確かに我慢の限界だとは思ったけど、こんなふうにそれがぶち壊しになることを願ったわけじゃない。
いや、正確には相手がぶっ壊しにきた、というのが正しい。
「……」
どういうことかというと、ついに私は見てしまったのだ。
常々裏があるとは思ってたけど、まさかその場面に遭遇することになろうとは。
ううん、これはきっと故意に見せつけられたんだと思う。
――わんこが着ぐるみを脱いでるトコロ。
・・・
(……? 何か揉めてる……? )
廊下を歩いているとひそひそ声が聞こえてきて、思わず足を止めた。
ここを直進しないと、目的地の会議室へは行けない。
そろそろミーティングの準備をしなくちゃいけないし、まっすぐ前だけ見て早足で通り過ぎるしかない――けど。
(……念の為、確認だけ)
好奇心と臆病さが盛大に勝ってしまって、曲がり角の少し手前でそっと覗いてみると。
「……俺、言ったっけ。君のこと好きだとか、一回でも」
「……っ、そ、それは言ってないかもしれないけど。でも、ショートヘアが好きだって……だから、私」
(桐野 亜貴……と、隣のチームの……)
「話めちゃくちゃだよ。まず、“かもしれない”じゃなくて、絶対言わない。だって、別に好きじゃないから」
「……っ、でも……! 」
しまった。
いや、私のせいじゃないし、この先を通らないといけないのも私の意思は無関係だけど。
「それに俺、髪切ってとも、切ったら好きになるとも言ってないよ。好きな人のこと聞かれたから、ショートヘアだって教えただけ」
「……それって、やっぱり野木さんのこと? あれって、カモフラージュって噂だよ」
ごもっとも。
そうに違いないけど、ここで引き合いに出されても困る。
ううん、いっそ「やっぱり嘘でした」ってこの際認めて――……。
「……じゃあ、本気だったって広めなよ。俺は大好きな依花先輩のこと話してたつもりなのに、勝手に誤解して期待して、髪切って告白したら振られましたー、って」
(……な……きりの、くん……? )
脳内ですら、いつものように彼をフルネームで呼び捨てにするのを忘れた。
「……っ、最低……!! もういいよ。そんな人だとは思わなかった……! 」
確かに、髪を切ったのは自己責任だとは思うけど。
彼女をどう思うかに関わらず、桐野くんはそんなの望んでなかったのかもしれないけど。
――彼女を見下ろす、あの表情はなに。
とても、いつものわんこじゃない。
笑ってはいても、見覚えのある王子様スマイルとは似ても似つかない。
(……悪魔の顔だ……)
悪魔なんて見たこともないのに、実際存在しないものなのに。
悪魔そのものだと心底思うほど、そうとしか形容できない笑顔だった。
瞳はまったく表情がなく、冷たさしか感じないのに、口元は何かものすごく愚かなものと話すように嘘っぽく弧を描いて。
「えー……。最低はともかく、“そんな人”って、どんなだよ。俺のこと何も知らないだけじゃん。それでよく、好きとか判断したな」
わざとらしく頭を掻いて、やれやれと息を吐いた彼は、よく知られている「桐野くん」で――誰もいなくなった廊下で、そんな演技を再開したのは。
「……ね、そう思いません? 依花先輩」
「……っ」
――私が見てることに、最初から気づいてたから。



