あれ、本格的に風邪引いた? と思ったのは、昼休み前のこと。
まだいける、と思ったのは午後になってから。
終業30分前で、我慢できずにあと何分……と時計を見ることを許さざるを得なかった。
「……依花ちゃん」
「……悪いけど、今日は付き合う気力ない」
時計がやっと希望どおりの時刻を示した時、桐野 亜貴が私の方へやってきた。
「そんなこと分かってる。何なら、午前中から既に具合悪そうだと思ってたけど、言っても聞かないでしょう。寧ろ、むきになって余計な仕事までしそうだから黙ってた。彼氏、馬鹿にしないで」
「バレバレで悪かったわね……って、かれ」
「悪いよ。社内恋愛バレて気まずいかもしれないし、俺に冷たいのはまあいい。終われば、いつもの可愛い君だし、そのギャップも結構好き。でも、体調悪い時すら頼ってくれないのは……すごく嫌だ。……送るよ」
「彼氏じゃない」「彼氏面しないで」そんな当然の主張も今日は弱々しくて、すぐに遮られてしまう。
「だっ、大丈夫だよ。そんなことしなくてもいい。ごめん、平気。本当に大丈夫」
意味不明な謎の設定まで、よくもまあ瞬時に追加できるものだ。
そのスキル、他に使うところたくさんありそうなのにと呆れてしまう。
でも、今日は熱のせいで怒ったり呆れたりするよりも変な感心が表に出てしまっている。
よくない兆候だ。
さっさと、一分一秒でも早く桐野 亜貴から離れなければ。
敵前逃亡を不甲斐なく思うより、今は引かないと(社内での)命に関わる。
「そんなふらふらで、よく言う。それ以上嘘言ったら、いくら俺でも怒るよ。ってかさ、そんな “大丈夫” って何度も言わないで。さすがに、男として情けなくてへこむ」
「は? ……いや、別に、私相手に男にならなくていい……」
「ん? 」
にこっと笑って、一歩距離を詰められる。
「……何ですか? 今度こそ、皆の前でお口塞がれたいんですか。いいですよ、俺は。あと、忘れてません? デ・ー・タ」
「〜〜っ、風邪移る……! 」
耳元で囁かれて、思いきりその胸を押した。
(……くそ。風邪め……)
弱いのは、熱のせい。
けして、私が女で桐野 亜貴が男で、何だかよく分からないけど、嫌な奴だけでもないような気がしてきたからでもない。
「それこそ、大丈夫だよ。ほら、行こう。歩ける? ……もう、そんなになるまで我慢することないのに……」
いつまで、背中を支えられていなければいけないのか。
「……本当に力入ってないじゃないですか。タクシー、呼びますから。家に薬あります? 何か食べられそうなものとか……なんか、全然なさそう。この人の家」
「……失礼だな……! っ、あ……今日はたまたま、ないかもしれないけど、桐野くんに関係ないじゃない。タクシーまでは乗るから、後は放っといて」
多くの社員が我先にと乗り込んだエレベーターでもそれは続いて、体調よりもその雰囲気を数分耐える方がよっぽど辛かった。
「あのね、先輩。付き合ってるの、今は俺の方なんですけど。ぐったりしてるくせに、偉そうに言わない。それともあれですか? 小動物が、怪我してる時に身を守ろうと威嚇してるみたいなもん? 随分可愛いことするんですね」
「……桐野くんって、女を馬鹿にした発言多いよね」
「そんなことはないですけど。言いませんでしたっけ。俺、女嫌いなんです。これまで、女性って思えたことなくて。……あ、ほら。タクシー来た」
(馬鹿なのは、私だ)
一体どうして、ほんの0.00000……1秒でも、そんなに嫌な奴でもないのかも、なんて考えが浮かんだんだろう。
(……なんで……)
「乗って。家の場所言えます? ……すみません、そこまで。近くなったら起こすから、寝てていいよ」
一緒に乗るの。
どうして、肩貸してくれるの。
どうして私、借りてしまうんだろう。
(熱、いよいよ上がってきたのかな……)
桐野 亜貴のことなんか知らない。
でも、私には、それだけが理由のはずはない。
ただ熱を言い訳に、それに気づかないふりができるだけだ。



