「――ねぇ、貴方の名前を教えて…?」
ある日、紀江は囲炉裏でお湯を沸かしながら、ずっと聞いていなかったことを聞いた。
彼は傍で困ったように額を掻きながら、
「……アタシは、特段決まった名前が無くてねぇ」
と視線を逸らした。
「えっ、なら私が付けてもいい?」
「……おや? むしろ付けてくれるのかい?」
狐は突然の命名式に、驚きと心躍る表情を紀江に向ける。
「勿論っ! ……えっと、ね。深い愛情で、いつまでも見守ってくれる存在で『深守』なんてどう……? なんて、ふふっ変かしら」
紀江は自分でも恥ずかしくなったのか、頬を赤く染める。だけど、狐にとってそれがたまらなく嬉しくて、何度も何度も呟いて確かめた。
「深守……アタシは、深守……。アッハハ嬉しいわ」
何百年と生きてきてその場しのぎの名前を使うことはあったけれど、深守にとってこれが初めてのちゃんとした名前だった。
深守は慌てて立ち上がり、障子を破ろうとしていた結望を既のところで抱きかかえると、
「今日からアタシは深守よ。呼んで頂戴よ結望~!」
「しんじゅ! すきーっ!」
「キャーッ! 結望が呼んでくれた! カワイー! アタシも大好きよーっ」
くるくると踊りながら喜びを表す深守に、紀江にまで幸福が移る。手にした温かい湯呑みと目の前の光景を見ながら、この幸せな時間がいつまでも続きますように――そう、願わずにはいられなかった。
そんなある日、紀江は一人里に呼ばれ出かけて行った。紀江は宮守に結望を預けて、鬼族の運び屋と共に社へと向かったのだ。
きっと旦那様に何かあったに違いない、紀江は思った。時々、文で状況を届けてくれることはあったけれど、呼ばれるなんてそうそうないからだ。
――それが悲劇の始まりだった。
結望が四歳になる頃、幸せは儚くも散ってしまったのだ。
深守は何も知らなかった。鬼族と笹野家の事を、何一つ知らなかったのだ。そして同じく紀江も、一瞬の事に何が起きたのかちんぷんかんぷんだった。
「どういうこと……っ!? あの子はどうなってしまうの……!」
実体は飲み込まれ、意識だけ少し残る暗い暗い闇の中で紀江は絶望感に苛まれた。
私は死んでしまったの……? 旦那様に、食べられて……?
理解に苦しんだ。一体、どういう事なのか。
何より、残された結望がこれからどうなるのかもわからない。外の世界では深守さんも私の死に混乱している……。紀江は朧気ながらも感じ取った。
結望を助ける手段も途絶えてしまった深守は、自身の無知を嘆いていた。紀江を守る事が出来なかった。自分可愛さに結望を攫う勇気も出なかった。
こんな狐を二人は許してくれるのだろうか――と。
そこで紀江の意識もぶつり、と切れてしまった。
ある日、紀江は囲炉裏でお湯を沸かしながら、ずっと聞いていなかったことを聞いた。
彼は傍で困ったように額を掻きながら、
「……アタシは、特段決まった名前が無くてねぇ」
と視線を逸らした。
「えっ、なら私が付けてもいい?」
「……おや? むしろ付けてくれるのかい?」
狐は突然の命名式に、驚きと心躍る表情を紀江に向ける。
「勿論っ! ……えっと、ね。深い愛情で、いつまでも見守ってくれる存在で『深守』なんてどう……? なんて、ふふっ変かしら」
紀江は自分でも恥ずかしくなったのか、頬を赤く染める。だけど、狐にとってそれがたまらなく嬉しくて、何度も何度も呟いて確かめた。
「深守……アタシは、深守……。アッハハ嬉しいわ」
何百年と生きてきてその場しのぎの名前を使うことはあったけれど、深守にとってこれが初めてのちゃんとした名前だった。
深守は慌てて立ち上がり、障子を破ろうとしていた結望を既のところで抱きかかえると、
「今日からアタシは深守よ。呼んで頂戴よ結望~!」
「しんじゅ! すきーっ!」
「キャーッ! 結望が呼んでくれた! カワイー! アタシも大好きよーっ」
くるくると踊りながら喜びを表す深守に、紀江にまで幸福が移る。手にした温かい湯呑みと目の前の光景を見ながら、この幸せな時間がいつまでも続きますように――そう、願わずにはいられなかった。
そんなある日、紀江は一人里に呼ばれ出かけて行った。紀江は宮守に結望を預けて、鬼族の運び屋と共に社へと向かったのだ。
きっと旦那様に何かあったに違いない、紀江は思った。時々、文で状況を届けてくれることはあったけれど、呼ばれるなんてそうそうないからだ。
――それが悲劇の始まりだった。
結望が四歳になる頃、幸せは儚くも散ってしまったのだ。
深守は何も知らなかった。鬼族と笹野家の事を、何一つ知らなかったのだ。そして同じく紀江も、一瞬の事に何が起きたのかちんぷんかんぷんだった。
「どういうこと……っ!? あの子はどうなってしまうの……!」
実体は飲み込まれ、意識だけ少し残る暗い暗い闇の中で紀江は絶望感に苛まれた。
私は死んでしまったの……? 旦那様に、食べられて……?
理解に苦しんだ。一体、どういう事なのか。
何より、残された結望がこれからどうなるのかもわからない。外の世界では深守さんも私の死に混乱している……。紀江は朧気ながらも感じ取った。
結望を助ける手段も途絶えてしまった深守は、自身の無知を嘆いていた。紀江を守る事が出来なかった。自分可愛さに結望を攫う勇気も出なかった。
こんな狐を二人は許してくれるのだろうか――と。
そこで紀江の意識もぶつり、と切れてしまった。

