それからぼくは、あいまいな気持ちでテレビのワイドショーのリポーターを8年間続けた。

時は、昭和54年の1月末頃だった。

大阪北畠にある大手都市銀行の支店で、猟銃を持った男が立て込もって行員を人質に取った凶悪事件が発生した。

事件発生から42時間後であった。

店内にサット隊員が突入した。

容疑者の男が突入したサット隊員に射殺された。

事件の翌日、ぼくは大阪へ行った。

ぼくは、事件の容疑者の男の親族にインタビューした。

しかし…

「帰ってくれ!!あんたらはわしらを見世物《みせもの》する気か!!」

容疑者の男の親族から帰ってくれと言われたが、ぼくは粘り強く取材を続けた。

しかし、ぼくは容疑者の男の母親から『訴えてやる!!』と凄まれた。

他にも、芸能人や政治家のゴシップのリポーターもしたけど、どれもダメだった。

失敗ばかりが続いていたので、ぼくはキャップから呼び出しを受けた。

キャップは、ぼくにこう言うた。

「お前はクビだ!!」
「クビ?」
「お前さんの性格ではムリだ!!」

キャップからクビだと言われたぼくは、2つにひとつだと提示された。

ひとつは、関東6県にある支局のうちどこかへ異動する…

もうひとつは、庶務課《ショム》に行く…

…であった。

過剰な報道の理不尽な現場を見たぼくは、大きな決断を下した。

ぼくは、あらかじめ用意した辞表をキャップに叩きつけた。

そして翌日、ぼくは体調不良で入院した。

これを機に、ぼくは報道関係の仕事からキョリを置くことにした。