もう熱を持たない手を必死に握りしめると、細く冷たい指が震える手を覆い尽くす。彼は何も言わないけれど、震える肩を宥めるようにゆっくりと私の背中に腕を回して抱き寄せた。
懐かしい香りが全身を包む。
次第に消えかけていた雑音が一斉に体内へと注ぎ込まれる。人の波、祭り囃子の中で、もう聞けくことのできぬ優しい声を聞いた。
「さようなら」
その言葉と同時に目を開くと、見慣れた天井がすぐ目の前に現れた。ジメジメとして鈍い光を溢す窓、押入れから出されたばかりの積まれた本、テーブルに無造作に置かれた鍵、履き潰したパンプスに新品のビニール傘。
四つん這いになり押入れの中を覗くと、本の下に埃の乗った箱を見つけた。どうしても見つからなかったそれは、あっさりとそこから取り出され、埃のかかった箱とは全く違う、本来の美しさのままの万華鏡が在った。
全身を包む懐かしい香を忘れぬうちに、抱き寄せる。
水沢相真は大学一年生の冬に事故に巻き込まれて帰らぬ人となった。居眠りをしたトラックの運転手は冬の道路の恐ろしさも知らず、彼の身体をいとも簡単に打ち上げた。きっと彼は私に申し訳ないと考えていたのだと思う。彼は、とても律儀な人だったから、最期に何も言わずに逝ってしまった事を後悔して、さよならだけを言いに来たのだ。
全て白昼夢であったのだと、友人や家族はそう言うだろう。それでも握られた万華鏡は先程彼と手にした、まだ新品の万華鏡に違いないのだ。
彼は万華鏡のように、きらきらと移りゆく花のようだと思った。
それから何度もあの頃を思い出し、万華鏡を覗き込んだ。
さようならは後もう少しだけ、聞こえなかった事にしようと思う。
