(ここからは、裕介さんの言葉で語られます)

ぼくは、昭和37年に大学を卒業した後にDテレビに入社した。

アナウンサー志望で入局したけど、新人研修で大きな失敗をしたのでアナウンサー失格のラクインを押された。

その後、私は裏方の仕事に回された。

与えられた仕事は、スポーツの生中継がある会場でセッティング…

実況アナにお茶くみをする…

…下積み同然の暮らしを送った。

それでもぼくは、アナウンサーになりたいと言い聞かせながらがんばった。

ぼくが面接を受けた時だった。

面接官の社長さんから『アナウンサーになったら、何をやりたいですか?』と聞かれた。

ぼくは『スポーツ中継の実況アナをやりたいです。』と答えた。

特にやりたかったのは、プロレス中継の実況アナであった。

昭和40年代は、テレビの創世記であった。

活躍の場は増えると思ってDテレビに入局した。

しかし、ぼくは同期のアナウンサーに先を越された。

ぼくは、置き去りにされた。

昭和46年の秋頃だった。

ぼくは報道局の最高責任者から『お前、テレビリポーターをやってみないか?』とお声をかけられた。

平日の午後3時台の枠に放送されているワイドショー番組がリニューアルされる…

リニューアルを機に、フレッシュな若手のリポーターさんを起用したい…

…と番組プロデューサーのFさんが言うた。

やっとぼくにチャンスがやって来た…

…が、そこから地獄の日々が始まった。