ふたつのコーヒーカップを載せたローテーブルを挟んで座り、しばらく沙耶と尚樹は無言で向き合っていた。カップを上げ下げする、カチャカチャという音だけが響く。
「尚樹……私、自分の気持ちがいまはわからないの」
浮気されていたから――という言葉を呑み込んでいると、尚樹が口を開く。
「なあ、それでどこにいたんだ?」
「え?」
パチパチと目を瞬くと、尚樹が訝しげに問いを重ねてきた。
「いままでどこにいたんだよ? オレ、ずっとお前の帰りをここで待ってたんだからな」
沙耶はうつむく。上司である藤本の家にいたことに罪悪感を抱くより、田辺美保子とは夜を過ごさなかったようであることに安堵した自分に嫌気が差していた。
(私は尚樹を許せるのかしら……?)
「沙耶、聞いてるのか?」
声音がキツくなり、沙耶はハッとして顔を上げる。ばつが悪そうな表情に、尚樹はピンときたらしい。急に責めるように声を荒らげてきた。
「課長と帰るとこ、見てたヤツがいるんだ。それは本当なのか?」
「……うん」
嘘はつきたくないというのが、沙耶の心情だ。尚樹が自分に嘘をついて浮気をしていたからこそ、自分は誠実でありたいと思った。だから素直に先を続ける。
「さっきまで、確かに藤本課長に家にいたわ」
途端にガシャン! と音がした。驚いた沙耶の目の前で、尚樹がカップを叩き割っていた。それは付き合い始めの当初、そろいで買ったカップだった。悲しみが自然と込み上げてくる。
「な、尚樹っ」
うろたえる沙耶の前の尚樹は完全に怒っていた。
「なら、お前も同罪じゃねえか! 藤本さんと浮気してたんだろう!?」
「ちがっ……話を聞いて!」
「いや、聞く気なんてないね。お前が課長に抱かれたなんて、想像もしたくねえ!」
「尚樹!」
すっくと立ち上がると、尚樹は帰り支度を始めてしまう。
沙耶はテーブルを回り込み、慌てて尚樹に取りすがった。
「何もなかったわ! それは本当よ! 藤本課長に聞いてもらって構わないから!」
「信じられるかよ!」
「尚樹……っ」
先に浮気をした尚樹が怒れる立場ではないと思うのに、つい下手に出てしまう自分が本当に情けない。でも沙耶は尚樹にまだ気があったので、どうしても彼を引き留めてしまう。
「お願い、帰らないで。話そうって決めたじゃない。お互い腹を割って話し合って、すっきりさせようよ……っ」
しかし尚樹は、ギリと唇を噛み締めた。
「許せねえっ……課長がまさか、そんなことをするヤツだなんて」
「課長は悪くないの! 私が悪酔いしたから、介抱してくれただけで!」
「だったら朝まで一緒にいる必要はないだろう!?」
まさにその通りだったので、ぐうの音も出ない。
黙りこくった沙耶に、さらに尚樹が詰め寄ってくる。
「お前も浮気したんじゃねえか……同罪だろう?」
「だ、だから浮気はしてな――」
「もういい」
沙耶の言葉に被せ、尚樹は冷めた目で彼女を見つめた。
「オレのほうが頭冷やさねえとダメだわ」
尚樹は踵を返し、沙耶の部屋を出ていく。
沙耶はそれを止めることもできず、呆然とするしかなかった。
バタン! と無機質に閉められた扉の前で、ペタンと座り込む。無意識にスマホを取り出して、尚樹からきていたメッセージを見返してみた。そこには沙耶を案じる言葉が連なっており、彼の気持ちを考えて沙耶の目に涙の膜が張られる。
「こんなに心配してくれる優しい面があるのにっ……なんで浮気なんかするのよ……!」
ぶわりと感情が膨らみ、涙があふれてきた。
思わずスマホを叩きつけようとしたところで、着信が告げられる。液晶画面に目を落とすと、そこには“間島亜希子”と出ていた。沙耶と同じ年で、大学時代から付き合いがある親友だ。すべてにおいて平均的な沙耶とは違い、長い黒髪のスタイルのいい美人で、大学ではモテモテだった。沙耶は即座に通話ボタンをタップしていた。
「もしもし? 亜希子?」
