――こんな小説を読むなんて、とんだ物好きだね、君は。
 ――まぁここで出会ったのもなにかの縁であり、たしかな()()()()だとしたら……最後まで付き合ってくれると嬉しいヨ。 
 ――ちなみに今僕が話してることは、これから始まる物語とは一切関係ないから、なんなら忘れてくれたって構わないヨ。でも、いつか必ず……。

  
 ――イタズラな鼓動が騒ぐとき
 
 ――ヒズミの埋め方不器用で
 
 ――優しさのクサリに縛られる男は

 ()()()()()()()()()――――

 
「……よっこいしょ。ハァ、疲れた」 
 オレの名前は須藤零、十七歳。どこにでもいる、普通の高校生だ。身長は170センチ、中肉中背、顔は平均的、好きな食べ物はハンバーグにナポリタンだ。
 強いて違う点を上げるとするなら、学級委員長をしているところと、すごくクラスメイトに頼りにされているところと、他の人より少しだけ()()()()()()()なところだ。
 今はなにをしているのかというと、担任の先生から職員室にある教科書やプリントを視聴覚室に運ぶ仕事を頼まれた。今日の授業で使うのだろう。これが中々に重かったのだが、トレーニングの一環として考えればいくらかマシに感じた。
 終わったら一言報告してほしいと先生に言われたので、オレは職員室に向かった。その道中、
「おーい、委員長〜」
「――ッ!!」
 後ろから人を小馬鹿にしたような、妙にヘラヘラとした声がする。どうして! わざと会わないように今日は登校時間を遅らせたのに! 呆然としていると、またしても後ろから「見つけたー!」や「ここか」などという言葉が飛んでくる。全員、揃ってしまった。
「今日はどうしたんスか? いつもより遅く登校して」
「早いの、だけが、委員長の、取り柄、へへっ」
 突然のできごとでわからないと思うので説明する。今目の前にいるコイツらは話しかけてきた順に、名前を佐藤、高橋、鈴木という。
 学校では悪い意味で知らない人はいないというほど悪名高い三人で、直接聞いたことはないが、なにやら悪い噂が後を絶たないのだ。
 佐藤は髪を金髪に染め、ガッシリとしたスポーツマンを連想させる筋肉質な体型。高橋は中肉中背で、三人の中では一番()()()()整っている。鈴木は指でつまめるほど大きな二重あごに、制服が張り裂けてしまうくらいの肥満体型だ。
 そんな三人に、オレは運悪く気に入られてしまい、今こうして絡まれているわけだ。そしてその絡み方が……
「委員長を見かけなかったとき、俺、けっこう寂しかったんだよ? わかる、この気持ち?」
「ご、ごめん、ね? ハハッ……」
 オレの肩に手を回す佐藤。落ち着け、落ち着くんだ。()()()()()()()で、笑顔で接すれば、事を荒立てぬように、波風を立てぬように、なにも考えず、ただ……
「じゃ、じゃあボクは、先生に仕事の報告を頼まれてるから。それじゃ――」
「まあまあまあまあまあまあ、そんな調子の悪いときに出るウンコみたいに固いこと言うなよ。一発だけだろ? 引き受けてくれたのは委員長じゃないか。()()()()()()()()
「――ウッ!!」
 ドクンッ とトランポリンで高く跳ね上がるような高い鼓動からはじまり、あとは一定のリズムで通常より速いリズムが続いていく。()()()()が、来た……。
「ちょうどこの場所なら先生も生徒も来ないッスからね。ここでやりましょうよ。ログインボーナス」
「いい、ね、それ、へへっ」
 三人は佐藤を一番うしろにして一列になる。準備運動なのか右腕をぐるぐると回している佐藤、次にポキポキと腕を鳴らしている高橋、なにもせずただ薄ら笑いを浮かべている鈴木。なまつばを飲み込み、冷や汗が垂れる。次の瞬間、
「グフッ!!」
 鈴木の拳が勢いよくみぞおちに直撃し、オレはうめき声を上げ腹を押さえながらうずくまった。休む間もなく、次は高橋の拳が飛んでくる。
「腹に〜イッパーツ!!」
「ザクッ!!」
「歯ぁ食いしばれよ委員長。オラァ!!」
「ドムッ!!」
 ドクンッドクンッドクンッ 耐えろ、耐えるんだ。たかが一発だけじゃないか。気にすることはない。ないんだ。そのはず、なのに……オレの笑顔が、崩れてきたじゃないか! 早く戻さないと、戻さないと……!!
