2、雨空と紫陽花


 家から歩いて最寄りの桜舞駅に着くと「はーーーーーるっ。おはようっ!」と底抜けに明るい挨拶が飛んできた。
 


 見ると悠が駅の改札の前で待っていてくれた。



 「悠の出勤時間て今日は私より後じゃなかった?」



 「うん。一時間後なんだけど、晴と一緒がいいから早く来ちゃったよ」と言って私に抱きつこうとする悠。



 「もー!あっついっ!朝からベタベタしないでよ。それにここは駅だからっ。恥ずかしいからやめて」と私は悠の顔に手を当ててグッと力を入れ、悠を体ごと離した。



 「俺は早く晴に会いたくて会いたくてたまらなかったのにー!ははは」と満面の笑みをしている。



 「毎日職場で会ってるでしょー」と呆れた顔をしてわざと迷惑そうに私は言った。



 「昨日会っても俺の中の晴パワーがもう枯渇してるんだよ」



 その時、不意に寝起きと同じように乾いた咳が出て、私は咄嗟に手で口を押さえた。



 悠はすぐに私の背中を手で優しくさする。しばらくして咳が治ってから「晴、大丈夫?風邪?」と心配そうな顔をして覗き込み私のおでこに手を軽く当てた。



 「うーん、熱はなさそうだな」



 「別に大丈夫だって」と私が言うと、「そっか」と悠は少し怪訝な顔をしたが、すぐににこっと笑顔を私に向けた。



 「最近、晴の咳が多い気がする。心配だな」



 「ちょっと私が咳したからって、私が弱ってるふうに見えた?悠に心配されるなんて真平ごめんなんだけど」と私はわざと意地悪に言ってみる。



 「んだよ。晴元気じゃん。安心した」



 「悠が私の心配するなんて百年早いんだから」



 そう。私は悠に、こんな私なんかの心配をしてほしくない。



 悠は今年で二十歳の新社会人、私の二個下だ。私のほうが年上だからお姉さんをしているというわけではなく私の性格上、私が彼のお世話をしてしまうことが多い。悠が普段から能天気で甘えん坊なのも、年下だからというわけではなく元々そういう性格なのだと思う。なんか、どこかほっとけないというか。



 職場に着くと、私たちは玄関のドアから入って職員室に向かった。



 こでまり保育園、築三十年の鉄骨三階建で小さい園庭がある、名古屋市内でも割と都心部に建てられたこの保育園が私たちの職場だ。



 保育園というのはとても活気のあるところで、いつでも誰かの声が聞こえてくる。子どもたちが楽しんでいる笑い声、ケンカしてる時の声、泣いてる時の声、仲直りしている時の声、そして、それを見守る保育士のあたたかい声、子どもたちに振り回される保育士の慌ただしい声、パパやママが漏らす不安の声、パパやママが「いつもありがとう」と保育士に言ってくれる感謝の声、子どもへの愛情の声。全部が私の大好きな声でこれがいつも聞こえるのが保育園の日常だ。



 「おはよう。猫本さん、犬塚君」と職員室で保育準備をしている私たちに優しい落ち着いた声の中年女性が話しかけてきた。園長先生だ。



 「あ、おはよーございますっ」とぱっと顔を上げて元気に挨拶する悠。その隣で姿勢を正して頭を下げ「おはようございます」と私も挨拶をした。



 「もー。犬塚君エプロンしなさいっていつも言ってるでしょ保育士なんだから。保育士はね、見た目も大事なの!それに犬塚君はエプロンしないと保育士に見えないのよ」


 
 「すいません。でもこの前新しく買ったエプロンも子ども達とじゃれてたら、買ったその日に破れたんですよー」と悠が苦笑いしながら言った。
 


 「あのエプロンもう壊れたの?まぁ、ならしょうがないわね。エプロンが破れるくらい、思いっきり子どもたちといつも遊んでるって証拠だものね」と園長先生が微笑んだ。



 しょうがないで済んでしまうのだから、うちの園長先生は優しいなぁと思う。他の保育園ではこうもいかないだろう。しかし、そんな優しい園長先生に甘え保育士としての身だしなみを怠っていいわけがない、それだと悠のためにならないと思ったので、「私が今度悠のエプロン縫っときます」と提案した。



