「位置について。用意……」
 号砲が炸裂する。
 その音量に身を震わせつつ、私は他の出場選手と同時に走り出した。

「走れー!」
 生徒たちの声援に混じって千聖くんの声がした。
 その声が私に活力をくれた。
 他の出場選手に追いつけなくても気にしない。
 簡単に追い抜かれてもめげない、挫けない。
 とにかく腕を振り、グラウンドを蹴って、全力で走る!

 紙が散らばるゾーンに最も遅く着き、私はその中の一枚を拾い上げた。
 お題は伏せられているし、見た目は全部同じなのでどれがいいのかなんて、考えても仕方ない。
 一番近くにあった紙を裏返しにして、お題を確認。
 お題は至極単純で、簡単なカタカナ四文字だった。

『イケメン』
 誰だ、このお題を考えた人は……。
 夢の中の私は、このお題を見て千聖くんと一緒に走ったのか。

 ああ、イケメンと言えば千聖くんだよねって?
 ――うん、やっぱりそうだよね。
 イケメンというお題を見た瞬間、私の頭の中に浮かんだのは一人だけ!

 私は自分のクラスの応援席に向かって全速力で走った。
 私が辿り着くよりも前に、千聖くんは自分の席から離れ、校庭に引かれた白いラインのぎりぎりのところに立っていた。
 彼の頭には私と同じ赤い鉢巻が巻かれている。

「千聖くん! 一緒に来て!!」
 私は息を切らしながら、お題の書かれた紙を千聖くんに見せた。
『イケメン』と書かれた白い紙を見て、千聖くんは目をぱちくりした後、愉快そうに笑った。

「なるほど。おれのことだな」
 千聖くんは素早くグラウンドを見回し、他の出場選手の様子を確認した。

「よし、まだ誰もゴールしてないな、行くぞ! 夢のゴールテープを切らせてやるよ!!」
「えっ、わあっ!?」
 千聖くんは言い終わるよりも先に私の右手を掴み、走り出した。
 周りの景色が飛ぶように流れていく。
 まるでジェットコースターに乗っているかのよう。
 応援席が、青空が、グラウンドが、目に映る色彩の全てがごっちゃになって、マーブル模様になる。

 千聖くんは私の手を引いて、ぐんぐん、ぐんぐん、風を切って進んでいく。
 女子たちの黄色い声援を浴びながら、目をキラキラさせて、ゴールに向かって駆けていく。

 単純に走ることが好きなんじゃない。
 私を一位にするという野望に燃えているからあんなに楽しそうなんだ。
 そう気づいた瞬間、胸がドキドキ鳴った。

 ああ、この手を離したくないな。
 そんなことすら思った。 

 ――まあ、それはそれとして。
 いまは何より重大な問題があると、身体が悲鳴を上げている。

「ちょ、ちょっと待っ――速、速すぎ――っ!」
 私は切れ切れに訴えた。
 千聖くんが速すぎて、私の足が限界です!

「黙ってろ、舌噛むぞ!」
 千聖くんは私の手をしっかりと掴んで離さない。
 千聖くんがあんまりにも速いから、私は必死に足を動かし、どうにか転倒しないようについていくだけで精いっぱいだ。
 およそ自力では出したことのない速度に脳の処理が追い付かず、目が回る。

 遠かったはずのゴールテープが凄い勢いで近づいてくる。
 それが目前に迫ったところで、千聖くんは急に速度を落とし、私の走る速度に合わせてくれた。
 そのおかげで、私たちはほとんど横並びの状態でゴールし、真っ白なゴールテープを切る瞬間を確かに味わうことができた。
 ぴんと張られていたゴールテープが私の身体に触れて緩み、地面に落ちたそれを先生たちが回収している。

「あー、さすがにちょっと疲れたな」
 そう言いつつも、千聖くんの顔には余裕があった。
 だって、息を弾ませながら笑ってるし。

 私はもう、疲れ切って、言葉を発することさえできない。
 肺は酸素を求めて暴れ狂い、膝はがくがく揺れて、立っているのがやっと。
 園田さんを助けたとき以来の全力疾走だ。

「…………わ、わたっ……!」
 激しい呼吸の合間に言いかけて、息が詰まり、激しくむせた。
「おい。大丈夫か?」
 俯いて膝に手を置き、ひたすら息を荒らげている私の背中を、千聖くんが心配そうに叩く。

「わ、私っ!」
 どうにか喋れるようになり、私は千聖くんの腕を掴んだ。
「は、初めて、一位っ……じ、人生で、初めて、一位、取れた! 千聖くんの、おかげっ……!!」
 感極まって、目からボロボロ涙が零れる。

「あ、ああ……おめでとう」
 泣くほど喜ぶとは思わなかったらしく、千聖くんは面食らったように目を瞬き、苦笑した。
「でも、浸るのは後にして。ここで突っ立ってたら邪魔になる」
 千聖くんは私の手を掴んで引っ張り、一位の旗が立っている列に並び、腰を下ろした。

 泣いている私を、待機中の生徒たちがちらちら見ている。
 でもそんなの、この喜びの前ではささいなことだ。

 何せ私は絶望的なまでの運動音痴。
 だからこそ、どれほど一位に憧れていたことか……!

「人生で初めて一位になった感想は?」
 私が落ち着くのを見計らって、千聖くんが聞いてきた。
 答えは聞かずともわかっているらしく、唇の端をつり上げて。
「……最高っ!」
 私は手の甲で荒っぽく目元を擦り、泣きながら笑った。

「私、今日のこと忘れないよ。千聖くんと手を繋いで一位になったこと、きっと一生忘れない」
 飛ぶように視界を流れていく景色、生徒たちの声援、私の手を強く掴んだ千聖くんの手の感触、二人並んでゴールテープを切った爽快感、青空の下で誇らしげに揺れる一位の旗。
 全てが記憶に焼き付いた。
 これほど鮮烈で、得難い貴重な体験、たとえ忘れようとしたって、忘れられるわけがない。

「大げさな」
「大げさなんかじゃないよ。私の運動音痴ぶりは知ってるでしょ? 運動会で一位を取れるなんて、奇跡でも起こらなきゃありえないと思ってた。でもなれた。全部千聖くんのおかげだよ、本当にありがとう。夢を叶えてくれて」
 私は千聖くんの手を掴んで上下に振った。

「……どういたしまして」
 千聖くんは照れたように、ぶっきらぼうな調子で言って頬を掻いた。

 その後、列に並んで千聖くんと話していると、視線を感じた。

 左手を見れば、春川さんたちが不満そうにこっちを見ている。
 どうしてモブがお姫様を差し置いて王子様の隣にいるのよ、とでも言いたげな目だ。

 でも、私は気づかないふりをした。
 だって、いまだけは、誰よりも私が一番千聖くんの近くにいたい。