 さっきまでの二人のパンチの力を一般的な成人男性ぐらいだとするならば、佐藤のパンチの力は、ズバリ熊である。朝ご飯をほとんど食べない習慣のおかげか、今まで吐いたことは一度もないが、それも時間の問題かもしれない。
「いや〜助かったよ。昨日ゲームしてたらボイチャで煽られてな。ぶん殴ってやろうとも思ったがそうはいかない。そこで――()()()()()()()()()の出番というわけだ」
「右に同じく」
「明日も、よろ、しく、へへっ」
「ハハハ……またね……」
 三人は食堂の方向へと消え去った。両頬が痛くなるくらいの笑顔で表情筋を酷使する。ふと先生に仕事の報告をしなければいけないことを思い出し、バレない程度にお腹を押さえながら職員室に向かった。
 さっきのことはゼンゼン、ゼーンゼン気にしてないから。もう一年以上ほぼ毎日続いていることだから、だから……。
 ガラリと引き戸をスライドすると、担任の砂原先生がパソコンに向き合いながらでコーヒーをすすっている。オレに気づいたのか砂原先生作業を中断し、
「いつも悪いな、助かるよ」
 体をオレに向けてぺこりと一礼する。オレはニッと変わらない作られた笑顔を貼り、
「いえいえ、頼りたいときはいつでも言ってください。大体、暇ですから」
 今ではすっかり慣れた敬語と笑顔。思えば小学生の頃はよくできていたなと感心する。当然といえば当然なのだが、やはり意識してないのと意識してるのとでは、だんぜん後者のほうが気苦労が多いものだ。 
「そうか……ところで最近、体調の方はどうだ? こないだも……な?」
 ――チクリと、心臓を針でつつかれた気分になる。そう砂原先生に訊かれるには心当たりがあるからだ。オレは理由あって他の生徒より、保健室に通う回数が多い。別に大病を患っているわけじゃないが、とにかく多いのだ。
「自分は大丈夫ですよ! ほら、よく言うじゃないですか。【若い時の苦労は買ってでもせよ】って。今が一番体力ありますから、使わなきゃ損ですよ!」
 空元気にしか思えない声の調子と笑顔で押し切ると、それ以上の詮索をやめてくれたのか優しく微笑んでくれた砂原先生。
「……そうだな、ありがとう。でももしきつくなったらすぐにでもおれに言えよ。力になるから。須藤は……()()()からな」
 ――ドクンッ と心臓がにぶく脈を打つ。血流に加速性能が付与(エンチャント)されたように全身がくらっとする。せっかく、治まりかけてたのに……!! 
 ハハハと笑いながら、オレの状態も知らずに肩を叩いてくる砂原先生。ふと時計を見ると、HR(ホームルーム)の時間まであと三分しか残っていないことに気づいた。
「ん? どうした? 苦しそうな顔して。やっぱり……」
「だ、大丈夫です! HR(ホームルーム)近いんで、失礼します!」
 顔を見られぬように俯きながら、先生と鼓動(アラーム)から逃げるように職員室をあとにした。オレは自分の教室である2ーBに早足で向かった。階段を駆け上がってすぐ左手に見えてくる部屋、ゆっくりと引き戸をスライドすると……
「おはよう!!!!」
「……ああ、おはよう」
 クラスメイト(ホモ・エレクトス)総出で、鼓膜を裂くような大声で挨拶をされる。やかましいんだよ猿共が!! 今オレは鼓動(アラーム)のせいで気分が悪いんだ、話しかけるんじゃねぇ! 耳から吐瀉物(ゲロ)を吐きそうだ。
「だいじょうぶ須藤君? なんか顔色悪いみたいだけど」
 自分の右隣の席にいるモブ子Aが心配そうな目つきで話しかけてくる。オレは努めて笑顔を繕って、
「だいじょうぶだよ。心配してくれてありがとう」
「今日も手伝いしてたの? 偉いね〜」
「ボクが好きでやってるだけだから――疲れたりはそんなにしないよ」
 また一つ、つまらない嘘をついた。次から次へとクラスメイトの女子が話しかけてくれる。この時点で少し途切れかけている笑顔に気づき、オレは無意識に元に戻した。そう、()()()に、だ。そこにオレの裏の感情が入り込む余地なんてないのだ。
「須藤君お願い! 数学の宿題全然できなくて困ってるの。写させて!」
 ――またお前か。出荷される豚みてぇな面しやがって。とっとと加工されてハムかベーコンにでもなっちまえよ。
