3、雨空と紫陽花2


 私は自分の勤務時間が終わってから、まだ保育中の悠を待つついでに、職員室のパソコンデスクに座り保育週案を書いて残業した。



 私が受け持つ担当クラスは悠とは別の五歳児クラス。男の子たちが「ザリガニを釣りやりたい」、女の子たちは「クローバーの髪飾りを作りたい」と言っていたので、名古屋の街中にしては珍しく自然が多くあり、ザリガニの釣れる池がある下茶池公園に行く計画を立てて、今週の子どもたちの様子や課題をパソコンで書き込んだ。



 保育室からにぎやかな声が聞こえてくる。



 「悠先生おままごとやろー」と元気の良い女の子の声が聞こえた。



 「いいよー。悠先生は何役やればいいかな?」



 「じゃあ、わたしはママで、ゆきちゃんは赤ちゃんだから、悠先生はパパね」



 「よぉし、パパが仕事から帰ったよー。めいちゃんママご飯はある?ゆきちゃんは良い子にお留守番できたかな?」と声色を野太く低音に変えた悠の声がする。私は、悠が真似するパパのイメージが可笑しくて思わず吹き出した。



 「パパ、今日のご飯はカレーよ」



 「ありがとうめいちゃんママ。ぱくっ。う、う、ぐぐぐぐぐぎゃあああああ。ばたっ」



 「パパがママのカレー食べたら倒れちゃった」



 「うううう、ゾンビになっちゃったぞー。みんな食べちゃうぞー」



 「わー悠先生がゾンビになったー。みんな逃げろー」



 「うううう、捕まえた子は、こちょこちょしちゃうぞー」



 「わー。あはははははは」



 捕まった子の楽しそうな笑い声が聞こえる。



 「うううう、次は誰を捕まえようかな」



 おままごとをやってなかった他の子もいつの間にか巻き込んで、園全体に子どもたちの笑うにぎやかな声が響き渡った。



 なんで、おままごとをやってたのに、急にゾンビの追いかけっこになっているんだろう。



 悠の保育は発想が子どもらしいというか、奇想天外でいつもこんな感じだ。



 頭の中を確認できるなら、悠が子どもたちと遊ぶ時にどんなこと考えてるか見てみたいものだ。



 しかし、そんな子どもと遊ぶのは得意な悠だけれど、保育計画を立てるなど事務仕事全般、特にパソコンを使うことは苦手で人一倍時間が掛かる。他の業務に追われて週案を書きそびれてしまうこともあるので、私が悠を手伝ってアドバイスしながらやることが多い。



 少しすると勤務が終わった悠が職員室に来た。今日は私の予定がある日なので、悠の事務仕事はやらずに帰り支度をして二人で保育園を出た。



 歩きながら唐突に「あー、今日も可愛いなぁ。仕事あがりに晴の顔が見れるなんて最高だな」と悠が言い出す。



 私を見て微笑む悠に対し「私の顔なんて、別に普通だし、そんな可愛くもないでしょ」と無愛想に私は返した。



 「えー。俺は晴が世界で一番可愛いと思うよ。顔もだし、今日のガーリーな感じのベージュのワンピースとか晴のボブヘヤーもめっちゃ好き。あっ、前髪少し切ったでしょ。でも俺は晴の見た目だけじゃなくて性格が一番大好きだからっ」と恥ずかしげもない顔で話す悠。



 いつもの事なのだけれど、あまりにもさらっとこういうことを言うのでこっちは照れてしまう。



 「恋人フィルターがかかってるだけでしょ」そう言って金白駅前の交差点で信号を待つ間、照れ隠しのために私はスマホを触った。恋人フィルターがかかっているのは、正直私も同じで悠と付き合いだしてからもうすぐ二年経つが私には悠の顔が格好良く見える。よく寝癖がついてるけど黒髪のこの無造作ヘアも好きだし、オーバーサイズの白Tシャツに黒スキニーも私好みなのだ。



 それにこの人当たりの良い性格なので、私もどんどん彼に惹かれていっているところがある。けど本人に直接言うと調子に乗って喜ぶので絶対に言わない。



 「あー、今日も早く晴の歌聴きたいなー」と私が肩掛けしているギターケースを見て悠が言った。
 


 「ありがとう、いつも楽しみにしてくれて。でも毎回聴きに来なくたっていいからね」



 「なんで、そういうこと言うんだよ。俺が聴きたくって行ってるんだよ。晴の歌声ってさ、優しくて心が落ち着くし、なんか聴いてて俺も頑張ろうって思えるんだよ。まあ晴の事情を知ってるから余計に感情入っちゃうところもあるんだけど」



 交差点の、横断歩道の信号が青になった。



 「晴、ギターと荷物の入った鞄重くない?」と気遣ってくれたが、「別に大丈夫だよ。これもダイエット」と私は適当に返した。



 私は月一回、桜舞駅を出てすぐの桜舞公園の入り口付近でギターの弾き語りをやるのが日課になっている。



 初めの頃はこの大きい公園なら誰の迷惑にもならないので、練習のつもりでギターを弾いていたのだけれど、いつの間にか駅から出てきたサラリーマンや学生が、数人聴いていってくれるようになった。その中には毎回足を止めて聴いていってくれる人もいて顔も覚えた。もちろん悠は必ず毎回来ている。



 「本当、晴の歌って凄いんだよなぁ。初めて聴いた時にさ、晴の優しくて囁くような心地良い透き通った綺麗な歌声がスッと心に入ってきてさ。俺思わず天使の歌声だって思ったもん」



 「もう悠っ。そうゆうの恥ずかしいからやめて」と私は悠の熱弁スイッチが入ってしまう前に話を止めた。褒めてくれるのは嬉しいのだけど、なんか照れ臭いのだ。それに私が止めないと悠はいつまでも語り続ける。



 私は運動や裁縫などできないし、絵を描かせたら園児が描いたラクガキと間違われるほど才能がない。特別な特技なんてものはないのだけれど、唯一あるとすれば音楽だった。私は幼い頃からお父さんの影響でピアノをやっていた。中学からギターと作詞作曲を始めた。歌もどちらかといったら得意なほうでカラオケに行けば友達から褒めてもらえた。



 私は音楽だけは昔から割と得意だったのだ。なので気晴らしがてら桜舞公園でギターの弾き語りをマイペースに月一でやっている。



 真っ赤に燃えるような夕日が西の空にほぼ沈みかかり、空の上側は薄紫色、下側にはオレンジ色の水平線が見える。駅から公園へと繋がる横幅の広い道には、桜の木とその下にベンチが並んでいる。その一角がいつも弾き語りをする私の定位置だ。



 私はいつものベンチに着くとギターケースから何年も使っているミニアコースティックギターを取り出す。



 通りすぎる人たちに一礼し私はベンチに腰を下ろした。ギターを太ももの上に置き、左手でギターのネックを握り右手はピックを持つ。



 一息、深呼吸をする。声出しやリハーサルはいらない。保育中にもギターを使い歌っているので指も声も十分に温まっている。それに何度も練習したのでもう覚えているのだ。私はピックでゆっくりと弦を優しくなぞるようにCコードを鳴らした。



 透明感があり温かみのあるアコースティックギターの音色が辺りに響く。



 悠は少し離れたところから私を見ている。歩いて通りすぎる人たちが時折視線を向けるのがわかる。



 よし、始めよう。