朝から無駄に長い髪を梳かす。この時期はベタベタと肌にまとわりつく感触が不快感を与える。
櫛で髪を梳かす度に、昨日の事を思い浮かべた。透き通った空気、嫌じゃない本の匂い、そしてあの彼。あの時どうしてあんな事を言ったのだろう。何かが気になる。でも、彼の名前一つ知らない。
気づけば乾かしていたビニール傘を手にあの場所へ向かっていた。歩く道や草花が昨日よりも生き生きしているように思えた。
路地裏を行くと同時に、昨日の彼の言葉を思い出した。父が体調を崩していると言っていたという事は、今日は彼ではない可能性もある。迂闊だったと沈む気持ちとは裏腹に着実に近づいてくる古書店。
昨日よりも手慣れた様子で扉を扱う。そっと奥を覗けばカウンターからガタガタと物音がする。扉を閉める音につられてさらりと細い身体が現れた。
「あれ、またきてくれたんですね」
そう言うとわざわざこちらへ出向いて挨拶をした。
浅く深呼吸して彼を見ると、またあの目で私を見つめている。何故か懐かしかった。目頭が熱い気がする。
「昨日、名前を聞きそびれちゃって。私は琴葉と言います」
「ああ、名前。そうですね、まだ知らないんですよね。相真です。相真でいいですよ、琴葉さん」
私の名前を呼ぶ声も、彼の名前も全てが私の頭を埋め尽くす。何かを知っているのに、何も知らない。昨日の探し物のように、どうしても見つからない。
「せっかくなので、こっちでお話しませんか。琴葉さん」
こじんまりとして古びた建物、人通りのない場所なのであまりお客さんは来ないという。細くて冷たい手につられるようにしてカウンターに並べられた椅子に腰をかける。
「相真くん、大学生ですか?私とあまり変わらなそうですけれど」
「大学1年の歳ですよ、琴葉さんは?」
「私は、」
私は大学2年生です。そう言いかけて口を噤んだ。
「私も大学1年です」
最近の私はいつもこんな状態で、何故か違う事を口走ったりしてしまうようだった。大学の友人からは、もう2年生のつもりなの?と笑い返されたものだ。
幸い今の発言は彼には気にも留めないことだったらしく、「一緒ですね」
とふんわりと笑うだけだった。