「ハハハ。この前もボクに聞かなかった? 次はちゃんとやるんだよ?」
「須藤さん。ちょっと相談にのってもらいたいことがあって……時間ある?」
「……お安い御用だよ。次の休み時間でいい?」
「ありがとう! 須藤さんってすごく――優しいね」
 ――ドクンッ とまたも鼓動(アラーム)が反応する。しかしすぐに「お前らー」という間延びした声とともに砂原先生がHR(ホームルーム)を始めたおかげで治まった。オレは病み上がりの鼓動(アラーム)を気づかって、申し訳程度の音量で朝のあいさつをした。
 外面では何気ない表情を飾っても、内面ではまた鼓動(アラーム)が起こらないかという不安を抑えるのに必死だった。まるで借金取りが支払いの催促でドアを叩いてくるかのように、常にドアの前で怯える日々。
 いまかいまかとオレは、()()()()()()下校時間を待っていた――
 

 今日の授業は比較的集中して望むことができた。鼓動(アラーム)がひどいときはやむなく保健室に行って寝込んでしまう日もあった。今日職員室で砂原先生に言われた一言は、それに関してのことなのだ。
 今は四時限目が終わり昼休みの時間。いつもなら中庭に行って校舎の喧騒から外れたベンチに腰掛け、一人ゆっくりと今朝買ったコンビニ弁当を食べるのだが、今日は、
「チッ……」
 どうせ聞こえないので大きく舌打ちをする。いつもならいないはずなのに、ベンチにはいかにも陽キャと言わんばかりの女子グループ三人が占拠していた。絶対に校則違反であろう髪の色やピアスなどの装飾品。陽キャじゃなくて妖キャじゃないだろうか。
 食べながらときおり奇声を上げるようにして笑っていることから、恐らく昼休みが終わるまでここに居座る気だろう。オレは定位置での食事を諦め、あてもなく他に食べることのできる場所を探した。
 人とぶつかるリスクを気にせず前を向いて歩かない生徒(アホ)。手つなぎ鬼みたいにやたらと広がって歩く生徒(アホ)。通行路のど真ん中で立ち話をする生徒(アホ)。ここはサファリパークか? そんなことを考えながら歩を進める。
 …………
 …………
 ………… 
 しばらくして、気がついたことがある。結論から言おう――迷子になった。教室へ帰ろうにも、酔っぱらいのようにふらふらとめちゃくちゃな方向を進んでしまったため戻ることもできない。
 ついうっかり生徒(アホ)雑談(なきごえ)がうるさくて遠くへ遠くへと行ったことを後悔する。顔には出ないが、内心では少しずつ教室に帰れるだろうかと焦り始めていた。そんな途方に暮れていたとき、
「アイツって……」
 特にやましい理由があるわけでもないのに、とっさに木の陰に隠れてしまった。忘れられたようにぽつんと設置されている煤けたベンチで、一人黙々と昼食を食べている女生徒。あれは――芹澤刀子(せりざわとうこ)だ。
 髪はヘアゴムでポニーテールにしており、常に遠くを見ているかのようなぼんやりとした目つきをしている。性格はかなり控えめで、誰かと親しく喋っているのを見たことがなかった。俗に言うボッチってやつだ。
 顔を半分のぞかせながら考える。今彼女と関わる理由はない。それよりこの場を離れようと足を一歩後ろに引いたそのとき、
 クシャッ
「あっ……」
 風の吹きつける音と、それにより木々の葉っぱが擦れる音しかしないこの場所で、オレが空き缶を踏みつけた音はやけに大きく響いた。再び芹澤さんに視線を向けると、彼女は怪訝そうな表情でオレを見つめていた。
「あっ……やぁ」
「…………」
 ぺこりと一礼だけすると、彼女はすぐ弁当へと視線を落とした。本当ならこのまま見なかったことにして立ち去りたいが、一度でも目を合わせてしかもあいさつまでした以上、そのまま帰るのははばかられた。だから、
「刀子さん。よかったら一緒に食べてもいい?」
「……別に」
 ……それは、肯定的な意見として捉えていいのだろうか? 一人で考えても答えは彼女にしかないので、オレは都合のいい方を選ぶことにした。きちんと一定の間隔を空けて、芹澤さんの隣りに座った。
「……今日は、いい天気だね」
「……うん」
「こんな日は、学校をサボりたい気分だよ。知らないバスに乗って、知らない街に行って、そして知らない店で美味しいものを食べる。いいと思わない?」
「……うん」
