(よう)ちゃん見てこのリップ」
「わっ、めっちゃいい色! 使っててどう? 落ちない? うるおいは?」
「あははっ、めっちゃ食いつくじゃん。本当に陽ちゃんはメイク好きだよね」
「うん、大好き。その為にバイトしてるから」
「本気だ! それがいつも可愛い秘訣かー」

 「わたしも頑張らなきゃなー」なんて、高校に入ってから仲良くなった友達の紗央里(さおり)ちゃんは言うけれど、紗央里ちゃんなんてリップ塗ってるだけで可愛い。元々長いまつ毛に、憧れのまんまるで大きな優しい目。私とは、大違い。

「何言ってんの! 紗央里ちゃんの方がいつもどんな時もずっと可愛いよ」
「陽ちゃん……! そうやって言ってくれる所かっこよくて好き!」

 ぎゅっと抱きついてくれる紗央里ちゃんは私の憧れが詰まった女の子だった。見かけだけじゃない、素直で可愛い女の子。私は可愛くないんだから、もっとたくさん頑張らなくちゃならない。
 可愛くなるのは嬉しい。目標に近づけてる毎日は楽しい。私は今、可愛い女の子だって言ってもらえるようになったし、自分でもそんな自分が好き。私は今の私が好き。
 ……だけど。

「お疲れ様でしたー」

 放課後になり、そのまま向かったバイト先を出るのはいつも二十一時を過ぎた頃だった。ファミレスでホールを担当しているから、動き回って汗をかく分、上がる時はメイク直しが欠かせない。
 今日もいつも通りメイクを直して休憩室を出て、真っ直ぐに駅に向かって帰る。駅に着いてからまず向かうのは化粧室。なぜならもちろん、メイクが崩れていないか確認する為だ。

「よし。風が強くて涙出たけど、酷いことにはなってないね」

 バイト上がりと変わらない私の顔がそこにあって、ほっとしたのち、またやってるなぁと自分に落ち込んだ。最近、いつもそうなのだ。少しでもメイクが崩れてるんじゃないかと思うと不安で仕方なくなって、確認しないと気が済まない。
 前は常に手鏡を持ち歩いてたんだけど、すると確認がとまらなくなって、紗央里ちゃんに、「そんなに確認しなくても陽ちゃんは可愛いよ」と言わせてしまうことになった。無理に褒めさせてしまったことに反省して、それからは持ち歩かないようにしている。
 それでも、そわそわそわそわ気持ちがおさまらなくて、結局スマホのインカメ使ったり、窓に映る度に確認しちゃったり、ついしてしまう自分の行動に最近ではもう嫌気がさしていた。
 いつも一緒にいるけど、紗央里ちゃんはこんなことをしない。だっていつ見たって可愛いから。でも私は違うから、どんなに可愛くなったって本当は違うから、だから、結局怖くなってそれがやめられない。
 はぁー……なんか疲れたなぁ。
 化粧室を出るとホームへ向かい、やって来た電車に乗り込んだ。ここから一時間電車に揺られる間にいつも、ついうとうとしてしまう。
 長い通学時間とバイト後の疲れがどっとのしかかってくるタイミング。いつもは寝てしまうわけにはいかないとぐっと堪えているけれど、(だって寝たらメイクが崩れるから)でも今日は……なんだか、疲れてしまった。
 少しならいいよね。少しだけ、目を瞑るだけなら……。
 そしてそのままぐっすりと、私は眠りについてしまったらしい。何故ならそこからの記憶がこれっぽっちもなかったから。


