話は戻って…

7月中旬頃にプロ野球機構のコミッショナーから通告が来た。

通告は、任意退職の勧告だった。

プロ野球機構は、私に対してプロ野球の審判を続ける意思があるのかどうかを回答せよ言う勧告書を送付した。

まだ子供が小さい上に、住宅ローンが払えなくなった…

生活再建が困難なっている…

私はどう決断を下せばよいのか分からなかった。

妻は、私に口うるさく言うた。

「あんた…どうするのよ…」

通告が書かれている書面を見た私は、対応にクリョした。

「はっきりしてよ!!」

妻は、煮え切らない声で私に言いました。

思い悩んだ末に、私はプロ野球の審判をやめることにした。

これ以上…

審判を続けることは…

できない…

私はこの時、体を悪くしかけていたのでゆっくりと体を休めたいと思った。

だから私は、プロ野球の審判をやめた。

住宅ローンは、あらかじめ加入していた地震保険で対応することができたのでどうにか解決した。

しかし、まだ問題は山積みされていた。

ひとつは、私の子供が小学校入学前なので気持ちが不安定であった。

本来なら福島県いわき市にあるA小学校に入学する予定だったが、A小学校が巨大津波による火災で校舎がショウシツしたので行けなくなったので、妻の実家から歩いて8分のところにあるB小学校に入学先を変更することになった。

ふたつ目は、妻のシングルきょうだいの生活問題であった。

妻の弟はカーナビの部品の組み立て工場で働いていたが、震災の1年前に雇用契約を打ち切られた。

無職の状態ですごく不安定になっていた義弟は、40代半ばを過ぎていた。

妻の弟は、実家からの援助がなければ生きて行けない状況であった。

妻は弟に『早く定職についてよ!!』と口うるさく言い続けた。

しかし、思う通りに行かないのですごくイラついた。

そんな中で、私はシューカツをしていた採用をもらえなかった。

そんな失意の中で、私は両親の知人からの紹介で北関東と新潟県に展開している独立野球リーグ・関越チャンスリーグの審判に再就職した。

お給料は、プロ野球の審判の時の4割に減った。

足りない分は、妻がスーパーストアのパートタイマーで稼ぐと言うた。

だからもう一度がんばろうと思った。

もう一度、奮起して一から出直そう…

そう心に決めて再出発したが、翌年4月の初めに深刻な問題が発生した。

4月9日頃であった。

私の子供が小学校に入学する日だった。

私の子供は、精神的な不安定が原因で激しく泣き出した。

そして、私の子供はワーワー泣きながら体育館から飛び出した。

妻は、我が子を追いかけて校庭に行った。

妻は、泣いている我が子に対して『わがまま言わないの!!ここがあなたの行く小学校なのよ!!いわきには帰れないのよ!!』と怒鳴りつけた。

我が子はワーワー泣くばかりだった。

次の日、私の子供は学校を休んだ。

私も、独立リーグで審判員をしてはいたが仕事を休みがちになった。

この時、私はちょくちょくとめまいを起こすようになった。

私の子供が学校に行かなくなった。

妻は『どうすればいいのよ…』と言うてオタついた。

私は、しんどい声で妻に言うた。

「オレはしんどいのだよ…」
「しんどいしんどい…って…どうして逃げるのよ!!子供が学校に行けるように何とかしてよ!!」
「うるさい!!そんなことよりも義弟《あのクソガキ》をなんとかしろ!!ケームショでもいいから出て行けと言えよ!!オレはめんどくさいことに関わりたくないからな!!」

妻を怒鳴りつけたあと、私はふすまを思い切りピシャッと閉めた。

部屋に入った私は、ふとんの中にもぐりこんだ。

この時、私はひどい頭痛に襲われた。

まさか…

私にも…

似たようなことが…

私の同期のプロ野球の審判員のうち、5人の同期が三大成人病で亡くなったのを聞いた。

そう言えば…

この頃…

足がだるい…

朝起きた時に…

ひどい頭痛が起こる…

もうこの時、私の体は悲鳴をあげた。

それなのに、妻は私に『お給料を入れてよ!!弟を助けてよ!!』と口うるさくいいつづけた。

もう限界だ…

これ以上、続けていくことができない…

それから私は、5月の始めに行われた試合を最後に休職することになった。

つらかった…

しんどかった…

両親が敷いたレールから外れることができなかった…

結婚した時期も遅かった…

妻の実家とも、ソリがあわなかった…

仕事仕事で…

家庭から逃げたから…

バチが当たった…

私は、そうつぶやいた。

それから2ヶ月に、私は妻と離婚した。

同時に、子供の親権も放棄した。

そして私は、四国へんろの旅に出た。