「…………おっ、おー! 芹澤さんの弁当って、ハンバーグなんだ! 美味しそうだね! 上にかかってるのは、もしかしてデミグラスソース!?」
「………………うん」
 とりあえずの感覚で話しかけてみて後悔する。まるで人工知能と会話しているようだと考えつつも、芹澤さんの性格を理解しているのでなにも言えなかった。ふと食べる箸を止めた芹澤さんは、
「……ワタシ、須藤さんのこと嫌いだな」
「――! 唐突、だね……」
 あまりにもあっけらかんとした顔で言われたため、理解するのに数秒かかってしまった。自分で言うのもなんだが、オレは好かれることはあっても嫌われることはありえないと思っていた。それは表面上のオレの行動が証明しているからだ。
 だからこそ、芹澤さんの言葉は結構衝撃であった。
「……その、参考程度に聞きたいんだけど、具体的にどうゆうところが嫌い、なのかな?」
 芹澤さんはぽつりと、遠くの空を見つめるような目つきで、
「――無理をしてでも良い人を演じているところ、かな」
 …………スーッと周りの音が遠のいた気がした。芹澤さんの言葉だけがいつまでも耳の内側に張り付いてしまっようで、なにも言い返せなかった。――まごうことなき図星、だったのだ。芹澤さんは言葉を続ける。
「笑顔、もう少し練習ほうがいいんじゃない? 表情筋が打ち上げられた魚みたいにピクついてたし、普段使ってない証拠だよ。あと佐藤たちにひどいことされてもずっとヘラヘラしてるのはなんで? 見ていて本当イライラする。そんなにされてまで、優しい人になる価値ってあるの?」
「いやっ……そんな、こと、は……ウッ!?」
 ――ドクンッドクンッドクンッドクンッドクンッ!! 鼓動(アラーム)が体中を暴れ回っている。先生のときとは比較にならないほど痛く苦しい。オレは胸をわしづかみにして、倒れてしまいそうなのを必死に堪える。 
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
 ただならぬ事態を察したのか、さっきの間髪入れぬオレへのダメ出しから打って変わって優しい口調になる芹澤さん。
「なに、その……いつものことだから」
 オレは強がるようにニッと笑顔を見せるが、すぐにその余裕もなくなっていく。酸素を上手く取り込めておらず、全身にいきわたっていない。このまま鼓動(アラーム)が耳をふさぐ前に、オレは勢いよくベンチから立ち上がった。
「じゃ、じゃあ!、オレはそろそろ行くね!」
 止めようと手を伸ばす芹澤さんを無視してその場をあとにする。いったん保健室に……ってそうだ! ここが何処かわからないんじゃねぇか!
 この学校は開校百年以上と聞いたことがある。取り壊されていない旧校舎や、新築・改築された建物などが混ざりあった結果、方向音痴のオレからしたらまるで大型の迷路のように複雑怪奇な場所と化していた。
 足を引きずって歩きながら一人考え込む。さてこれから、どうやって教室に帰ろうか……。

  
「……結局、授業にまったく集中できなかったな……」
 一人ボソッと愚痴をこぼす。あのあと、さまよっていたところを清掃員に発見され事なきを得た。説教の一つは覚悟していたが、クラスメイトいわく心配してくれて授業どころじゃなかったそうだ。
 帰ってからすぐにオレは、担当の先生に了解をもらってやむなく保健室に行った。「またかい君」と保健室の先生から呆れ顔で言われてしまい、オレは肩身が狭い気持ちになった。五時間目は欠席し六時間目に出たが、成果は微々たるものだった。
「ハァ……」
 放課後の帰り道、雲の割合が多い夏の空を見上げながらため息をこぼす。階段を登り一人暮らしをしているアパートの鍵を開ける。なぜ一人暮らしをしているのか……それは()()()()()()
 夏の熱気でドアノブはやけどするほどに熱せられていて、それは部屋もまた同様だった。ブワッと生暖かい空気が顔にまとわりつくようで気持ち悪い。
「暑っつ……」
 歩きながら汗で湿った制服を脱いで、サッとTシャツ一枚とハーフパンツのみのラフな格好になる。エアコンを付けたい気持ちはあるが、我慢我慢、お金がないから。だから代わりに、
「よし、できてる」