『沙耶? 元気してる?』
何も知らない亜希子は、電話口で溌剌とした声を上げる。
沙耶は迷わず亜希子に現状を吐露していた。
すべてを聞き終わり、亜希子は「う~ん」と悩むように言う。
『まずは尚樹くんのほうをなんとかしなきゃじゃない? あんたたち付き合ってるんだし、その、田辺美保子? っていう女が関わっていたところで、真の彼女はあんたなんだからさ』
「それは……わかってるんだけど……」
歯切れの悪い沙耶に、亜希子が畳みかける。
『ほかの女なんか気にすることないって。男なら気の迷いはよく起こることだし、尚樹くんのこと好きなんでしょう?』
「……うん……たぶん」
“たぶん”と付けたのは、いまの自分の気持ちに確信が持てなかったからだ。
亜希子はそれを汲み取り、ある提案をしてくる。
『いっそのこと、その上司と付き合っちゃえば?』
「は、はあ!?」
あまりに突飛すぎる言葉に、沙耶は愕然とした。
「む、無理だよ! 尚樹がいるし、それに――」
『でも好きだって言われたんでしょう?』
「う、うん……」
あれは本当の告白だったのだろうか。飄々とした藤本の真意はつかめないままだ。
『私なら浮気男よりイケメン上司を選ぶけどなあ』
クスクスと笑う亜希子に、笑い事ではないと言いたい沙耶である。
「藤本課長のほうは冗談に決まってるよ。それより尚樹のこと、ちゃんとしないと……」
『わかってるじゃない』
「うん。でも、許せないんだよ……田辺美保子のこと考えるだけで、腸が煮えくりかえる思いがするの」
『そっか。今度会えない? 直接話そうよ』
「賛成。予定確認してから、連絡するね」
そうして亜希子との通話を終えると、また虚しさが胸のうちから込み上げてきた。
尚樹のことは好きだ。けれど、浮気は許せない。でもだからといって、すぐに別れるという決断に至れない。これまで積み上げてきた期間とそれに付随した情があるからだ。
藤本課長のことも頭にはあったが、とりあえずいまの性急な課題は尚樹のことだと、沙耶は頭を抱えた。
「尚樹……私、自分の気持ちがいまはわからないの」
浮気されていたから――という言葉を呑み込んでいると、尚樹が口を開く。
「なあ、それでどこにいたんだ?」
「え?」
パチパチと目を瞬くと、尚樹が訝しげに問いを重ねてきた。
「いままでどこにいたんだよ? オレ、ずっとお前の帰りをここで待ってたんだからな」
沙耶はうつむく。上司である藤本の家にいたことに罪悪感を抱くより、田辺美保子とは夜を過ごさなかったようであることに安堵した自分に嫌気が差していた。
(私は尚樹を許せるのかしら……?)
「沙耶、聞いてるのか?」
声音がキツくなり、沙耶はハッとして顔を上げる。ばつが悪そうな表情に、尚樹はピンときたらしい。急に責めるように声を荒らげてきた。
「課長と帰るとこ、見てたヤツがいるんだ。それは本当なのか?」
「……うん」
嘘はつきたくないというのが、沙耶の心情だ。尚樹が自分に嘘をついて浮気をしていたからこそ、自分は誠実でありたいと思った。だから素直に先を続ける。
「さっきまで、確かに藤本課長に家にいたわ」
途端にガシャン! と音がした。驚いた沙耶の目の前で、尚樹がカップを叩き割っていた。それは付き合い始めの当初、そろいで買ったカップだった。悲しみが自然と込み上げてくる。
「な、尚樹っ」
うろたえる沙耶の前の尚樹は完全に怒っていた。
「なら、お前も同罪じゃねえか! 藤本さんと浮気してたんだろう!?」
「ちがっ……話を聞いて!」
「いや、聞く気なんてないね。お前が課長に抱かれたなんて、想像もしたくねえ!」
「尚樹!」
すっくと立ち上がると、尚樹は帰り支度を始めてしまう。
沙耶はテーブルを回り込み、慌てて尚樹に取りすがった。
「何もなかったわ! それは本当よ! 藤本課長に聞いてもらって構わないから!」
「信じられるかよ!」
「尚樹……っ」
