもりで魔が差したんだと思う。もう言わないよ」
いやもう一度言ってください神様仏様刀子様! 今度は、今度は間違えないから! だからオレにもう一度オレに、童貞卒業を、童貞卒業を、童貞卒業をオオオオオオオ!!!!!!
「……そうだ! 今から近くの自然公園でも散歩しない? この前近くを歩いてたら珍しい花が咲いてて、すごく綺麗だったの!」
「…………いいね、それ。今ちょっと体が鈍っているところだからちょうどいいかも」
「わかった。昼になったらその……サンドイッチを作ってきたんだけど、食べる?」
「食べる食べる超食べる!!」
駅の自動ドアを抜けると、真夏にしては涼しく穏やかな風が全身を突き抜けた。どこかから運ばれてきた草木の匂いを嗅ぎながら、別に夢でも悪くないと思えた。最後の三つ目は見ての通り、彼女が、できたことだ。
さっきも言ったが自分が一番信じられなくて、芹澤さんから告白された日から毎日、眠るときに夢なのか頬をつねることがすっかり習慣になってしまった。もう姿を表さなくなったが、ふとカルアのニヒルな笑みを思い出した。
「芹澤さんと付き合えたのも、アイツのおかげだよなぁ……」
「ん? なんか言った?」
「いや、なんでも。なんのサンドイッチ用意してくれたのかな〜って思ってた」
「ふっふっふっ、驚かないでね〜。じゃじゃーん! 甘辛く味付けした鶏の照り焼きサンドと………………」
芹澤さんの楽しそうに話す声をBGMにして、グルっと周りを見渡す。今までなんの気なしに見えていた風景が、まるで新品の絵の具でなぞられているように色づいている。ああ、世界ってこんなにも美しかったのか。
こんな時間が長く、長く、長く続けばいいと思っていた。
しかしオレは知らなかった。裏で糸を引いている、カルアの存在を。そして思い知ることになる。カルアの言った言葉、終点の意味を――
「これからくじ引きでバスの席を決めるぞ〜」
陽炎のようにゆらゆらと間延びした声で、砂原先生の提案で帰りのHRに修学旅行のバスの席を決めることになった。一人ずつ割り箸を取って、下に書かれていた番号に応じて決まるシンプルなものだ。
行き先は東京と広島で目的は関わったことがない人とも交流を深めるだとか、自然・環境学習などと表面上は謳っているが、多分九割ほどの生徒はそんなことはお構えなしに仲間内で思い出づくりに励むことだろう。
周りを見渡してみると、生徒の反応は様々だった。
「なっ、なんで窓側じゃねぇんだよォー! 席変われ席ー!」
「お前モブT子ちゃんと隣の席か? マジうらやましーッ! 席をゲットして、ついでにT子ちゃんのハートも奪っちまうのかお前はァー!?」
「……興味ないね」
「スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……スリー座席は嫌だ……」
「…………バスが不慮の事故で谷底に落ちますように……」
オレはくじを引いた結果、残念ながら芹澤さんとはだいぶ離れた席に決まってしまった。せっかく好きそうな話のネタを用意したのに……と落胆している表情を察したのか、HRが終わった直後に芹澤さんが駆け寄ってくれた。
「バスで席が離れたぶん、それ以外で一緒になればいいだけじゃん! そんな悲しい顔しないでよ」
ニカッと笑う芹澤さんを見て、いつの間にか落ち込んだ気持ちは吹っ飛んでいた。あまりの切り替えの速さに自分自身で驚きつつも、こうなったのも彼女がいたからなんだと心の底から実感する。
「……ありがとう。芹澤さん」
「ん? なんか言った?」
「芹澤さんの彼氏になれて幸せだって言ったんだよ」
「!?!?!!!! そっ、そんなこと言ったって、こないだの遅刻は許さないからね! まっ、んまぁ? これから私と一緒に修学旅行で食べるお菓子の買い物に付き合ってくれるなら、考えなくもないけど?」
「や、やっぱりあのとき内心では怒ってたのか……本当にごめん……」
「いやいやそんな怒ってるなんて大げさな……ってだからそんな悲しい顔しないでよ! で? 私と行くの? 行かないの?」
「もちろん! オレも――」
言いかけたその時、電流のようにカルアの放ったあのときの言葉が頭をよぎった。
――約束と言ってもね、簡単なことだヨ。この人間サンドバッグを必ず一日一回、時間は五分だけでいいから使用するだけ! 簡単でしョ?
「……? どうしたの? 急にぼぉーっとして」
「……あーごめんごめん。ちょっと寝不足かもしれない」
わざとらしくあくびをかく仕草をする。すると芹澤さんは眉にシワを寄せながら唐突に手を握ってきて、
「睡眠は大切だよ! 今日は行くのやめたほうが……」
「大丈夫大丈夫! たしかちょうど昨日発売された最新のお菓子が、近くのマイナスイオンに売ってたような……お先にー!!」
心配そうに見つめる芹澤さんを振り切って、オレは駆け足でマイナスイオンに向かった。別にそうする必要はないのに、まるで不安振り切るようにして走った。
「帰ってきたとき、まとめてやれば問題ないだろ……」
走っても、走っても、走っても、走っても、走っても、カルアと交わしたあの約束に対しての不安は、どうしても消えないままだった――