 製氷機で作った氷を、ただでさえキンキンに冷やした麦茶に入れる。逆に冷やしすぎてかき氷を食べたときと同じ現象(アイスクリーム頭痛)になるが、今はこの喉を潤すことが最優先事項だ。
 グラスいっぱいに注がれた麦茶を、グイッと一気に流し込む……なんと気持ちの良いことだろうか。もちろん今日もそうなる……と思っていた。しかし、
「――あっ」
 ガシャンッ と、手に付着した汗で滑ってしまい、口に運ばれるより先にグラスは粉々に砕け散った。ハーフパンツとTシャツに水がかかり、破片がところどころ足の甲に突き刺さって真っ赤な血が流れる。
 ……数十秒ほどその光景を他人事のように見つめていた。普通なら痛みに悶え苦しんだり、水が飲めなかったことに対しての怒りが湧いてくるはずだ。しかし、頭の中には……
 ――無理をしてでも良い人を演じているところ、かな
 ――サンドバッグ委員長の出番というわけだ
「――ッッッ!!」
 芹澤さんと佐藤の言葉(セリフ)が再び耳の中で流れたその瞬間、まるで悪魔にでも取り憑かれたように自分が自分でなくなった。足の痛みを無視し、鼻息を荒げ、怪獣のようなうめき声を上げながら、部屋にある押し入れから()()()()を取り出す。
 それは長いこと使い古したせいで汗やツバで薄く白いシミが付いており、他にも赤黒く変色した体の中を循環している()()のシミも付いている。耳の中では相変わらず芹澤さんと佐藤の言葉(セリフ)が反芻し続けている。
 三十度近い気温にも関わらず窓とカーテンを閉め、壁際でアルモノを直立させる。すでにはめたボクシンググローブでファイティングポーズを取り、大きく深呼吸。そして―― 
「クソがアアァァッッッアア!!!!!!!!!!」
 ドゴンッ! と爆弾のような音を立てながら、パンチングボールはオレの拳を全体で受け止めた直後、後方へと反り返った。
 ジンと拳が痛むが、今のオレの脳内からはアドレナリンが、通勤ラッシュの時間帯のリーマンより多く出ているのでほとんど気にならなかった。
 一人暮らしをする理由――それはズバリ、誰にも邪魔されない()()()()()()である。
 築三十年以上、トイレ共同、六畳ワンルーム、駅からは一時間以上かかる、ただし家賃は三万と少しだけという超破格。音漏れを防止するため防音シートやマットも自腹で買った。もう、引き返せないところまで来ている。 
 最初の一発はほんの一瞬気持ちよくなっただけで、すぐに津波のように溜まったストレスを解消したい欲求に急かされる。おれはサーファーになったようにその波に乗り続けた。
「……なんでだよ。ただ優しいって、だけ、なのに。アイツら……なんでオレに話しかけるときは決まって頼み事ばっかなんだよ!! 少しは自分のことは自分で……やれってんだよ!!!!」
 絶えず衝撃が、拳から全身へ駆け巡る。――これが、いつもの習慣。日常生活で溜まったストレスをパンチングボールにぶつけること。これだけが鼓動(アラーム)をもっとも確実に鎮める手段なのだ。
「佐藤! テメェは、テメェは楽しいだろうなぁ! 生の殴る感触を知っててさぞかし、さぞかし、さぞかしさぞかしさぞかしさぞかし……気分が良いだろうなぁ!!」
 拳という名のミサイルが投下される。ギシギシと使い古したベッドのような音を立てながら、オレは荒い呼吸を整えた。
 遅くなったが、鼓動(アラーム)とはなにかを説明しよう。鼓動(アラーム)とはストレスを溜める我慢(ゲージ)基準線(ライン)を超えたとき、心臓が警鐘を鳴らすように勝手に鼓動が早くなる症状である。始まりは小学校六年生にまで遡る。
 当時ボクシング教室に通っていたオレは、下校中に偶然複数の中学生にイジメられている同級生を目撃した。考えるより先に体が動いた。ガラでもなくヒーローってヤツに憧れたのだ。
 ――楽勝だった。亀のようにノロイパンチを躱したら、最小限の動きでサッと懐に入り込み顎にアッパーカットを食らわせる。続いて後ろから飛んでくるパンチを素早く避けてから、みぞおちに突き刺すような一撃を食らわせた。
 その助けた同級生には深く感謝されたが、その頃からだと思う。オレが――()()()()()を感じたのは。もっと長く戦えたのではないだろうか? もっとたくさんの技が出せたのではないのだろうか?
