夜会を乗り切ってマリアンヌは、少し肩の荷が降りた気分になっていた。

 そのあとにも婚約者であるリカルドとは何度か顔を合わせているけれど、もともと大人しく口数が少ないエスティーナ。会話の主導権をリカルドに渡し、儚げに笑っていればすんなりと時は過ぎ、疑われることはなかった。

 季節は変わり、秋。
 エスティーナはまだ見つかっていない。今のところ無事を知らせる手紙が一通届いただけだ。

 手紙には「幸せに暮らしているから探さないで欲しい。我儘でごめんなさい」と書かれていた。間違いなくエスティーナの文字で書かれた手紙を見て、エレーナ夫人は三日間寝込んだ。


※※
 紅葉が始まった本宅の庭を、マリアンヌは歩いている。涼しい風が頬を撫で、上質なワンピースの裾を少し巻き上げていく。

 数ヶ月過ごすうちにエスティーナと一緒に消えた庭師の話もリリから聞いた。名前はロニー、幼馴染のように育った二人は、人前でこそ主従の立場を超えなかったけれど、二人だけの時は名前で呼び合っていたらしい。大人しい性格で社交界になじめず落ち込んでいたのを励ましていたのもロニーだったらしい。

 周りの使用人も二人の気持ちには気づいていて、時折忠告もしていた。それに対し、二人は真摯に耳を傾け親密になることがないよう一線を引いていた。
 それなのに、こんな大事になるとは誰が思っただろう。

 エスティーナとロニーの秘めた思いは皆の想像を超えるもので、二人は全てを捨ててでもそれを守ろうと覚悟を決めた。

(まるで演劇のようね)

 話を聞いた時、マリアンヌは、ほう、と息を吐き自分達の思いを貫いた二人に心の中で拍手した。

 移ろう季節を感じながら、「このまま見つかることなく過ごさせてあげたい」と本音が口から零れる。だから、名前を呼ばれた時は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

「マリアンヌ、ここにいたのか」
「ジークハルト様、どうされたの?」
「今日は、リカルド殿との茶会だろう。挨拶をしに来たのだが」
「なんでも急用ができたとかで、時間をずらして欲しいと連絡があったわ。あと一時間もすれば来るはずよ」

 そうか、と言いながらジークハルトは髪を掻き上げる。その額には僅かに汗が滲んでいた。リカルドとマリアンヌが二人でお茶をしていると思うと、居ても立ってもいられず馬をとばして来たのだ。

 並外れた観察眼を持つマリアンヌが、そんな思いに気づかないはずがない。毎夜のように一緒に晩酌をしながら、日増しに強くなるジークハルトの瞳に浮かぶ恋慕の情に、戸惑いながらも胸を熱くした。

 しかし、それは許されない恋。
 エスティーナと庭師のように手を取り合い、二人で生きて行けたらと思うも、ジークハルトは嫡男。捨てる物が余りにも多すぎるし、自分の為にそんなことはして欲しくない。だから、マリアンヌはジークハルトの熱い視線を受け流し、自分の思いを固く封じている。

「少し散歩をしないか」
「ええ、いいわよ」

 サラリと応える。それが特別なことではないように。
 リカルドとのお茶会は本宅の庭。ここはマリアンヌの素性を知らない者ばかりなので、二人の足は自然と人のいない裏庭へと向かう。

「エスティーナ様はまだ見つからないのね」
「あぁ、母が憔悴しているのでせめて居場所だけでも分かればよいのだが」
「でも、居場所が分かれば迎えに行くのでしょう?」

 ジークハルトは立ち止まり、雲一つない空を見上げた。漆黒の髪がさらりと揺れ、マリアンヌは思わず手を伸ばし触れたくなる。

「以前はそのつもりだった。平民と一緒になっても苦労するだけだと。でも今は、それも一つの生き方ではないかと思う」

 言外に含まれた意味が分からぬマリアンヌではない。でも、すぅ、と息を吸うと、からりとした声を出す。

「そうかも知れないけれど、子爵家としては大丈夫なの? 確か特産品の羊毛の流通にリカルド様のご実家が関わっているのよね」
「確かにその問題はある。だが、エスティーナの気持ちの方が大事だと……」
「貴族の立場より?」

 言葉途中で遮られ、ジークハルトは唇を噛む。貴族の婚姻は家同士の繋がり。一人の思いによって左右されるべきでない。ジークハルトが騎士を諦め家を継ぐように、エスティーナも秘めた思いに蓋をして嫁ぐのが道理というもの。

 しかし、どうしてそれをマリアンヌが言うのかと思う。ジークハルトの気持ちを知りながら、それを微塵も表に出さない姿に苛立ちさえ覚える。
 そして、その歯がゆさが、一つの決意へと移ってゆく。
 ジークハルトは、真剣な眼差しでマリアンヌを見つめ、その名を呼ぼうとした時。

「エスティーナ様、リカルド様が来られました」

 リリが少し離れた場所から声を掛けてきた。

「分かりました。すぐに参ります」

 さっとエスティーナの顔になってマリアンヌは答え、踵を返しリリの元へ向かう。

 でもその足は、一歩踏み出したところで止まってしまった。ジークハルトがマリアンヌの細い腕をつかんだのだ。

(振り返ってはいけない)

 ジークハルトがどんな瞳で自分を見つめているのか。きっとその目を見てしまうと、自分の中の箍が外れてしまう。
 だから、マリアンヌは動けないでいた。一歩踏み出すことも。振り返ることもできず。

「マリアンヌ、俺は……」
お兄様(・・・)私、行かなくては」

 か細い声に、ジークハルトの手が緩む。マリアンヌはさっと腕を引き手をほどくと、そのまま振り返らずに走り出した。

(胸が熱い)

 ぎゅっと胸元を掴む。今まで恋する役は何度もしてきた。頬を染め、潤んだ瞳で演じてきた。
 でも、それら全てが薄っぺらく思えてしまう。

(ほんとの恋とは、こんなにも苦しいものなんだ)

 瞳に浮かんだ涙を必死にこぼさまいと耐える。そして、走るのを止めゆっくりと歩き出した。