「……ソフィア様」

 わたくしの話を聞いたアニーの母は、そっとわたくしの肩を抱きました。

「フィリップ様のことが、大好きなのですね」
「そうですわ。だからわたくしは、誰より美しいお父様のお人形として、お父様のお役に立ちますの」
「けれど、美しさはいつか必ず衰えます。そうなった時、あなたに何が残るのですか」
「そんなことはわかっていますわ! だから今しかありませんのよ。今、わたくしが一番美しいうちに! わたくしはこの美しさを存分に利用しますの!」

 わたくしが美しいうちに、男たちを利用して。家のためになることを。そして一番価値のあるうちに、一番高値で売り払う。
 結婚は家と家との契約です。わたくしの意志も好みもどうでもいい。オズボーン男爵家の利となる家へ、嫁がなければ。絶やさせたりなどするものですか。
 それがお父様にできる最大の恩返し。お母様を亡くしたわたくしを、ずっと支えて愛してくださった、お父様への。

「ソフィア様。フィリップ様は、あなたに幸せになってほしいと言ったのです」
「そうですわ。だから、うんといい家に嫁がなければなりませんの」
「それは誰のためですか」
「お父様のためですわ」
「それであなたは、幸せになれますか」

 何が言いたいのかしら。わたくしは、アニーの母を睨みつけました。

「フィリップ様が良家との縁談を望まれるのは、それがソフィア様の幸せに繋がると信じていらっしゃるからです。豊かな暮らしを保障することが、親としてできる最良のことだと思っていらっしゃるからです。でも、そこにソフィア様が喜びを感じないのであれば、何の意味もないのですよ」
「わたくしの、喜び」
「親は子の幸せを願うものです。私も心配から、ついアニーにあれこれ口を出してしまいますが……何を幸せと感じるかなど、本人にしかわからないものです。そしてそれは、言わなければ伝わらないのですよ」

 わたくしの喜び。わたくしの幸せ。
 わたくしが、本当にしたいこと。

「……わかりませんわ」
「ソフィア様」
「わたくしの幸せは、お父様の幸せですもの。お父様に尽くせることが、わたくしの喜び。家のための結婚は、お父様が望まれたこと。でも、わたくしが望んだことでもあるのです。わたくしは、自分が間違っているとは思いませんわ」

 誰にやらされたわけでもありません。お父様は強制などしていません。わたくしが、わたくしの意志で決めたこと。それを他人のせいになどいたしません。

「ソフィア様は、誇り高い方ですね」
「当然ですわ。わたくしはソフィア・ギビンズ。オズボーン男爵令嬢ですもの」

 胸を張ったわたくしに、アニーの母は微笑みました。

「では、ソフィア様。やはり明日から、少しだけでも店の手伝いをしてみましょう」
「何故そうなるの」
「あなたが庶民の暮らしを学ばれることは、フィリップ様が望まれたことですよ。きっと何か、意味のあることなのでしょう」

 わたくしは顔を歪めました。確かに、お父様が指示なさったこと。深いお考えのもとになさったことには、違いありません。
 それでも、この、わたくしが。
 
 返事をしないわたくしにアニーの母は苦笑して、食器類を片付けると部屋を出ていきました。
 わたくしはベッドに潜って、さきほどのアニーの母との会話を考えていました。



 四日目の朝。わたくしは四苦八苦しながら身支度を整えて、ひとつ深呼吸をし、厨房へのドアを開けました。わたくしの姿を見たアニーの父母は驚いた顔をしましたが、すぐに表情を戻しました。

「何突っ立ってんだ、アニー! さっさと水汲んで来い!」
「ですから! わたくしはソフィアですわ!」
「ソフィア様、私がお教えいたします。こちらへ」

 それから最終日の七日目まで、わたくしはしぶしぶ店の手伝いを行いました。何もかもが初めてで、正直何が楽しいのかは全くわかりませんでしたが、少なくとも退屈はしませんでしたわね。
 最終日の眠りに就く前。アニーの母は、わたくしの頭を優しく撫でて、額にキスしてくださいました。

「ソフィア様。たった一週間でしたが、あなたはもう私の娘も同然です。何かありましたら、いつでもお訪ねください」
「……平民の分際で、図々しいですわね」

 わたくしの憎まれ口に、アニーの母は苦笑して部屋を出ていこうとしました。その背中に、わたくしは最後の一言を告げました。

「わたくしも、お母様ができたようで嬉しかったわ。……ありがとう」

 もう一人のお母様は、そっと微笑んで、ドアを閉めました。



 目が覚めたわたくしは、見慣れない部屋で目を覚ましました。豪華なゲストルーム。ここは、ダグラス伯爵邸ですわね。事前に説明を聞いていたわたくしは、特に動揺することもなく、ベッドから身を起こしました。
 すぐにノックの音が聞こえて、見慣れた使用人が姿を現します。