 なんて思いが屋根に雪が積もるようにずっと続いて……やがて、暴力事件を起こすという形で穴が空いてしまうのに時間はかからなかった。鼓動(アラーム)とは、ストレス以外にも自身の奥底にある()()()()()()という欲望から生まれているのだ。
「クソが……クソがクソがクソがククソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソがクソが………………クソがァァァ!!!!」
 すでに痛覚は死んでいた。叫びすぎたせいか喉の中がサハラ砂漠だ。衝動的にオレは冷蔵庫から出してぬるくなってしまった麦茶を一気に流し込んだ。わかってはいたが、これっぽっちもおいしくない。
 喉が少し潤ったおかげで、ほんの少しだけ冷静になった。そうゆうときはいつもこう考えてしまう。本当に――ストレスを解消できているのかと。
 正直、ここ最近はストレス解消のために殴っているわけではなく、それがうまくいかないことへの怒りが元となって動いている。もっと感情的に、本能的に、衝動的に、盲目的にしたいのにそれができない。このやるせない気持ち、どうすりゃいいんだ。
 ――満たされない、満たされない、満たされない。
 だから、こんなパンチングボールなんかじゃなくて、皮膚があって、筋肉があって、骨があって、もっとリアルで、殴りがいがあって、外に出れば蜘蛛の産卵のようにうじゃうじゃといる……いや、今のオレにそれほどの勇気がない。
 話を戻すが、その暴力事件の被害者こそオレがいつかの日に助けた同級生であり、唯一の友達だった人だ。当然絶交されたが、オレは全然悲しいと思わなかった。決して強がりじゃない。だって――これで()()()()()()()()じゃないか。
 鼓動(アラーム)は先ほど紹介した他にもう一つ、優しいという言葉の響きも大きな要因の一つとなっている。なぜなら、その言葉は生きる上でどうしようもない()()()になっているからだ。中途半端に体裁を繕おうとする癖。
「オレだって……クラス全員に推薦されて、本当は嫌なのに学級委員長やって、好きでもないやつに笑顔振りまいて、軽々しく頼み事引き受けたりして、良いやつ演じて……馬鹿だと思うのに、どうして、どうしてどうしてどうして……!!」
 改めて、使い古した雑巾の汚れのように染み付いた癖の恐ろしさを実感する。はじめは母の言葉だった。
「――人と接するときは、いつでも笑顔で優しい人になりなさい」
 物心がつく前のオレは、たいして考えもせずに無邪気に母の言うことに従った。それが今は、ここまで自分を蝕むものになるとは、あのときの自分からしたら信じられなかっただろう。
「――無理をしてでも良い人を演じているところ、かな」
 またも芹澤さんの言葉(セリフ)再生(リプレイ)される。まるでそんな自分を変えることができないことへのバツを、無意識に自ら課しているようだ。オレは……なんて無力なんだ。
「まだだ……足り、ない。足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りな足りない足りない足りない足りない足りない足りない…………」
 再び標的(ターゲット)を殺すことだけを目的に作られたロボットのように、言葉を発しながらパンチングボールを殴り続ける。オレはそれを逆ゾーン状態(バーサーカーモード)と呼んでいる。――そこからの記憶は、あまり憶えていない。 
 途中バキンッ! となにかが壊れる音がしたが、キラーマシンと化したおれはまったく気づかなかった。いや――心の奥底ではわかっていたと思う。きっと、パンチングボールが壊れたのだろう。だとしたらこれでもう()()()だ。
 丈夫なのを買おうにも、とてもじゃないが金銭的な事情で手が出せない。仕方がないので、いつもネット通販で一番安いものを買っているのだが……オレは切に願った。
――()()()()()()()()()()()()が、あればいいのにと。

 
「………………腹、減ったな」  
 何時間経っただろうか。壊れたパンチングボールの横に寝転び、天井を見つめているうちに寝落ちしてしまった。冷静になったところで、徐々に腕がバーナーで灼かれるような激しい痛みと、溶けて沈んでしまいそうな疲労感を自覚する。
 はじめはのたうち回るほど痛く辛かったが、これも慣れだ。つくづくおれは順応性が高い人間だなと思う。おれは腹の虫が餌を欲していることに気づき、食欲に操られるがまま冷蔵庫へと歩を進める。しかしそこには……
「クソッ、なんにもねぇ……」
 そこにはキンキンに冷えてやがる麦茶しか置いてなかった。自慢じゃないが、オレはほとんど自炊をせず、コンビニ弁当か袋麺ばかりを口にしている不健康人間なのだ。
