「ハァ……」

馬車が動き出してすぐ。クロードは深く重い溜息を吐き出した。
思い出すのは数十分前のことだ。あろう事か、彼女の前で自分はあの男の手を払ってしまった。みっともない行動だったと自分でも分かっている。
だけど普段なら自制が利く感情も、あの時ばかりはどうしても我慢できなかったのだ。

「クソッ!」

クロードは拳を自分の膝へと打ち付けながら、唇を噛み締める。そうでもしないと、悔しくて頭がおかしくなりそうだった。
彼女が別の男を好きなことはまだ我慢することができた。だけど……自分がずっと大事にしていた約束までも、他の男に塗り替えられていたと思ったらもう耐えられなかった。

『約束したんです』

そう言ってはにかむ彼女が愛しいと感じる反面、酷い女だとも思った。
どうしてアイツとの約束は覚えていて、自分との約束は忘れてしまったのかと、出来ることなら問い詰めたかった。
そんな中で当然の顔をして彼女に触れようとしたユリウスに、クロードは考えるよりも先に手が出てしまったのだ。



「オリヴァー少し相手をしてくれ」
「はい?」

公爵家へ帰宅してすぐ、クロードは執務室へ向かった。今日やるべき仕事がまだ残っていたからだ。けれどいくら書類と向き合っても集中できなく、結局彼は苛立ちを発散させる為に立ち上がり剣を手に取った。

「何かあったのですか?」

そんなクロードにオリヴァーは演習場へ向かいながら、遂に問いかけた。
朝からずっと上機嫌でデートを楽しみに出掛けていった主が、憂鬱な顔で帰宅した。まさか失敗したのでは、と予測したオリヴァーは慎重に言葉を取り出す。

「もしかして……もう振られたのですか?」
「振られてない!」

全く配慮のないオリヴァーの言葉をクロードは即座に否定する。リリアンとの距離は以前よりは格段に近づいたはずなのに、近付けば近付くほどに余計に渇いて仕方なかった。

「こういうのは久しぶりですね」
「そうだな」

もう遅い演習場には誰もいなかった。クロードとオリヴァーの剣がぶつけ合う音だけが静かに響く。
オリヴァーはもう長いこと剣を握っていないはずなのに全く腕は衰えておらず、涼しい顔でクロードが振るった刃を防いだ。

「補佐のままにしとくのは惜しいな」
「そうですか?私は結構気に入ってますよ」

オリヴァーが笑いながら一歩踏み込む。本来ならば主に剣を向けるなんて有り得ないことだけれど、躊躇いはしなかった。クロードが命じたことでもあるし、何より彼の実力を信じているからだ。
想像通りクロードは難なく受け止め反撃のために前進する。目の前の男の懐へと入り込めば、目が合ったオリヴァーはにやりと口角をあげた。

「昔は剣の練習なんてしたくないって泣いてばかりいましたのに、強くなりましたねクロード様も」
「おい!記憶を改竄するな!」

練習したくないと言っていたのは事実だが、泣いてはいないとクロードは反論する。もうとっくに忘れてくれていると思っていたのに未だに覚えているなんて。
早く忘れろと言いたかったけれど、そんなことを口にしたら余計この従者は記憶に残すだろう。クロードは心の中で考えるだけで我慢することにした。



 ***



「はぁ……はぁ……降参です」
「おいまだ決着はついてないぞ」
「公爵様の体力と私の体力を一緒にしないでください……」

数十分後、先に白旗をあげたのはオリヴァーの方だった。朝から一日中仕事をした後にクロードの剣の相手をさせられて、体力が先に限界を迎えたのだ。
クロードは不完全燃焼感を感じながらも渋々と刃を鞘に収めた。

「それで、気は済みましたか?」
「ああ。付き合ってくれて助かった」
「それなら何よりです」

モヤモヤしていた頭の中はすっかり晴れていた。明るくなったクロードの表情に、疲れた身体に鞭を打った甲斐があったとオリヴァーは安心する。

「そういえば公爵様が嫌いだった剣の授業を真剣に受け始めたのも、彼女がきっかけでしたね」
「戻って仕事を片付けるぞ」
「……本気で言ってます?」

来た道を戻り始めた主の正気をオリヴァーは疑った。オリヴァーの問いかけに何も答えず、クロードは歩きながら空を見上げる。

真っ暗闇に包まれているそこは星一つ見えない。
代わりに、瞼の裏に古い記憶が映った。


『もう泣き虫はやめるから、だから――』


それはいくら時が経とうとも色褪せることなく、いつだって鮮明に。