「天堂くん? 誰それ。そんな人、うちの学校にいたっけ?」
「アタシも聞いたことないなぁ。それよか、奈々ってば大丈夫? 顔色めちゃめちゃ悪いよ」
「えっ……」

 ゆきりんも茜ちゃんも、冗談を言っているようには見えなくて。
 お腹の底の方から、えもいわれぬ恐怖が押しよせる。

「おはよう、みんな」
「……おはよう」

 振り向けば、ありさちゃんと、静かな雰囲気のかっこういい男の子が一緒に教室に入ってくるところだった。
 少し長めの黒い前髪からのぞく大きな瞳は透きとおっていて、あれ、こんなクール系イケメンうちのクラスにいたっけ? と疑問に思っていたら。

「あーっ! 水谷、あのヘンなメガネやめたんだ! 小学時代ぶりじゃん」

 うえええええ!?
 あのイケメン、水谷くんだったの!?
 メガネを取っただけで、この変わりよう! だいぶ衝撃なんだけど!
 茜ちゃんに思いっきり叫ばれて、クラス中に注目されてしまった新・水谷くんは居心地悪そうに肩をすくめた。

「ヘンだと思ってたなら、もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「フン。『似合ってるよ』って言ったのはあたしだけど、信じて身につけてたのは俊だからね。あたしのせいじゃないからっ」
「ええっ? あのヘンなメガネ、元々はありさが勧めたの!?」

 驚く茜ちゃんに、ありさちゃんは顔を真っ赤にしながら、つっけんどっけんに言いかえした。

「し、仕方ないでしょっ。あれは、魔除けだったの。……俊が、かっこよすぎるのが、悪いのっ……」
「ふぅん。でも、もう必要なくなったんだ?」

 ニヤニヤとありさちゃんを小突くゆきりん、めちゃくちゃ楽しそうだ。

「まぁ、それは幼馴染の贔屓目が多分に入っていると思うし、そもそも心配の必要すらないけれど……。本当にそういう目的だったなら、最初から要らなかったのに」
「ふうぅん? 水谷くん、どーしてそう思うのかなぁ?」

 ゆきりん、さっきから完全に楽しんじゃってるな! 
 良いぞ、もっとやれ~!
 ゆきりんにうながされた水谷くんは、当然だというように恥ずかしげもなく答えた。

「え? だって僕は、今も昔も、ありさ以外の女の子のことは考えたこともないし」
「う、う、う、うるさいっ! 俊のバーーカッ!!!」

 水谷くんの天然タラシ発言に、ありさちゃんは早くも心臓のピンチを迎えたらしい。首筋まで真っ赤にして、あっという間に自分の席へ逃げちゃった。

「あれ……。僕、また、ありさのこと怒らせちゃったかな」
「大丈夫だよ、水谷くん。あれは、ありさちゃんなりの『大好き!』って意味だと思う」
「ゆきりんに、超同意」

 というわけで……今朝はありさちゃんと水谷くんの初々しいやりとりに、見ているこっちまで胸がぽかぽかしちゃったんだけど。
 問題は、ルカのことだった。

「天堂くん……? 聞き覚えがないけれど、うちの生徒の名前なの?」
「ほら、昨日の体育の授業で、ドッヂボール大会があったでしょ? あの時、ありさちゃんに向かって鬼ボールを投げようとした一組の男の子!」
「ええと……それは、剛田(ごうだ)くんのことじゃないかな」

 休み時間中に、わたしと水谷くんが頭をひねりあっていたら、ひょっこりと顔を出したありさちゃんも彼に同調した。

「あのボールを投げたのは、剛田だよ。俊、あの後、剛田からあやまられたんだよね?」
「うん。結果的にメガネにヒビを入れちゃってすまんってね。でも、剛田くんはなにもルール違反をしたわけじゃないし、あれは僕の不甲斐なさが原因だから、謝られてむしろ申し訳なかったけど」

 水谷くんとありさちゃんの証言に、どんどん気分が悪くなっていく。
 ルカがとったはずの行動が、他の子がとった行動として、記憶が塗り替えられてしまっている。
 そうだとしたら、わたしの彼氏の記憶は、みんなの中でどうなってしまったんだろう?

「ねぇ、ありさちゃん」
「ん?」
「その……わたしの彼氏の話なんだけど」

 ありさちゃんは大きな瞳をクワッと見開いて、ガバッと腕をつかんできた。

「えっ!? 奈々って、彼氏いたの!?」

 わたしに彼氏がいたという記憶は、なくなっているんだ。
 まるで、最初から天堂ルカという生徒は在籍していなかったみたいに。
 この世界が、ルカの存在した痕跡を、まるごと消そうとしているみたいに。
 心臓が、素手で握りつぶされたみたいに、痛んだ。

「あ、あはは。ごめん、今の冗談! 素敵な彼氏ができたありさちゃんが羨ましくって、言ってみただけ」

 泣きそうなのをこらえながら、なんとか笑ったけれど。
 しょんぼりと眉尻を下げた二人を見る限り、うまくできなかったみたい。
 わたし、また、ありさちゃんにウソを吐いちゃったな。



 中学に入ってから、初めての夏休みがやってきた。
 セミの鳴き声が耳にわずらわしい、うだるような猛暑日の中、わたしは屍のようになってほとんど自分の部屋に引きこもっていた。
 こんなに気が重たいユウウツな夏休みは、初めてだ。
 ゼウスさまが、ルカを神界へと連れ帰ってから、一か月以上。
 世界がルカを忘れ去ってから、もうそれだけの時が経ってしまった。
 ルカが存在した痕跡を見つけるために、必死に頑張ってはみたけれど、成果なし。
 一年一組の教室中を探し回って、職員室で在校生の名簿も借りたけれど、見つけることはできなくて。ルカが住んでいたあのお家にも行ってみたけど、全然、知らない人が住んでいた。
 もう、永遠に、ルカに会うことはできないのかな。
 ルカは神さまで、本来、帰るべき場所に帰れたんだから、喜んであげるべきなのに。
 心は、ちっとも晴れない。
 目をつむると、ルカのやさしい笑顔が浮かんできて、涙がこぼれてくるよ。

「ルカ……」

 いつの間にか、わたし、こんなにルカのことを好きになっていたんだな。
 もう二度と会えなくて、こんなに胸が苦しいなら、わたしの記憶の中からも、消えちゃえば良かったのに。
 ベッドの上で、また鼻水をたらしながらグズグズとしていたら、部屋にノック音が響きわたった。

「奈々ちゃん。おいしいクッキーが焼けたんだけど、お部屋から出てきて食べにこない?」