 放課後の帰り道の時点で買えばよかったと今更後悔する。しかし今から作るのもめんどくさい。このままなにも食べずに朝を迎えるのは飢え死にしそうなので、めんどくさがるより先に体を動かした。これから最寄りのコンビニに行くことにしよう。
 ふと時計を見ると時刻は午後九時を回っていた。そろそろ健全な高校生は、宿題をやっているかすでに寝ている時間帯だろう。サッと汗で蒸れた服から新しいのに着替えて外に出る。
 夏にしては珍しく冷たい風が全身にあたり、気持ちがいい。コンビニまでは歩いて五分もかからない。オレにとってはかなり大金の千円を握りしめ、コツコツとアパートの階段を降りた。
 明かりの消えはじめた住宅街を抜けると、でかでかとセコイマートと書かれた看板が見えてくる。中に入ると店員の「ぃらっしゃっせ〜」と間延びしたやる気のない声が聞こえてきた。
 早く済ませてしまおうと、適当に目に入ったカツ丼と唐揚げと鮭のおにぎりをチョイスする。合計金額は928円、高すぎて泣けてくる。
 会計を済ませたあと、残り残金が百円を切った財布を見つめた。ただでさえ中身が寒くて凍えそうなのに、それに追い打ちをかけてくるようにひときわ強い風が吹いた。
 親からの仕送りまで、あと一週間はある。ふと家にある食料でなんとか食いつなげれるのかと不安になった。その不安を振り切るように、少しだけ早足で帰っていた途中、
「……なんだ、これ?」
 アパートの二階へ登る階段の先に、なにか大きくて黒い筒状のようなものが見える。眼を凝らしてよくみると、それは黒色のシルクハットだった。誰かの落とし物だろうか。そんなことを考えていると、

 パチッ

「ヒッ!」
 ドサッと買い物袋が落ちる。信じられないことに、シルクハットのクラウン部分から明かりがつくようにして――眼が、開眼したのだ。金縛りにあってしまったのか、一歩も動けず眼を逸らすことができない。そしてさらに驚くことに、
「――コッチニ、オイデヨ」
「!?!?!!」
 その声はこちらに喋りかけてくるというより、直接脳内に声を送られているような錯覚を覚えた。しかしなぜかこれっぽっちも気味が悪いと思うことはなく、むしろオレの心はむしろさざ波のように安らいでいた。
 やがてその黒いシルクハットは、風もないのにゆっくりと浮遊し始めると、まるでUFOの円盤のようにフワフワと人間の高さを維持しながら飛行したのだ。オレはその様子をただジッと見ているだけだったが、ふと、
「どこに行くんだろう……」
 頭の中に一つの疑問が浮かんだ。そしてそれが波紋のように広がっていって、オレは黒いシルクハットのうしろをとぼとぼと歩き始めた。買ったカツ丼のことは、もうどうでもよくなっていた。再び明かりの消えはじめた住宅街を抜けると国道に出た。 
 そのまま真っすぐ歩き続けると、遠くからチカチカと明かりを運ぶ物体が二つ見えてくる。自転車だ。その進行方向は、ちょうどシルクハットが飛行している場所と一致している。このままじゃぶつかる――と思ったが、
「奢ってくれてありがとうございます先輩! なにかお礼させてください!」
「いいよいいよ。今日の活躍からしたら安いもんだ。それでもって言うんなら……今日もちょっとFPSに付き合ってよ」
「お安い御用です!!」
 黒いシルクハットは、楽しそうに談笑しながら自転車を漕ぐ人の胴体の部分を――音もなく()()()()()。そして最後まで存在を気づかなかった二人は、そのままオレと一瞬すれ違って走り去っていった。
 恐怖も驚きも感じなかった。思えばこの頃から徐々に考える力がなくなっていたのかもしれない。しばらく釣られるように歩き続けていると、二階の職員室以外は明かりが全て消えている学校が見えてきた。黒いシルクハットは校門前まで飛行すると、今度は大きく右に迂回した。
「こっから先って……」
 オレが通っている学校は、住んでいるアパートなどがある住宅街と、民家がほぼなく田んぼで埋め尽くされた田舎の境目のような場所に建っており、黒いシルクハットが向かっている方向はその田舎だった。オレは顔をしかめる。それには理由があった。
 その田舎には正面に広大な山々、両脇にはだだっ広い田んぼが続いており、その中心を長く太い道路が通っている。まるでモーセが海を割ったときのあの絵を彷彿とさせた。暗闇と静寂が支配する世界。
 思わず自分がこの世で一人だけだと錯覚してしまう。そんな馬鹿なことを思う間にも、黒いシルクハットはただ機械的に真っすぐ飛び続けている。
「あっ……」
 ふと視界に入った電柱の傍らに――青色のヒヤシンスの花束やまるでお供え物(とむらう)かのようにいくつかの駄菓子、缶ビールなどが備えられていた。こころなしか電柱には黒っぽい跡のようなものが見えなくもな……ってあ!
