飛び込みの練習は、第二プールの端でおこなう。

 規定の五メートルより深い八メートルの水深。水中には監視カメラや緊急用の浮上ラグが設置されており、救護員が常時待機している。
 そこに、何段かに分けられた飛び込み台が設置されており、もっとも高いものは十メートルに達した。いわゆる高飛び込みの台である。

 その頂点から、いま、花奈《かな》がとんだ。

 三メートルほど走り込み、踏み切って、鋭い前回転ののちに三回のひねりを加えた。入水も完璧である。周囲で見守る生徒たちからため息が漏れる。
 花奈の試技は、炎の花、と称されることがある。もちろん滑らかな動作であり、姿勢はうつくしく、あらゆる動作に隙がない。が、なにより、見るものを圧倒する気迫があった。

 芽衣《めい》が花奈に走り寄る。タオルを使いながら歩く花奈の後ろから声をかける。

 「エクセレントで、十点。難易率込みで十八点……で、いい?」

 花奈は立ち止まらず、ん、という、ため息のような声をもらした。

 エクセレント、つまり文句がつけようがないという採点であり、かつ、難度の高い技をつかったということで、高い加点がされている。
 が、たとえ冬夜《とうや》がこの場にいたとしても、おなじ評価をせざるをえないだろうと思われた。それほど、花奈の試技は、レベルが高かった。

 「……竜胆《りんどう》の姿、見えないんだけど」
 「……あっ、梧桐院《ごどういん》さんなら、あそこに……」

 指差す先をみると、飛び込み台の後方、階段のしたに、竜胆の姿があった。膝を抱えて、ちいさく座っている。ちっ、と舌打ちをする花奈。
 つかつかと近寄り、竜胆の前にたつ。

 「あんた。なにやってんの。あたしが飛んだの、ちゃんと見てた?」

 竜胆は膝のあいだに頭をおきながら、わずかに頷いた。
 震えている。

 「……芽衣は十八点、つけてくれた。どうする? 棄権する?」

 竜胆は、やはり答えない。
 花奈はもう一度舌打ちをして、竜胆の腕をつかみ、たたせた。ひゃん、という声をあげ、怯えた顔をみせる竜胆。
 花奈はそのまま階段まで竜胆をひっぱっていき、背を押した。

 「ほら、いきなさいよ。体調わるいんだかなんだか知らないけど、幻滅させないで。闘いもせずに潰れるなんて、許さない」

 竜胆はわずかに花奈を振り返り、きゅっと口を引き結んで、階段をあがった。

 ……階段、こんなに、高かったっけ。えっ、まだ上がるの。こわい……。

 一段あがるたびに、足が震える。見上げる生徒たちの目が、自分を睨んでいるようにみえる。プールの水が、ひどく深く、重く、粘ついたものに感じる。
 しゃがみ込みそうになるのを堪えて、なんとか、最上段まであがった。

 十メートルの飛び込み台は、三階建てのビルと等しい。ふだんはここに立つと、竜胆は解放された気持ちになり、あらゆる自由を手に入れて、どんなことでもできるように感じるのだ。
 しかしいま、自分がここから、あの暗い水に向かって飛ぶということが、空中に身を踊らせるということが信じられない。

 天井の照明が、間近に、彼女を照らす。そのひかりは、彼女の弱さを責める天の声のように、竜胆は感じていた。

 だめ……やっぱり、だめ……ごめんなさいして、許してもらおう……。
 手すりをぎゅっと握り、踵を返そうとした。

 その、とき。

 「……りん……りんちゃん……!」

 天井ちかくの窓の、ちいさな隙間から聞こえてくる、わずかな声。

 冬夜の声だった。
 校庭のトラックを周回しながら、冬夜は絶叫していた。

 周囲の生徒たちが呆然と彼の顔をみる。教員が走り寄る。肩に手をかける。それでも冬夜は、やめない。おおきく息を吸い込み、叫んだ。

 「りんちゃんっ! ぼくは、ここにいる! いつでも、きみのこと、みてるから! とべる、できる、きみは、やれる……とべるんだ!」

 その声を、竜胆は立ち尽くし、きいている。
 頬に、ちいさくなみだが落ちた。

 「りんちゃん……りんどう、ぼくの、りんどう!」

 竜胆の足が、すっと、前に出る。

 「りんどうっ……」

 台の端に、足先をそろえる。
 ふう、と息をはく。
 瞳にひかりが宿る。
 手を拡げる。

 「……とべえええっ!」

 たんっ、と踏み切る。

 たかく舞い、四回、ひねる。そのたびに速度が増す。ふわっと膝をあげ、滑らかな後回転。すっと、水と一体になるような、水から迎えにゆくような、しずかな着水。

 飛び込み台の周辺。生徒たちはだれもくちを開かない。
 花奈は炎、竜胆は、月。あまりに美しいものを突きつけられたとき、ひとは、動くことができなくなるものなのかもしれない。

 花奈は集団に背を向け、更衣室に向かって歩き出した。
 芽衣があわててその背を追う。

 「あ、あの……梧桐院さんの、採点、ね……」
 「もういいわよ」

 花奈は、ふん、という顔をした。

 「やっぱりあたし、竜胆、だいっきらい。ぜったいいつか、勝ってやる……」

 竜胆のいるほうを振り向き、にいっと笑った。

 「……竜胆、だいっきらい!」

 その頃、校庭では人の輪ができている。
 輪のまんなかには、冬夜。倒れていた。走りながら全力で叫び続けたことで呼吸困難に陥ったのである。教員が水を飲ませ、やっとなんとか、落ち着いた。

 「……さっき、なに叫んでたんだ、こいつ」
 「しらねえ……でもなんか俺、少し泣けた……」

 生徒がひそひそ話していると、とおくから、誰かがこちらに向かって走ってくる。姿はだんだん大きくなる。男子はぜんいん、そちらをみて、硬直した。

 水着すがたの竜胆。
 女帝、梧桐院竜胆が、競泳水着に運動靴という姿で全力疾走してくる。

 混乱する男子生徒の群れに、竜胆は突っ込んだ。
 かきわけ、中心に寝転がっている冬夜に飛びつく。首のうしろに両手をまわす。ぐいっと持ち上げ、ぎゅっと抱きしめて、叫んだ。

 「とうやあ。とうやあ、あたし、とんだ、とべたよ。できたよ、とうやいなくても、あたしちゃんと、とんだよ……!」

 冬夜はなかばもうろうとしながら、右手をゆっくり動かして、竜胆の背中をぽんぽんとたたいた。まだ濡れている背中に、校庭の砂がはりついている。

 「……ちゃんと、とべたんだ、ね……えらかったね……」
 「うん、うん、がんばったよ、りん、がんばったんだよ……」

 まわりの生徒たちは、どうしていいかわからない。わからないが、とりあえず、というかたちで拍手が起こる。
 ぱちぱち、というその音を聞いて、竜胆は我に返った。
 顔を真っ赤にし、冬夜をぽんと突き放して、立ち上がる。

 それでも、冬夜に手を差し出した。

 「……お具合、悪いんでしょ。保健室に連れて行ってあげる」

 涼しげな瞳で自分を見下ろす、無敵の、姫。
 冬夜は、ふふっとわらって、ひとりごちた。

 「……りんどう姫は、めんどくさい!」


 <了>