無言で食べたケーキは、しつこくない甘さですごく美味しい……美味しかったと思う。
「本当に手、何ともないんですか」
でも、桐野くんの態度がこれまでと違いすぎて、緊張しすぎていた私には、コーヒーは大して美味しいとは思えなかった。
「強く捻られたわけじゃないから。……痛くないのにね、つい痛って出ちゃうんだ。されたことよりも、それが情けなくて。いつまで引きずってるんだろう。学生時代の怪我なんて、大昔。日常生活にはそれほど支障なくて、幸運なくらいなのに……」
「……情けなくなんてないよ。俺からしたら、先輩は眩しいくらい。住む世界が違う人って感じで」
「何それ。誰がどう見ても逆だよ」
笑って軽く流したのに、桐野くんは首を振った。
「そんなことないよ。俺、本当に……」
「……っ、そ、そういえば! あの後、どうなったの。まさか、殴り合いなんてしてないよね」
私は今、何を遮ろうとしたんだろう。
自意識過剰だと、数十秒前の自分を責めるみたいに頬が一気に熱くなった。
「まさか」
「そ、そうだよね。あんなことくらいで、そんな……」
ほら、苦笑された。
桐野くんは面と向かって馬鹿にはしてこなかったけど、内心笑っているか困っているに違いない。
「いや。一発殴ったら、止まらなそうだから我慢した。さすがに周りに止められるほどの騒ぎになったら、いくら俺でもお咎めなしってわけにはいかないから」
「……は……」
後から思うと、すごく大きなヒントを意図的に発言に組み込んだんだと思う。
でも、この時は他に想定外のことが多すぎて、とても反応できなかった。
「でも……ごめんなさい。牽制はしちゃった。少なくともしばらくは、俺以外と社内恋愛はできないかも」
「……元々そうだったじゃない。どうして……」
どうして、そこまで。
彼女が嫌がらせをされて、見て見ぬふりや平気そうな顔はできなくても、「怒ってるふり」で済んだ。
そして、桐野 亜貴は――きっと、とても上手にそれができただろう。
「最初は、ものすごく怒ってたよ。佐野にも、囃し立てる奴らにも、依花先輩にそんなことした女にも。殴らないにしても、俺にできるすべてで、何をどう使えばどんな目に遭わせてやれるかなって、冷静に考えることができるくらい」
答えになっているような、なっていないような。
私の顔は後者に見えたのだろう、桐野くんは続きがあると口を開いた。
「こんなに腹が立ったの、いつぶりだろ。それも、カッとなって目の前が赤くなったような真っ黒に反転したような、何も見えない感じは初めてだ。……そう気づいたら、逃げてたことに向き合うしかなかった」
「逃げてた……? 」
桐野くんでも逃げないといけないことが、逃げてしまいたくなることがある。
そんなの誰だってそうなのに、「桐野 亜貴」もそうであるということが想像から欠落していた。
失礼な話だ。
自分の側からしか見えていなくて、見ようともしていなかった私は感じ悪い人間だっただろう。
『女なんか嫌い』
それなのに、どうして。
「俺、先輩が……依花さんが、好きです。本当はずっと前から、本気で好きになっちゃってました」
――私を、好きになってくれたんだろう。