 「うふふ。猫本さんはきっと良いお嫁さんになるわ」



 園長先生のその言葉に私はどきりとした。



 「でしょー。やっぱり園長先生もそう思う?」と悠が嬉しそうにニヤニヤしている。



 「私はまだ悠のお嫁さんになるって言ってないけどね」



 「俺は絶対晴と結婚するもん」



 「考えとく」



 「する」



 「子どもみたいなふうに言わないで」



 「えー。だって俺結婚を前提に付き合ってるもん」



 「そういう恥ずかしいこと人前で言わないでよ」



 私と悠のやりとりを見かねて「あなたたち仲良しなのは良いけれど、職場では喧嘩もいちゃいちゃもだめよ」と微笑みながら園長先生が私たちを制した。



 悠は「すいません」と能天気に笑っているが、私は心の中で自分に叱咤した。



 園長先生は悠に頼み事があったらしくその話を始めた。私とはちょっと距離が離れていたので、その内容までは聞こえなかったが、きっと人の良い悠ことだから深く考えもせず、いつもの安請け合いするのだろう。



 頼み事の話が終わったらしく悠と園長先生は、昨日見たテレビ番組の雑談を始めていた。



 悠は人懐っこく明るい性格で誰からも可愛がられるところがある。



 しかし…、うーん。と私は頭を抱えた。悠が相手だと私はどうしてもすぐ気が緩んだ会話をしてしまう。だから、人によってはそれがいちゃいちゃしているように見られてしまうこともある。それにさっきのやりとりに関しては、注意されても仕方がない。



 私と悠が付き合っていることは職場のみんなが知っていて、なんとなく公認の二人になっている。



 みんながあたたかく私たちを見守ってくれているので本当に有難い。



 なぜ、みんなが私たちが付き合っていることを知っているかと言うと、悠がここの保育園の就職面接で「あなたには人生の目標はありますか?」という園長先生の質問に対し「僕の人生の目標は晴を幸せにすることです」と答えたのが伝説になっていて、職場のみんなの笑い話になっている。それでよく面接が通ったものだ。私としては恥ずかしいから二人の関係は黙っておきたかったのだけど、悠がこの通りあっけらかんとなんでも話してしまうので私も、もうどうでも良くなってきている。



 それでも不快に思う人もいるかもしれないし、気をつけなければと私は自分の気持ちを引き締める。



 すると、悠が担当する五歳児クラスの保護者である真希さんが子どものあゆむ君を連れて職員室のドアを開けて入ってきた。



 あゆむ君が、私たちを見るなり「わー。はる先生とゆう先生今日もラブラブーっ!けっこんしろー」と指をさして揶揄ってきた。お母さんの真希さんがそれを見て「ちょっと、あゆむっ!すみません」と苦笑し頭を下げてから、あゆむ君の背中を摘んだ

 すると、すぐに悠が「こらこら大人を揶揄うんじゃないっ!すぐに結婚するに決まってるだろう。なんなら悠先生は今すぐ結婚してもいいと思ってるよ」と右手でグーサインを作ってあゆむ君に言った。



 あゆむ君も真希さんも園長先生も、悠の言ってることやドヤ顔感が面白くって思わず吹き出している。



 私が気をつけようと思っている側から、なんて私の周りの人たちは呑気なのだろう。と思いつつも私は頬が熱くなったのを感じみんなに悟られないように、我関せずで保育準備をやっている振りをして反対を向いた。



 でも、私たちが付き合っていることを悪く思われているよりもいいか。これも私と悠の普段の信頼があってだし。今後もより一層誠実に付き合わなければと一人心の中で誓った。


 
 そして、真希さんは園長先生に用があったらしく本題について話し出す。



 「金白駅近くの交差点あるじゃないですか。最近、朝から危険運転してる原付バイクがいるんですよ。あの交差点は信号が変わるの早いし、前、この子と渡っていたらそのバイクに轢かれそうになったんです。だから保育園でもあの交差点は気をつけてほしいと思って」と不安そうに真希さんが話した。



 「わかりました。あの交差点は普段から子どもたちが公園までのお散歩ルートで使っていますから、教えていただけてありがたいです。保育士たちにもあの交差点はなるべく迂回するように伝えます」と園長先生がお辞儀をして応えた。