先に浮気をした尚樹が怒れる立場ではないと思うのに、つい下手に出てしまう自分が本当に情けない。でも沙耶は尚樹にまだ気があったので、どうしても彼を引き留めてしまう。
「お願い、帰らないで。話そうって決めたじゃない。お互い腹を割って話し合って、すっきりさせようよ……っ」
しかし尚樹は、ギリと唇を噛み締めた。
「許せねえっ……課長がまさか、そんなことをするヤツだなんて」
「課長は悪くないの! 私が悪酔いしたから、介抱してくれただけで!」
「だったら朝まで一緒にいる必要はないだろう!?」
まさにその通りだったので、ぐうの音も出ない。
黙りこくった沙耶に、さらに尚樹が詰め寄ってくる。
「お前も浮気したんじゃねえか……同罪だろう?」
「だ、だから浮気はしてな――」
「もういい」
沙耶の言葉に被せ、尚樹は冷めた目で彼女を見つめた。
「オレのほうが頭冷やさねえとダメだわ」
尚樹は踵を返し、沙耶の部屋を出ていく。
沙耶はそれを止めることもできず、呆然とするしかなかった。
バタン! と無機質に閉められた扉の前で、ペタンと座り込む。無意識にスマホを取り出して、尚樹からきていたメッセージを見返してみた。そこには沙耶を案じる言葉が連なっており、彼の気持ちを考えて沙耶の目に涙の膜が張られる。
「こんなに心配してくれる優しい面があるのにっ……なんで浮気なんかするのよ……!」
ぶわりと感情が膨らみ、涙があふれてきた。
思わずスマホを叩きつけようとしたところで、着信が告げられる。液晶画面に目を落とすと、そこには“間島亜希子”と出ていた。沙耶と同じ年で、大学時代から付き合いがある親友だ。すべてにおいて平均的な沙耶とは違い、長い黒髪のスタイルのいい美人で、大学ではモテモテだった。沙耶は即座に通話ボタンをタップしていた。
「もしもし? 亜希子?」
『沙耶? 元気してる?』
何も知らない亜希子は、電話口で溌剌とした声を上げる。
沙耶は迷わず亜希子に現状を吐露していた。
すべてを聞き終わり、亜希子は「う~ん」と悩むように言う。
『まずは尚樹くんのほうをなんとかしなきゃじゃない? あんたたち付き合ってるんだし、その、田辺美保子? っていう女が関わっていたところで、真の彼女はあんたなんだからさ』
「それは……わかってるんだけど……」
歯切れの悪い沙耶に、亜希子が畳みかける。
『ほかの女なんか気にすることないって。男なら気の迷いはよく起こることだし、尚樹くんのこと好きなんでしょう?』
「……うん……たぶん」
“たぶん”と付けたのは、いまの自分の気持ちに確信が持てなかったからだ。
亜希子はそれを汲み取り、ある提案をしてくる。
『いっそのこと、その上司と付き合っちゃえば?』
「は、はあ!?」
あまりに突飛すぎる言葉に、沙耶は愕然とした。
「む、無理だよ! 尚樹がいるし、それに――」
『でも好きだって言われたんでしょう?』
「う、うん……」
あれは本当の告白だったのだろうか。飄々とした藤本の真意はつかめないままだ。
『私なら浮気男よりイケメン上司を選ぶけどなあ』
クスクスと笑う亜希子に、笑い事ではないと言いたい沙耶である。
「藤本課長のほうは冗談に決まってるよ。それより尚樹のこと、ちゃんとしないと……」
『わかってるじゃない』
「うん。でも、許せないんだよ……田辺美保子のこと考えるだけで、腸が煮えくりかえる思いがするの」
『そっか。今度会えない? 直接話そうよ』
「賛成。予定確認してから、連絡するね」
そうして亜希子との通話を終えると、また虚しさが胸のうちから込み上げてきた。
尚樹のことは好きだ。けれど、浮気は許せない。でもだからといって、すぐに別れるという決断に至れない。これまで積み上げてきた期間とそれに付随した情があるからだ。
藤本課長のことも頭にはあったが、とりあえずいまの性急な課題は尚樹のことだと、沙耶は頭を抱えた。