「奈々ちゃん。明日から学校だけれど、ちゃんと行けそう?」

 紅茶から立ちのぼる湯気の向こうで、ママが、わたしのことを見つめてる。
 こんな心配そうな顔をさせちゃってるのは、わたしだ……。
 せっかくの休みだから外出しようと言ってくれたママの誘いも、ぜんぶ断っちゃったから。

「……うん」
「奈々ちゃん。なにがあったのか、ちゃんと話して」

 ぎゅっと、唇をかみしめる。
 握りしめた拳がわなわなと震えてきた。

「……言っても、誰も、信じてくれない」

 情けない弱音が、口からこぼれ出る。
 全部全部、ホントウの出来事なのに。
 ルカとの間に起きたことは、信じろという方が難しい。

「大丈夫。どんな話でも、ママは信じるわ。だから奈々ちゃんも、ママを信じて」

 焼きたてのクッキーからただよう甘い香りに、涙がこぼれてきた。
 わたしは、ぼたぼたと部屋着に涙の染みを作りながら、ママに打ち明けていた。
 わたしのもとに、恋の神キューピットさまが現れたところから、今までのことを。
 ママの相づちは心地よくて、いつの間にか、全部を吐きだしちゃった。
 話し終えたら、やっぱりこんな話は信じてもらえないんじゃないかって不安になってきて、またうつむいちゃったけど……。

「そっかぁ。奈々ちゃん、とっても辛い思いをしたのね。一人きりで、抱えこんでいたんだね。苦しかったよね……。話す決心をしてくれて、ありがとう」

 ママは、ふわりと頭を撫でてくれた。
 心配する必要なんてない、っていうみたいに。

「奈々ちゃんは、キューピットさまに恋をしたのね」

 恋。
 そっか。
 恋をしたから、こんなに苦しいんだ。
 会えなくて、胸が千切れそうなぐらいに、痛いんだ。

「でも、ママ……。わたしの話、信じるの……?」
「信じるもなにも、全部、本当の話でしょう。神界は、ママの故郷だもの」

 今度は、わたしが驚く番だった。
 ママ、いま、なんて言った?
 神界は、ママの故郷!?
 あんぐりと口をあけたわたしに、ママはしょんぼり顔になった。

「奈々ちゃんに打ち明けるかは、ずっと迷っていたの。奈々ちゃんが、人間界でフツウの女の子として暮らしていくなら、知らない方が良いことだと思っていたから」
「じゃあ……ママは、神さまだったの?」
「昔はね。といっても、神話に名前が出てくるような、有名な神さまではなかったけれど」

 胸が、じんわりと熱くなる。
 ママは、本当に神界にいたんだ。
 神さまだったんだ!

「神時代は、どうしようもない失敗ばかりの落ちこぼれだったわ。そんなある時に、好奇心でのぞきこんだ神界の深淵で足を滑らせて、人間界に落ちてきちゃったの」

 うっかり人間界へ、しかもウッソウと茂る森の中に落ちてしまったママは絶望したけれど、そこでたまたま奇跡の風景写真を撮影しにきていたパパと出会ったんだって。

「いきなり空から落ちてきたママを、パパは最初『天女』かと思ったって言ってた。パパは、世間知らずだった私に、人間界のことをなんでも教えてくれたの。そのうちにパパを愛して、人間として生きることを選んだのよ。この人と同じ時を生きていきたいって思ったの」

 そうだったんだ。
 ルカに会うまでのわたしは、多分、信じられなかっただろう。
 だけれど今は、すとんと腑に落ちてくる。
 ママにとってのギリシャ神話は、故郷の物語でもあったんだ。

「ママは、故郷も、神の力も、永遠の命も、全てを捨てて人間になったから、もう二度と神界には行けない」
「怖くはなかったの……?」
「もちろん、怖かったわ。だけど……それ以上に、パパと一緒に生きたかったの。後悔したことは一度もないわ」

 ドキドキした。
 ママは、それだけの覚悟をもって人間界にやってきたんだ。
 そうして生まれたのがわたしなんだ!

「今の私に神界とのつながりはないから、直接、奈々ちゃんの力になってあげることは難しいわ。役に立てなくて、ごめんね」
「う、ううん! あやまらないで」

 正直、すこしだけ残念な気持ちはあるけれど。
 話を聞いてくれただけで、とっても気が楽になった。
 それに、ママのひみつを聞かせてもらえたこと、すごくすごく嬉しかった。
 胸にのっていた重石をどかしてもらえたみたいに、心が軽くなったよ。

「ありがとう、ママ!」