1、朝焼け空と決意

 楽しいことも、嫌なことも、全部全部が私の人生なんだ。でもこんなにも辛い思いをするのなら、目なんて覚めなければいいのに、そんなことを考えていたら眠りが浅いまま朝方になった。


 目覚まし時計のアラームが鳴る前に私は目を覚ました、あまり眠れた気がしない。


 眠りが浅い時ほど夢を見るらしい、悪い夢だったのか汗をぐっしょりかいていて悪寒がする。不意に乾いた咳が出て、私は布団の上に横たわったペットボトルの水を一口飲んだ。


 咳が治ってから、しばらくぼーっとしていたら意識がはっきりしてきて思い出した。私は夢の中で悠に別れるを告げる夢を見たんだ。夢の中の悠が悲痛な表情で泣いて悲しんでいるのを思い出し胸が苦しくなる。



 気分を変えようと思いベットで横になりスマホを見ると悠からラインが来ている。



 【明日は例の日かな?俺も一緒についていきたい、一緒に行こうぜ】



 自分で言うのもあれだけど、悠は私のことが好き過ぎるところがある。彼は毎日飽きもせず、私と仕事が終わったあと会うことができるか確認をしてくる。



 彼いわく、今日一日を私と会うことを楽しみに頑張れるからだと言っていた。私も会えると嬉しいのでなるべく会うようにしている。



 毎朝、起きるとこうやって悠からラインが来ていることを、私は密かに楽しみにしている。しかし、この正直な気持ちを本人に伝えると喜んでめんどくさそうなのであえて言わない。



 私は【いいよ。一緒に行こうね】と返信し起き上がった。



 壁に掛かったカレンダーを見ると、ついこの間まで四月だったのにもう六月なんだという気持ちになった。



 窓を開けると生暖かいアスファルトに熱されたような温風が入ってきて初夏を感じさせる暑さだ。今年もこれからあっという間に梅雨がきて夏になるのだろう。時間というのは、ぼーっとしているとすぐに過ぎていく。



 私には時間がない。運命の日は近いのだ。



 我が家はマンションの七階で空がよく見える。



 憂鬱な気分でも紛らわすために空を眺めていると、太陽が東の空から徐々に薄暗い街と空を照らす。



 さっきまでの薄紫だった世界は一変し徐々にうろこ雲は桃色に染まり、その上空には藍白の空が広がっている。



 そして、太陽は白く優しい輝きを放ちながら晴れ晴れと空に昇った。


 見事な朝焼け空だ。



 「綺麗」、と思わず口から溢れた。さっきまで、悪夢でざわついていた心が徐々に落ち着いていく気がする。



 落ち込んだ時にいつも空を見るのは、もう子どもの頃からの癖のようなもので、間違いなく私の習慣になっている。



 「長くても冬までだな」と一言呟き、朝焼け空を見つめて私は決意した。



 私にはやらなくてはならないことがある。伝えなければならないことがある。でも、そんなことを思ってもすぐにはできない。だから、せめてこの一日一日を大切に精一杯生きるのだ。



 部屋を出て、リビングに行くとお母さんが「金白駅のパン屋で、あんたが言ってた世界一美味しいあんバター買っといたわよー」と、朝食に私の好物のあんバターを珈琲と一緒に出してくれた。



 世界一美味しいあんバターというのは、以前に私がお母さんに話したあくまで私の感想なのだけれど、お母さんは覚えてくれていたようだ。



 「お母さん、ありがとう」と言って私はあんバターを口に運ぶ。フランスパンの生地に挟まれた、厚切りのバターにあんと少量のきな粉の絶妙なハーモニーが口の中に広がる。



 「やっぱこのあんバターが世界一美味いっ」と、私が言うとお母さんが「あんたが喜んでくれると買ってきた甲斐があるわ」と微笑んだ。



 私のことをいつも一番に考えてくれるお母さんに、私は心の中でいつもありがとうと呟く。



 お母さんは、お父さんが食べ終わった皿を洗いを始めた。



 お父さんは、これから出勤するらしく姿見の前でスーツに着替えている。



 私をいつまでも子ども扱いして心配性なところのあるお父さんは、厳格な一面があるけれどお母さんには絶対頭が上がらないところが可愛い。



 そして、私が大好きな音楽と出会えたきっかけを作ってくれたのもお父さんの趣味のピアノのおかげだ。



 お父さんが「いってきます」と玄関のドアを開けた。私とお母さんは「いってらっしゃい」とほぼ同時に言った。



 『いってきます』とは、どこかへ行っても再び帰ってくる。という意味だとこの前テレビの雑学番組でやっていた。



 私は朝食を終えて、顔を洗い化粧をし、ベージュのワンピースに着替えたあと、一年記念日に悠とお揃いで買ったペアリングを左薬指にはめた。



 仕事着やエプロンを鞄に入れて、使い古したミニアコースティックギターの入ったギターケースを肩に掛け、玄関でスニーカーを履いた。



 その時、玄関の棚に置いてある花瓶の花が昨日と変わっていることに気づいた。



 淡い白色の小さい花が何個も咲き誇っている。



 「あ、お母さん玄関の花、霞草にしたんだ」



 「霞草はあんたが一番好きな花だって言ってたでしょ」



 「そうー。ありがとうっ。癒されたー」



 私は「いってきます」と玄関から聞こえるように大きい声でお母さんに言うと、お母さんのいつもの「いってらっしゃい」という声が帰ってきた。



 よし。今日も頑張ろう。



 私の周りには、私の大切で大好きな人たち、大好きな空がある、花がある、音楽だってたくさんある。



 しかし、人間なんていつ何があるかわからないということを私は知っている。この今の幸せもいつか終わりを迎える儚いものだと思うと、とてつもない寂しさに襲われる。


 いいや、暗いことばかり考えるのはやめよう。玄関のドアを開けると澄んだ青空がどこまでも広がっていた。マンションの七階からは街の景色がよく見える。



 今日もいいことありますように



 私は二つの決意を胸に今日も一歩を踏み出した。