 つい気を取られてしまい、黒いシルクハットとの距離がだいぶ離れてしまった。走ってなんとか距離を縮め、さらに進んで一分が経過した頃、ずっと道路に沿ってまっすぐ飛行していた黒いシルクハットが、急に右折して一つの小さな小屋に入っていった。
「ここは……」
 その小屋は、農業を行う際に肥料や道具などをしまう場所に思えた。暗闇の中でも目立つほど外壁は傷だらけで、三角屋根の部分はボロボロに剥がれている。
 開いたドアから中の様子が見える。予想通り、そこには土臭い色んな形をしたクワや片手で持てるスコップ、種類別の肥料、手動タイプの種まき機などが置いてあった。
 しかし黒いシルクハットだけが闇に溶けるようにして消えてしまった。どこにあるんだ? と四畳ほどしかない小屋をキョロキョロと見回していると、
  
「――待っていたヨ。()()()()
 
「わぁ!!」
 いきなり背後から声が聞こえてきたため、オレは無様に地面の凹凸に足を取られて盛大に転んでしまった。前のめりだったため、口の中にわずかだが苦く泥のような味が舌に広がる。まずい。 
 ひょっとしてつけられていた? と考えたが、すぐその可能性はないだろうと否定した。夜で音が極限まで制限された時間、たしかに記憶上足音はオレ以外鳴らしていなかったはずだ。
 しかし――この女はまるで、瞬間移動をしてオレの前に姿を現したように思えた。少女は……()()()()()()()()()()()()()()
「……あんたは?」 
()()()()()に釣られてハルバルと! 僕のことは――カルアって呼んでヨ。ちょっと訳ありでね、旅をしている。理由は聞かないでくれ」
 女の格好は白のトレンチコートに、白黒のチェック柄のネクタイと、同じ配色のチェック柄のミニスカートという暑いと涼しいが殴り合いの喧嘩をしているような服装だ。もしかしなくても、前世はシマウマで確定だろう。
 モデルのようにスラリとした華奢な体型のわりには、ふっくらと胸に栄養が蓄えられている。しかし一番に目を引くのは、カルアという女は目元が隠れるほどに深くシルクハットを被っており、見えるのはニヒルな笑みを浮かべた口元だけだ。
「カルア……? オレをここに連れてきた理由を訊きたいところだけど、それよりそのシルクハット! まるで生き物みたいに開眼したり勝手に動いてたぞ! 挙げ句の果てに人の体がぶつかっても透過した! いったいどんな手品――ってちょっ! なにしてんの!?」
 カルアという女はなにを血迷ったのか、オレが話している途中に突如両肩を掴んでくると、スンスンと首筋や胸のあたりの匂いを嗅ぎはじめたのだ。慌てて突き放して距離を取る。
「うんうん、これは間違いないヨ。初めてだから不安もあったけど、これは確実だ。君からは、物語の匂いがしている」
「……ごめん、さっきから気になってたんだが、その、物語の匂いってなんだ?」
「ハハハ、言ってもわからないよね。いやー主人公君の脳みそのレベルで話さないといけないのは中々に難しくて、自分で言うのもなんだけど、君よりは確実に知識を持ってるし、なにより人生経験の差がうんたらかんたら……」
 な、なんだこの女は……言っちゃ悪いが、見た目からして歳はオレと同じ高校生に見えるし、なにより他人(ひと)を小馬鹿にするような言葉(セリフ)を吐く人に、人生経験の差などと言われるのは不快だ。
「からかいに来ただけなのか? だったら帰らせてもらう」
 踵を返し、そのまま小屋を出ようとした瞬間、初対面のカルアが知っているはずがない()()()()を言われ、オレは足と同時に呼吸も一瞬止まってしまった。
「帰っちゃうのかい? 残念だねぇ〜。たしか今日壊したのが、()()()()()()()()()()()()なんだよね? 親からの仕送り、まだ貯まりきってないのに大丈夫?」
 ど、どうして……その、ことを? オレは両親にさえパンチングボールのことを教えていない。自分からもらさない限りバレるはずがないのだ。それをどうして、カルアは……
「怖がることはないヨ。これから行く店には――君の()()()()()()()()
「欲しいもの? 店? 何を言って……」
 この狭い小屋の、どこにそんなものがあるのかと言葉を続けようとした瞬間、カルアは小屋の右角にある重さニ十キロは超えるであろう巨大な漬物石のようなものを、人が間に入れるほどのスペースまで動かした。
 よく見ると、石があった場所だけただの地面ではなく、マンホールのようにねずみ色をした蓋があったのだ。その蓋をどかすと、
「……抜け穴なんて、初めて見た」
「秘密の抜け道感があっていいでしョ? 店はこの地下だヨ」 
 カルアは無邪気な子どものようにそんな言葉(セリフ)を残すと、チラッと奥に見えたハシゴに掴まりそのまま降りていってしまった。
 その光景を呆気に取られて見つめていたのだが、「大丈夫だヨ、ホラ」とカルアが戻ってきてオレに向けて手を伸ばしてくる。相変わらず口元はニヒルな笑みを浮かべたままだ。

 なにかが――はじまりそうな予感がしていた。差し伸べられたその手を取ったら、今この鼓動(アラーム)に悩まされる現実から脱却できるような、そんな予感が……。
 なにかが――終わりそうな予感がしていた。それは上手くストレスを解消できない未熟な自分なのか、それとも……。
 オレはその手を、その手を、その手を――――