「おはよう、サラ。早く支度をしてちょうだい」
「……おはようございます、ソフィア様」

 サラに身支度を整えさせ、ノアにエスコートさせて朝食をとりに食堂へ向かいます。そう、これがわたくし。男爵令嬢ソフィアの日常。やっと、戻ってきたのですわ。
 食堂にはダグラス伯爵家のご家族と、お父様が既に席についていらっしゃいました。
 お父様。一週間ぶりの再会に、自然と笑みが浮かびます。

「おはよう、ソフィア。よく眠れたかい?」
「おはようございます、エリオット様。ええ、おかげさまで」

 文句のつけようもない完璧な笑顔で返して見せたのに、エリオット様は何故か物足りない顔をなさいました。いったい何が不満なのでしょう?
 婚約は無事結ばれたと聞いています。わたくしはアニーと齟齬が出ないように気を払いながら、あまり会話をせずに過ごしました。
 朝食を終えると、わたくしたちは領地へ戻るために帰り支度を始めました。エラマまでは距離があります。日の高いうちに帰らなくてはなりません。
 雑事は使用人がするものです。わたくしは部屋で準備が整うのを待っていました。すると部屋にエリオット様が訪ねていらっしゃいました。二人きりで別れの挨拶でもしたいのでしょう。わたくしは快く部屋へ招き入れました。

「ソフィア、すまない。出発前に」
「いえ、構いませんわ。わたくしもエリオット様のお顔が見られて嬉しいですもの」

 にっこりと笑ったわたくしに、やはりエリオット様は少しだけ寂しそうな顔をしました。

「どうかなさいました?」
「いや、その……なんだか、少し他人行儀な気がするというか、昨日までより距離を感じてしまって。やはり急に気安く話すのは、馴れ馴れしかっただろうか?」

 わたくしは瞬きして、ちらりとサラを窺いました。サラが控えめに頷きます。どうやら、昨日までとエリオット様は口調を変えていらっしゃるようです。気づきませんでした。だって昨日までエリオット様と話していたのはアニーですもの。

「いいえ、そんなことはありませんわ。わたくしたちは婚約者ですもの。お好きなように話してくださればよろしいですわ」

 わたくしが微笑むと、エリオット様はほっとしたように頷きました。
 それにしても。ご自分の口調は気にされるのに、わたくしの口調には、気を払わないのですわね。アニーの口調は知りませんけど、わたくしと全く同じなのかしら。

「ソフィア。改めて、君と婚約できたことを嬉しく思う。結婚はまだ少し先になるだろうが、これからまたお互い交流を深めて、君と未来の話をしていきたい」
「ええ、もちろんですわ」
「君となら、お互いの領地をより良くしていけると信じている。誰もが笑顔に……いや、そこまではできずとも。せめて理不尽に傷つく者を減らすための方法を、二人で考えていこう」

 エリオット様のお言葉に、わたしくは目を丸くしました。
 わたくしの仕事は、夫の隣で微笑んでいること。社交界で美しさを見せつけること。そして男児を生むこと。領地の運営に口を出すことなど。

「わたくし、そんな話をしたかしら」
「ああいや、結婚後のこととして話したわけではないが。君が言った、差別のない世界を作るための一歩を、二人でなら踏み出せると思うんだ」

 差別のない世界。なんの夢物語かしら。
 差別など、あって当たり前。階級があるからこそ、人は機能するのです。醜く虐げられる者がいるからこそ、美しいものが光り輝くのです。
 エリオット様も。わたくしが美しいから、縁談を受けたのではないの。わたくしの美しさを愛しているのではないの。
 もし、そうでないのなら。

「わたくし、結婚後は自由気ままに過ごしたいですわ」
「……ソフィア?」
「美しいドレスを着て、宝石をつけて、流行りの遊びをしていたいんですの」
「どうしたんだ、ソフィア。君はそんなことを言う女性じゃなかっただろう」
「エリオット様は、美しいわたくしを手に入れられるだけではご不満ですの?」