「ここ、どこ……?」

 目を覚ました私は、全然知らない景色の駅にいた。
 ガタンと車両が停まった感覚で目を覚ましたあと、扉が閉まります、のアナウンスで寝ぼけて勘違いしたまま慌てて飛び降りた電車。あれ? ここじゃない!と、振り返った時にはもう電車は発車した後だった。
 完全にやらかした……明日も学校なのに。看板にある駅名を確認して急いで帰路を検索すると、どうやら私の家のある駅から十五分程乗り越した先にある駅だった。
 良かった。そこまで遠くないし、まだ終電もある。寝過ごしたなんて初めて——ん? 寝過ごした?
 やばい! メイク崩れてるかも!
 急いで化粧室に向かって鏡の前に立つ。多少のヨレはあるけれど、酷い有様になっているわけではなかった。よかった……。じゃあ早く帰らないと。
 どうやらこの駅は改札を出ないと反対側のホームへ行けないらしく、乗り越し料金を払って一度改札の外に出る。ICカードをチャージしようと発券機の方へ向かうと、駅の外から何か聞こえてきた。それはギターの音に乗った、男性の歌声だった。
 ストリートライブ、というやつだろうか。チャージを終えて振り返ると、駅前は丸くロータリーになっており、少し離れた所にある古びた時計台の前でその人はアコースティックギターを弾きながら歌っていた。たった一人で、観客は誰もいない。
 時刻はもうすぐ二十三時になる頃だ。平日のこの時間帯では帰宅する人もほとんど居ない。一人でぼんやりとした街頭に照らされながら歌うその人に、特に何も思わず改札の中へ向かおうとすると、

「——嘘で塗り固まった自分が重い。だけど誰も気づいてないから、この重みを知るのは自分だけ」

 聞こえて来たフレーズが、ふと耳に留まる。

「——知られたくない。だから隠すのだと君は言う。誰にも見せたくない、見せられない、こんな自分」

 もう一度演奏をする彼の方を見る。細く脆そうであるのに不思議と芯のある声色が胸を撫でるように染み込んできて、心の奥底にある大きな感情を震えさせるような歌声だった。

「——ついこの間までは良かったのに。きっと自分が欲張りなせい。本当はもう、そんな自分に疲れてる。本当は受け入れて欲しいんだ、ありのまま全部」

 そんな声で紡がれるこの歌は、この歌詞は、なんだか私のことを言っているように思えた。嘘で固めることに必死になっている自分が重たくて、最近の私は疲れてる。ずっと、ずっと。だけどやめるわけにはいかない。だって私は可愛くなりたい。今の私を保たなければ、可愛くいられない。
 ……でも、それは本当の自分じゃない。そうなりたかった、でも本当はなれない、偽物の自分。それを必死になって守ってる。寝過ごしてこんな知らない駅に来てまでして鏡の前に立ってた自分……本当、何やってるんだろう。
 ずっとずっと、これが続いてくの? だってそんな私しか可愛いって言ってもらえないんだから、仕方ない。でも、本当は、本当は……っ、

「——知ってるよ。だから僕はここにいる。君の嘘は君の心。君の努力。誰も知らない、僕だけの宝物」

「!」

「——君の全部が、僕の大切な宝物」

 ……それはまるで、私の全てを受け入れられた感覚。曝け出すことのなかった私の心が今、この場で、彼の歌で、ぎゅっと抱きしめてもらえたように感じた。
 こんな……こんなことが、あるんだ。
 それが最後の一曲だったのか、あっさりと彼は片付けをしてその場を去っていって、私は黙ってその後ろ姿を見送りハッとする。早く帰らないと。

「……あ、」

 動き出した瞬間、スッと頬を伝った涙に気づいてそっと拭った。メイク崩れちゃう、と頭を過ぎったけれど、すぐに少しくらい大丈夫かと思い直して、真っ直ぐにホームへと向かう。今はただ温かいのに切なくて、泣き出したくなるようなこの気持ちで胸をいっぱいにしていたかったから。こんな自分は初めてだった。
 私の為に作られた歌ではないとわかってる。私以外の人が聞いてもきっと、自分の心を歌った歌だと感じた人は同じような気持ちで胸がいっぱいになるのだろう。
 でも今この時は、この瞬間だけは、私の為にこの歌は存在していた。
 私の嘘は私の心で、私の努力だと言ってくれた。そんな嘘ごと宝物のように大切に思ってくれる人がきっとこの世に居る——そんなこと考えたこともなかったけど、そんな奇跡みたいなこと、あるのかもしれないって信じてもいいのかな。
 やって来た電車に乗って、座席に座るとすぐにスマホを取り出したけど、検索しようにも曲名がわからず、歌詞を入れても出てこなかった。一度も聞いたことの無い曲だった。てことはつまり、あの人が作った曲なのかな。
 そうだったら素敵だと思う。彼の声は儚く、優しく、そして力強く、私にこの歌を届けてくれた。二十三時を過ぎ、深夜の電車に揺られながらずっと、ずっと彼の歌声が私の中で流れていた。