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「依花さん」
微睡んでいるところに声を掛けられたのに、苛立つどころか余計に気持ちいい。
「そんなところで寝たら、風邪引くよ。そうじゃなくても、病み上がりなんだから」
「……ん……」
桐野くんのソファは、大きくて広い。
寝るには十分すぎるくらいしだし、背凭れも心地いい。
「亜貴、ね。気に入ったならよかったけど、ベッドはもっと寝心地いいと思うよ。……まったく、初めてのお泊まりで爆睡? 男として、喜んでいいのかな」
「……亜貴くん……」
ああ、そっか。
映画を観てるうちに、うつらうつらしてたのか。
「……緊張したから」
「えー。そうは見えませんけど? あー、はいはい。緊張して、眠くなっちゃったんですね」
そっちだって、また敬語に戻ってると指摘すると「本当はしっかり起きてんの? 」って苦笑しながら、髪を梳かれた。
「……泊まるの、初めてだから……」
「……そっか」
背凭れの正体は、亜貴くんの胸だった。
そう気づいたら、ドキドキの方が上回って微睡みから抜け出してしまいそう。
『ごめん。終電そろそろじゃない? ……って言わなかった』
『私も、そろそろ帰るねって言わなかったから』
それでも抗って目を瞑りながら、少し前のことを思い出す。
お互い時計をチラチラ見てるのをバレないように気を張っていて、それぞれの希望が一致していることに気がつかなかったのがおかしくて、しばらくずっと笑ってた。
(……楽しかったな)
「……ね、依花さん」
「ん……? 」
こんなに幸せな気分、いつぶりだろう。
あの時も多分、ドキドキして緊張して、それを迎えるのを喜んでいたと思うけれど。
「俺、絶対に依花さんのこと渡さないから。兄貴だろうが佐野だろうが、依花さんの初めての相手だろうが。誰があなたを好きだって言ったって、絶対に。……もし、依花さんの希望と違ったとしても渡せない」
「希望が変わることなんてないよ」
でも、きっと今ほどじゃなかった。
「もちろん、変わらないようにするよ。今日は、本当にごめん。もう二度と、あんな物分かりのいいこと言わない。……本当に好きなんだ」
「……うん」
誰にだって過去もトラウマもあるし、亜貴くんが抱えているものはより大きくて、数も多いのかもしれない。
それでも、私の為にそう言ってくれるのが嬉しい。
だから、私も。
「私も、もう諦めないから……」
人間不信気味なのは仕方ないとか、だから、態度がキツくなっちゃうんだとか。
恋愛なんて、とか――……。
「……恋愛、私にはできないと思ってた。ありがと……」
決めつけたり、諦めたりはもうしないでおこう。
急に雰囲気を変えるのは難しいけど、ちょっとずつ進んでいきたい。
まずは、亜貴くんとのことから。
それなら、きっと頑張れるから。
「……っ。それは、俺の台詞」
髪に触れていた手が、瞼の上に翳された気配がした。
大丈夫、目、閉じてるから。
見ない方がいいなら、このまま、開けないでいるよ。
「……兄貴の方が、大切にできる。そんなこと絶対、依花さんには思えない。 “俺の方が” なんて、初めてなんだよ。俺が、こんなになるなんて……」
「それは、私の台詞」
数は少ないけど、私にも過去はある。
だとしても。
――私をこんなふうにしたのも、桐野 亜貴という男の人だ。
瞼の裏で少し明るさが戻ったと感じた直後、再び影が落ちる。
「……俺といてね。だって、俺の方が……俺が、誰よりも依花さんを愛してる……」
亜貴くんは分かってない。
欠落していると言うなら、それは私の方だ。
私だって、誰かを愛し愛されたりというそこらじゅうで起きていることを、これまで実感したことがなかった。
あれ以来、私には別世界での出来事だと、わりと本気で思っていたのに。