 じっと見つめるわたくしに、エリオット様は眉を寄せました。

「……君には、最初に話したはずだ。私は綺麗な人形が欲しいんじゃない。二人で共に歩んでいける、強い内面の女性と手を取り合って生きていきたい」

 わたくしは目を伏せました。この方は、わたくしの美貌だけが目当てではなかったのね。わたくしと入れ替わっていたという、アニーの内面を見て、それを好きになられたのだわ。
 可哀そうな醜いアニー。そんなあなたを、愛してくれる人も、いたのですわね。あなたのお母様は、そんな風に、あなたを育てたのね。

「エリオット様は、見る目がありませんのね」
「昨日までの君は、偽りだとでも?」
「まだわかりませんの? あなたは、目の前の女がご自分が愛した女かどうかもわかりませんの? それで内面がどうこうなどと、笑わせますわ!」

 わたくしの強い口調に、エリオット様は怯んだ様子でした。

「どういう、ことだ」
「詳しいことは、わたくしのお父様に聞いてみたらいかがかしら」

 エリオット様は逡巡した後、勢いよく部屋を出ていかれました。
 部屋に残ったサラとノアは、わたくしを驚いた様子で見ていました。
 わたくしも、何故こんなことをしたのかわかりません。黙っていれば、このまま穏便に話は済みましたのに。伯爵家と婚姻を結べれば、安泰でしたのに。
 ごめんなさい、お父様。でも、わたくしがいます。わたくしがお父様を支えますわ。ですから、どうかこのわがままを許してください。
 わたくしのもう一人のお母様に、一度だけチャンスを差し上げたいの。
 二人の娘の幸せを願ってくださる、あの方に。



 事情を知ったエリオット様はわたくしたちと共にエラマへと赴き、ノアを連れてアニーに会いに行きました。
 サラから聞いた話では、結局エリオット様はアニーとどうなることもなかったようです。代わりに、ノアがアニーと交際することになったと聞きました。全く寝耳に水なのですが、そのようなことになっていたのですね。側近を辞めるということで挨拶も受けましたが、わたくしはもともとノアに執着などありません。勝手に余所で幸せになれば良いのです。
 エリオット様との婚約は、そのまま継続となりました。伯爵家と正式に結んだものですから、そう簡単に反故にはできなかったようです。
 そしてその後、エリオット様とは。

「……またいらしたんですの」
「それは、一応婚約者だからな。たまには会いに来ないと」
「それはそれは、遠いところまでご苦労なことですこと」

 エリオット様は意外とまめなようで、度々わたくしに会いにまいりました。好いてもいない女相手に、よくやるものですわ。

「今日は、オズボーン男爵家についての話を聞きたいと思ってな」
「歴史の話ですの? それでしたら、お父様とどうぞ。嬉々として話してくださいますわよ」
「違う、君の口から、君の見解を交えて聞きたいんだ」
「わたくし、難しいことはわかりませんの」

 わたくしの言葉に、エリオット様は大きくため息を吐きました。

「だったら、次会う時までに勉強しておいてくれ」
「嫌ですわよ。何故わたくしが」
「君は、この家を残したいんだろう」

 わたくしは目を丸くしてエリオット様を見ました。

「オズボーン男爵家には跡取りがいない。私は全て吸収して、この地もダグラス領にするものだとばかり思っていたが、君が残したいのならここはオズボーン男爵領だ。そうするのなら、男爵家の一人娘である君が、誰よりも家のことも領地のことも知っておかなければならないだろう」
「……わたくしが? この家を、継ぐということですの?」
「どういう形になるかはわからない。養子をとるとか、君が男児を二人以上産めば片方に継がせるとか、色々方法はあるだろうが。とにかく、まずは君がしっかりしないことには始まらない」

 腕を組んでくどくどと言うエリオット様はなんだか偉そうで癪でしたが、この方はわたくしの希望を尊重してくださるのですわ。
 女に学問など、政治など。皆がそんな風に言う中で、この方は。
 わたくしは、唇が吊り上がるのを感じました。

「仕方がありませんわね! どうしても、と言うのなら、協力して差し上げなくもなくてよ!」
「私の方が協力しているんだ!」

 およそ貴族らしくない、大きな声での口喧嘩に、使用人たちはまたかと息を吐きました。わたくしたちの言い争いはしょっちゅうなのです。
 けれど、エリオット様とは、こうしてお互い言いたいことをぶつけあえる関係であることは違いありません。
 案外、良い関係を築いていけるのかも、なんて。

 でも今はまだ腹が立ちますわ!