――リリアンはずっと、ひとりぼっちだった。

「お嬢様!そこは違うと言いましたよね!?」
「ご、ごめんなさい……」

謝罪を口にした直後、パシッと手の甲に痛みがやってくる。リリアンの家庭教師でもある、マダムミランダはこれ見よがしに大きく溜息をついた。

「お嬢様は要領が悪く平凡な人間なのですからその分、人よりも努力しなければなりません」
「はい……」

冷たい言葉と冷たい視線が突き刺す。毎日のように言い聞かされている言葉は、リリアンの心に深く染み付いて、当然のように受け入れるようになった。

「そうやって涙を流して同情を買おうとしても無駄ですのでやめてください」
「そんなつもりじゃ、」

パシッ。風を切るようなその音をミランダが鳴らす度に、肩が震える。言い訳をするなと言われているのだと気付いて、リリアンはすぐに「ごめんなさい」と謝った。


――リリアンはずっと寂しかった。

物心ついた時に母親は既にいなく、父親も仕事に付きっきりだった。

「お嬢様に話しかけられたんだけど、忙しい時にやめてほしいわ」
「いつも下を向いてばかりいて陰気臭いのよね。すぐ謝るからまるでこっちが悪者にされてるみたいで気分も悪いし」
「奥様が亡くなられたのは、やっぱりお嬢様のせいじゃないかしら。伯爵様も完全放置じゃない」

誰とも話すことがないまま過ごす毎日。囁かれる噂話に胸を痛めても、いくら息苦しくても、誰もリリアンを気遣ってくれる人はいない。
勇気を出して使用人に話しかけてみたこともあったけれど、眉を顰めて鬱陶しがられるだけだった。
その度にリリアンは思い知らされる。
自分は誰からも必要とされていない、嫌われ者なのだと。


――リリアンはどこかへ逃げてしまいたかった。

ある日「これを明日までに全て終わらせてください」とミランダから出された宿題を、終わらすことができなかった。
遅くまで起きて勉強していたけれど、途中で寝てしまったのだ。

「どうしよう……きっとまた怒られるわ」

金切り声で怒鳴られながら、短鞭で叩かれる未来を想像するだけで身体が竦む。
嫌だと言えば余計怒らせてしまうから、耐えるしかない時間。それがもうすぐ近づいていた。

リリアンはこっそり外に出た。
普段は授業の時以外、部屋にこもってじっとしているだけだから、扉の向こうには誰も居なくて抜け出すのは簡単だった。

特に目的があったわけじゃない。家庭教師にも、使用人にも、実の親にすら必要とされていない人間だ。そんなリリアンに行く場所もなかったし。
ただ、少しだけ逃げてしまいたいと思っただけだ。

「居た?」
「こっちには居なかったわ。はぁ、ほんと面倒臭い。もうすぐ授業だってのに、どこ行ったのよ」
「……!」

苛立ちが滲んだ声がリリアンの耳へと届く。どうやら部屋に居ないのがバレてしまったようだ。
もしこのまま見つかったら、無理矢理連れて行かれるだけじゃなく、逃げようとしたことまでもミランダに告げ口されるだろう。

慌てて辺りを見渡せば、小さな馬車が止まっているのが目に入った。
木製で出来たその馬車には荷物が沢山積んでいて、天上は白い幌で覆われている。
その奥へとこっそり乗り込んで暫くの間、隠れることにした。

次ミランダに会ったら、宿題を終わらせられなかったこと以上に怒られるであろうと理解していながらも、リリアンは戻ることはしなかった。



***



「いたっ!」

少し隠れるだけのつもりが寝不足だったせいで、いつの間にか眠っていたらしい。強打した頭を擦りながら、リリアンは顔をあげた。

あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。時計はないから、時間が分からなかった。
リリアンがいる場所は薄暗く、更に荷物の後ろに隠れていたおかげで、今まで見つからずに済んだようだった。

「もう先生は帰ってくれたかしら」

諦めてくれていればいいんだけど。息を潜めながら馬車の入口に耳を近づけた。辺りからは人の声は聞こえない。
安心しながら、垂れ下がっている布を捲って外を覗き――リリアンは驚愕した。

「ここは一体どこなの……!?」

慌てて外に飛び出る。少し高い段差のせいで転びそうになったけど、今はそれどころじゃなかった。

そこはもう伯爵家ではなかったのだ。

確かに逃げたいとは思ったけれど、本当に逃げようとしていたわけではなく、ほんの出来心のようなものだった。
軽い気持ちでしたことが、まさかこんな事になるなんて考えもしなかった。

「どうして私はいつもこうなのかしら……」

リリアンは呆然と立ち尽くす。言われたことも上手くできずに失敗ばかり。鈍臭くて、面倒事ばかり引き起こす、価値のない人間。

それがリリアン・ハーシェルだ。

「……!」

ザリッと地面を踏む音が聞こえる。物陰に隠れ様子を伺うと、席を外していた御者が戻ってきたようだった。

声を掛けるために一歩踏み出した直後、御者が持っている鞭が視界に入り、リリアンはその場から動けなくなった。
ミランダが使っているより長く大きい鞭は、きっと叩かれたら物凄く痛いだろうことが分かって。

そうしているうちに馬車が動き出してしまう。リリアンは「ま、まって……」と既に遠くに見える馬車へ手を伸ばしたけれど、その声が届くことはなかった。



***



それからリリアンは歩いた。
右も左も分からない場所を進むことに不安もあったけれど、初めて目にする景色は新鮮で心が弾んだ。
リリアンは楽しかった。だからきっとバチが当たったのだ。

「あ?なんでこんな所にガキが居やがんだ」

人通りが全くない路地裏。知らずうちに入り込んでしまったリリアンは、荒々しい物言いに身体を跳ねさせた。
声の方へ目を向けると、自分の何倍も大きな男が数人、まるで品定めをするかのようにリリアンを見ていた。

「ありゃあ貴族のガキじゃねぇか?」
「ハッ、貴族様があんなみすぼらしい格好なわけないだろ」

ハハハッと大声で笑われて、リリアンは下を向きながら手をぎゅっと握り締める。
やっぱり誰の目から見ても嘲笑の対象で、どこに居てもリリアンを歓迎してくれる人なんていないんだと理解した。
少し前まで明るかった気持ちが一気に暗く沈む。
目の奥が熱くなって、視界が滲んだ。

「そこのお前、なにか金になるもんでも……うわっ!」

にやにや笑いながら近づいてきた男がリリアンに手を伸ばした刹那――男が突然吹っ飛んだ。
顔をあげると、そこには自分と変わらない身長の子供が、リリアンを守るように立っていて。

後ろ姿で顔は見えない。全身を包んでいる黒いローブがふわりと風に揺れて、綺麗な銀髪を一瞬だけ露にした。

「大丈夫」

ただ一言。リリアンに呟いて、彼は目の前の大人たちに向き合った。