ベチャッとしたものが頭から垂れて、顔にかけていたベールごと落ちた。
 絨毯に落ちたそれは、ベールの上でぷるんぷるんと踊っている。

 (黄身が潰れないなんて、さすが侯爵家。いい卵使ってるな)

 なんて、呑気に現実逃避するのと一緒に、白いホカホカごはんが無性に欲しくなった。
 生卵をのせ、お醤油をちょっと垂らす。

 (……あぁ、たまごかけごはん食べたい)
 
 そんなことを思いついたと同時に、たくさんの映像、音、記憶が頭の中に流れ込んだ。
 それはどれも覚えがないものなのに、懐かしい気持ちが込み上げる。
 
 日本ののどかな港町。
 高校の制服を着て、スカート姿で海岸沿いの道を自転車で走る。
 寝坊して遅刻しそうだったから、大急ぎで学校に向かっていた。
 そして、横断歩道で信号無視のトラックとぶつかって……。

 (私、死んじゃったんだね)
 
 16年分の私(前世)が、今の自分エリアーナ・ベルレアンと混ざりあってめまいが起きた。
 立っていることができず、しゃがみこむ。
 
 目の前ではエリアーナを産んだ人が、口と手を同時に動かしながら全身で怒りを表現している。
 何個も卵を投げつけられて、もうエリアーナはドロドロだ。
 神殿から支給された聖女の白いドレスはもう聖女感皆無になっている。
 そして、目の前で怒り狂ってる人は、ずっと喚き散らしていた。
 
「お前のせいで我が家はおしまいよ!
 王家の怒りを買い、神殿からも金輪際関わりを持つことはないと見放されたわ!
 もうお前はこの家とは関係ない!
 とっとと出ていきなさい!!」

 そう言うと籠ごと卵をすべてエリアーナに投げつけ、鼻息荒く去っていった。
 あの人はたしか元聖女だったはずなのに、神聖さはどこかに置いてきてしまったのだろう。

(けが)れを流れ落とせ ≪浄化(プルガーティオ)≫」

 不快さを取り除きたいと思ったら、口が勝手に動いた。
 自らに浄化魔法をかけ、立ち上がる。

(これは、魔法だよね。ゲームや小説の世界みたい……)

 ドレスは新品同様になり、身体のいたるところのベトベト感ももうない。
 
 『この身体は魔法を使える』
 
 そのことはエリアーナの記憶のなかで知っていたが、それが本当なのだと使って初めて思えた。
 
 自分の手を見つめる。
 とても美しい白い手だった。
 部活で日に焼けた爪の短い手はどこにもない。

 (私は、(エリアーナ)なんだ)
 
 頭の中でカチッと音がした気がする。
 歯車がちゃんと嵌って時計が動き出したような、そんな感覚だった。

「エリアーナ様、こちらへ」

 名を呼ばれ、違和感なく頷けた。
 古参の執事に促され、外につながる扉へ向かって歩く。
 周囲にいる使用人たちはこちらを見ようともしない。
 何か囁きあっている気がするが、気にならなかった。
 もう、ここに訪れることはないのだから。

「お父様は、顔を見せてもくれないのね」

 罵声を浴びせにきたのは母だけで、ベルレアン侯爵家の当主である父の姿は見ていなかった。
 家の繁栄が第一と考える父のことだ。
 きっと、自分が見限った娘にもう用はないのだろう。

「……お声掛けはしたのですが、お呼びできず申し訳ございません」
 
 そう答えた執事の背は昔より小さく感じた。
 エリアーナが生まれたときから、すでに仕えていたこの老執事はこの家の中で唯一エリアーナを『人』として扱ってくれていた気がする。
 この家にとって、エリアーナは地位を上げるための『道具』に過ぎなかった。
 大事な道具だから、みんな丁寧に扱った。
 けれど、白い手袋越しでは人のぬくもりなんてわからなかった。
 
「エリアーナ様、こちらをお持ちください」
 
 屋敷の門の外に出たところで、執事が旅行鞄と外套を手渡してくれた。
 鞄はエリアーナでも無理せず持てる大きさのもので、中に何も入っていないのではないかと思えるくらい軽かった。

「こちらは収納と軽量化の魔法陣が組み込まれた鞄型の魔導具です。
 見た目よりも物が入ります。数着のお召し物と生活に必要な最低限のものを用意いたしました。
 僅かながら金子も入っておりますが、旦那様からはこれ以外持ち出す許可は頂けず……。
 お力になれず、申し訳ございません」
 
 白い頭を下げる執事。
 彼は仕事を完遂しただけで、何も悪いことはしていない。

「用意してくれてありがとう。最後まで迷惑をかけたわね、爺や」

 最近はもう呼ばなくなった呼称で呼んだのは、エリアーナとしての記憶がそうさせたからだ。
 彼だけだった。
 幼いエリアーナと温かな手で手を繋いでくれたのは。
 聖女としての務めや王太子妃教育に追い込まれて、眠れない夜に温かなハーブティを用意してくれたのは。
 聖女の身分を剥奪され、王太子との婚約も破棄された、もう『ベルレアン』ですらない16歳の少女に心を痛めてくれたのも。
 彼だけが、エリアーナの味方だった。
 
「いいえ、迷惑など……。
 お嬢様はいつも侯爵家のご令嬢や聖女様として只々頑張っておいででした。
 爺めは分かっております」

 未だに顔を伏せている爺やの声は震えていた。
 その姿を背に歩き出す。

 (いつまでも、ここにはいられない。……進まなきゃ)

 地理なんてまったくわからなかったが、大通りを目指して歩いてみた。
 人通りが多い方、多い方と進んでいけばきっと大丈夫だと言い聞かせ、不安ながら進んでいった。